二〇〇三年、アメリカ人の友人からメキシコのある人気テーマパークの話を耳にした。子どもたちが様々な職業を疑似体験することができ、その報酬としてテーマパーク内で使用できる通貨が支払われるという。六十歳まで勤めた外食事業の会社を定年退職したばかりで、比較的時間に余裕はある。興味を持ちメキシコまで赴いた。それが「キッザニア」との出合いだった。
「エデュテインメント(エデュケーションとエンタテインメントを合わせた造語)」というコンセプトの下、メキシコのキッザニアでそれぞれの仕事に没頭する子どもたちを見たとき、かねてから考えていた日本の「子ども」「若者」に対する危機感が心に浮かび上がった。前職では、学生アルバイトと話す機会も多く、目標が持てなかったり、人との触れ合い方が苦手だったりという若者たちを気懸かりに感じていた。教育問題は社会的にも「問題だ、問題だ」という声が出てはいるが、それに対する解決策や方向性は出されていないという現状がある。特に幼い年代については施策がまったく見えてこない。ここで、キッザニアという目に見える形で糸口を提案することは、日本の教育に一石を投じることになるのではないかと考えたのである。
私がまず念頭に置いたのは、福沢諭吉の『学問のすゝめ』のことだった。当時は識字率が低く、学問どころではなかった。このままではいけないと著したのが『学問のすゝめ』だったわけである。それから百年以上経った今、私はキッザニアを「体験のすゝめ」として提案したいと考えた。知識を詰め込むだけの勉強に偏って、失ってしまった強さ、人間らしさを幼いうちから身につけてほしいという意味での「体験のすゝめ」である。
日本には以前から「子どもはお金のことなど考えなくていい」という考え方があった。私自身もその考えに疑問を感じてはいなかった。しかし、キッザニアとの出合いから、幼いうちに社会性を学んだり、実社会で起きていることを経験したりすることは意味深いことだという考えに変わった。つまり小さいうちから「社会人」として行動することを学ぶということである。
見方によっては、赤ん坊でも「社会人」だ。食事やおむつなど、実際は親が買っているとしても、彼らは間接的に消費という形で社会に参加している。「子どもにお金の話など」という考え方もあるかもしれないが、お金の価値や働く意味を知ることは、自分の生きる世界を知ることに他ならない。
キッザニアだけで教育が変わるというような大げさなことは考えていない。ただ、発想の仕方や人との向き合い方など、彼らの心の中に体験によって身につく何かが少しでもあればいいと考えている。「この問題にはこの答え」というハウツーとは異なる解決の仕方を身につけられるのは、やはり体験でしかないからだ。
近代国家が中世国家と違う重要な特色は、それが主権(sovereignty)国家であることである。
主権は唯一絶対、最高の権力であるといわれている。まことに言いえて妙である。
正確にいえば、主権者が主権を発動すれば、国民の「自由」「生命」「財産」を、自由に使用、収益、処分をすることができる。具体的にいえば、こと財産に関しては、主権者は自由に課税することができることを意味する。自由徴税権である。
徴税だけではなく、これを奪い取ることも可能である。また、これを自由に収益のために使うこともできる。と言い切っても、これは現在であればこそ可能であって、中世封建の世にあれば、必ずしもそうとはいえまい。
王といえども徴税は自由ではなかった。また、主権者といえども、「不入権」を有する都市の住人の財産で、勝手に収益を上げることは許されなかった。
では、国際社会において主権国家(主権を持つ国家)と認められるのは、いかなる国家であろうか。
それは完全に資本主義国家になることである。
前期的資本(Vorsintflutliche Kapital)を用いている国は、どんなに豊かであっても、一見進歩しているように見えても、ダメである。例えば、一九世紀から二〇世紀初めのトルコ、中国など。日本も安政の不平等条約おいては、そのように治外法権、関税自由権を認められなかった。それ故に、日本はなにがなんでも完全な資本主義国家になることを目指して、急ぎに急いだ。
アメリカが独立したとき、「独立宣言」では人民主権を掲げたが、目標とされたことは何一つ実現されてはいなかった。三つのテーマ―「生命」「自由」「幸福を追求する権利」のいずれもがまだ単なる虚名であって、自由とは程遠かったのである。
まず生命であるが、白人は有色人種に対して「殺すも自由」の如く振る舞ったのであった。アメリカ・インディアンがどれだけ殺されたことか。一九世紀末に行われた国税調査のとき、先住民であるアメリカ・インディアンの人口はたいへん減少していた。白人がインディアンに接したが最後、大虐殺も思うままで、全滅させることも珍しくはなかった。
また、奴隷は合法的であり、独立宣言の起草者トマス・ジェファーソン(第三代アメリカ大統領)など建国の父でさえ、当時の慣習として多くの奴隷を使用人として持っていた。初婚の白人女性の妻亡き後、使用人の一人であった黒人女性を“妻”として何人かの子どもをもうけている。ちなみに、ジェファーソンはロックの信奉者であった。
では、自国の主権はいかなる場合に確立されるのだろうか。
他国の主権をどのように取り扱っているのか。これを日本とアメリカの場合について考えてみよう。
日本の場合は、安政の条約によって、不平等条約を押し付けられた。開国時、このことに気づいた日本は、岩倉具視右大臣を団長として使節団を欧米に送り、交渉に当たらせた。
そして得た答えは、「完全な資本主義になることが対等な条約を結ぶための条件」ということであった。前期的資本では、どんなに発達していてもダメである。これが条件であった。
そこで日本は完全な資本主義になるために全力を尽くすことに専念した。日本の憲法が明治二三年に発布され、明治一八年から二四年にかけて、民法、刑法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法をことごとく大改造して制定した。すべてを日本式に改造して、全力投球をした。
とはいうものの、高度に発達したヨーロッパ資本主義は、あまりにも進みすぎていた。真似をするといっても、後進国家・日本には無理であった。真似しようにも真似しきれない。どうしても無理が起こる。
日本の現実は、「法」に対するエトスがあまりにも遅れすぎていた。いいかえれば、「法」というものが何なのかを理解することができなかった。真似しても真似しきれないことをしようとすれば、結果的にとんでもないことになるのが落ちであろう。
例えば、アメリカで「He is Law itself.」といえば、最高の誉め言葉である。ところが日本においては、「法律が歩いているような人」といった悪口になってしまう。
主権は、当事国が自由に行使しうることになっている。ただし、特異な体験をしたときの例外もありうる。
例えば、先の大戦に於ける硫黄島の戦闘である。日本軍の戦闘ぶりがあまりにも激しかったので、アメリカですら主権行使の慣行を変じた。戦勝国は敗戦国に軍備制限を押し付けるものである。古代のローマ・カルタゴ戦争から、第一次大戦に至るまで、みな然りである。しかし、第二次大戦に限っては例外であった。アメリカは講和条約ではなく、なんと憲法改正、特に「第九条第二項」によって、これを日本に押し付けたのである。
さらに、硫黄島の戦闘が、その後の日本を如何に有利にしたか、まことに計り知れないものがある。
そのときの日本は、B29の猛爆撃と米潜水艦の無警告攻撃によって戦力は枯渇し、力は尽き果てていた。もはや日米戦争では、本土決戦以外にはなにもなしえないと思われていた。
硫黄島の日本軍があまりにも強かったので、アメリカも考えた。アメリカは原爆を日本に落とし、ソ連をけしかけて対日戦に参加させたのである。これらのことは、結果的には日本に計り知れない利益を与えることになった。
原爆を投下されたことによって、日本はまだ戦えるのに、米国が余りに残酷で非合法な兵器を用いるから、やむなく休戦したという形になった(原爆という米国が用いた残虐な兵器は、一九〇七年のハーグ条約違反である)。
ソ連参戦もまた然り。いきなり火事場泥棒的にソ連が攻めてきて、日本人数十万人をシベリアに抑留したので、日本人の反ソ感情は決定的になり、共産革命の可能性は消えてしまった。共産主義革命こそ、近衛公が最も恐れていたことであり、当時、その可能性もなくはなかった。それがソ連の参戦によって、一気に消え去ったのである。「快なるかな! 幸なるかな!」
硫黄島の善戦のおかげで、アメリカの主権発動の形は、これほどまで日本に有利になったのである。ポツダム宣言の内容が日本に有利になったことはいうまでもない。
アメリカに比べて、日本の主権はどのように発動すべきであったか。かつて日本は主権の発動形式として、属国(満州、朝鮮、台湾、南洋諸島、蒙古)の扱いをどうすべきだったかについて述べておこう。
まず、対満州国の場合を見てみよう。戦後、極東軍事裁判をはじめ、あらゆる証言の場において、関東軍に比べ、昭和天皇の御立場は満州国にとっても十分納得しうるものであった。愛親覚羅溥儀(ルビ=あいしんかくらふぎ)・満州国皇帝の証言は、関東軍トップに対しては非難、悪口の連続であったが、昭和天皇に対してはまったく何も言っていない。これをどうみるか。
満州国は、確かに日本の属国であった。植民地とまでいえば、いいすぎか。しかし、本当は日本の理想の実現であった。生活水準などは、日本本土よりずっと高かった。南満州鉄道は、本土の東海道本線よりもずっとよかった(燕は時速六三キロ、亜細亜号は時速八二キロ)。この満州国の高度成長は、戦後日本の高度成長の手本となったが、これは当時の商工省の局長だった岸信介(戦後首相となる)が指導したものである。
次に、朝鮮に対してはどうであろうか。朝鮮は王国のまま維持すべきであった。朝鮮王は、大日本帝国・天皇の臣下にするのである。何故ならば、それまでも朝鮮王はずっと中国皇帝の臣下であったのだから、これで十分満足なはずだ。
次に台湾をどうするか。台湾人には内地人と平等な選挙権を与え、そのほかすべてを内地人と平等にする。そして、清の王の一人を台湾王に封ずる。すべてを朝鮮王の如くにする。これなら台湾人もことごとく満足するだろう。
蒙古はどうするか。徳王など、ジンギスカンの子孫と称している人を選んで、蒙古王、あるいは蒙古皇帝に封ずる。中国では、皇帝と王とではすごい違いだが、日本人にその区別はわかりっこないから、どちらでもよい。
そこにユダヤ人も入れて、ダリウス王の子孫だとする者を王に選ぶ。ユダヤ人はえらく喜ぶだろうが、こうすればヒトラーさえもどうしようもあるまい。日本がロンメル軍を助けて、英戦艦を全滅させた功績だといったなら、文句のありようもないであろう。
かくて大日本帝国は、朝鮮、台湾、満州、蒙古の四大王国を従えて空前の大帝国となる。そして、ロンメルと分有した石油のおかげで、アメリカにも比すべき戦力を蓄えることになるのである。
このとき、教育大改革も必須である。すなわち、「高等理芸学校」をつくるのである。中学二、三年生くらいから入学でき、数学一科目のみ試験をする。教師はみな一流の数学者とし、徹底的に数学・物理学の教育を集中する。学費はもちろんタダ。手当は十分。ゆくゆくは大技術者が輩出することは必至である。これで日本にも、大政治家が出るかもしれない。
最後に、日本の原子力対策はどうするか。三国同盟締結と同時に、ハイゼンベルク博士に原爆を発注すれば、博士はどうしてもつくらざるをえなくなる。そして、日本からも超一流学者をドイツに派遣して学ばせる。また、ジェット機、ロケット機、戦車、潜水艦も同様。この「日独ラッパロ」協定からは、実に多くの新兵器が次々発明されることはほとんど自明であったろう。
今から一〇年前の一九九七年、私は当時刊行が進んでいた『高杉良経済小説全集』(角川書店、全一五巻)の最終巻として、『金融腐蝕列島』を書き下ろしました。バブルの後遺症により、日本のメガバンクが相当に傷んでいるという危機意識を持っていた私は、その実態を小説作品に昇華することが、経済小説を書く作家の使命だと考えたためです。
同作の刊行と相前後して、日本の金融界を揺るがす大事件が立て続けに起こりました。旧第一勧業銀行と野村證券による総会屋への利益供与が発覚し、さらには北海道拓殖銀行や山一證券といった大手金融機関が次々と破綻したのです。九七年はまさに、金融大激動の年だったと言えるでしょう。
そうした時代状況を先取りしたと評された『金融腐蝕列島』は、多くの読者を獲得しました。文庫本だけでも一〇〇万部を超えるベストセラーとなったのです。
しかしその後も金融界の混乱が収まることはありませんでした。住専処理問題、メガバンク再編など、次々と大きな波が金融界を襲ったことは読者諸氏もご記憶のことでしょう。そうしたテーマを描くため、私は『金融腐蝕列島』をシリーズ化し、第二作『再生 続・金融腐蝕列島』、第三作『混沌 新・金融腐蝕列島』と書き継いできました。
そして今回、シリーズ第四作かつ最終作として刊行するのが『消失 金融腐蝕列島【完結編】』なのです。
前作『混沌』は、二〇〇一年時点までの金融界を描いて終わっています。現実の世界では、東京三菱、みずほ、三井住友、UFJの四大金融グループが出そろい、金融再編が一段落したと思われた時期でした。
ところが同年四月、小泉純一郎政権が誕生し、経済財政担当大臣に竹中平蔵氏が就任したことで、事態はさらなる激動へと進むことになります。
私は小泉・竹中両氏を、アメリカ言いなりの「亡国コンビ」と名付け、彼らが政権中枢に居座った間に行なった経済・金融政策を批判し続けました。とくに竹中氏が中心となった朝令暮改式の金融改革は、メガバンクに対する、国家のいじめとさえ言える苛烈なものだったことは間違いありません(マスメディアが政権に迎合し、政策実現を後押しした点も押さえておくべきでしょう)。
そうした失政に加え、デフレ不況下における不良債権問題の深刻化が背景となって、ついにメガバンク再編の最終段階、つまり、東京三菱によるUFJの救済合併という事態が引き起こされるのです。
UFJ銀行は、収益面で九三年に三冠王(業務純益、経常利益、税引後利益で都銀トップ)を達成した三和銀行が中心となって生まれたメガバンクです。なぜ、あれほど強かった三和が消えなければならなかったのか? その疑問を解明したいという強烈な思いが、私を『消失』執筆へと駆り立てたのです。
ですから『消失』では、マクロ面からは小泉・竹中ラインが招いた「政策不況」の惨状を、ミクロ面からは窮地に追い込まれたメガバンクの赤裸々な実態をモデルにして描きます。
もちろん小説ですから、実際に起きたことを参考にしながらも、フィクションとして書かれていることは言うまでもありません。
このようにテーマが壮大であるため、『消失』は前三作以上に長くなる予感がしています。たぶん、単行本で全四冊くらいにはなるでしょう。
今回刊行される第一巻では、頭取の怒りに触れた主人公が、左遷先の大阪で不良債権と苦闘する姿が描かれます。つまりミクロの部分が中心となっています。
第二巻以降では、マクロな金融政策に関する部分が徐々に表に出てきます。金融庁の理不尽な指示で銀行の現場が苦悩する場面も登場します。また、第一巻ではややヒーローであり過ぎた主人公が挫折する姿も描きたいと思っています。
いずれにせよ、私は経済小説においてはリアリティこそが生命線だと考えています。取り上げられた業界で実際に働く人が「こんなことはあり得ない」と感じるような作品しか書けなくなったら、作家生命は尽きるというくらいの気持ちでいます。
ただし、小説はエンターテイメントですから、リアリティだけではなく、面白さやロマンも欠かせません。本作の主人公が若い女性と恋愛する設定などは、読者の願望を反映するものでもあります。
リアリティとエンターテイメントを融合させ、最終的にはビジネスマン、とくに苦悩するミドルを勇気づけられるような作品が書きたいと常に願っています。
『消失』はテーマ自体は重い作品ですが、最後まで読んだときには、爽やかな読後感を得られる作品にしたい、そう考えながらまだまだ先の長い執筆に取り組んでいます。読者の皆さんの応援を願ってやみません。(談)
『消失 金融腐蝕列島【完結編】』
高杉 良:著
●1785円(税込)
market research
【カテゴリー】マーケティング
市場全般の動向を科学的に捕捉するため、あるいはマーケティング施策を立案するために、情報や資料を収集し、分析を行うこと。マーケット・リサーチを行う具体的な場面としては、新規事業のビジネスプランニング、新製品の導入、新市場への参入、既存製品の再活性化などがある。狭義には「マーケット」は顧客を指すが、広義には競合の状況やマクロ環境なども含む。
マーケット・リサーチを行う際には、「まず、とにかく数字を集めてみよう」というのではなく、何らかの仮説を持ちながら、その検証をすることが求められる。仮説とは、ある論点に関する仮の答えであり、「○○のようなニーズが生まれているのではないか」「わが社の製品は顧客の支持を失いつつあるのではないか」「この製品をターゲット顧客に届ける媒体としては△△が最適なのではないか」といった形で表せる。
一般に、初期段階の仮説(粗い仮説)を検証する際には、個々の意見や事実そのものを重視し、またオープンクエスチョンの形で質問することが多い。逆に、より具体的な施策に関する仮説を検証する際には、母集団全体の傾向等、統計的処理を重視し、またクローズドクエスチョンを多用することが多い。
マーケット・リサーチは多くの企業で用いられており、実際に効果を上げているが、イノベーティブな製品・サービスに関しては、本来市場性があるにもかかわらず、しばしばネガティブな答えが出ることも多い。これは、顧客がその製品・サービスを実感としてイメージできないことなどがその理由である。
マーケティング・リサーチには、様々な方法がある。代表的な情報収集の手法として、少人数を対象としたフォーカス・グループや、大規模で専門的な調査などがある。
また、定量データの分析手法には、因子分析、クラスター分析、コレスポンデンス分析、コンジョイント分析などが挙げられる。
[関連語]市場ニーズ、仮説検証、ビジネスプラン、因子分析、クラスター分析、コレスポンデンス分析、コンジョイント分析
factor analysis
【カテゴリー】マーケティング
相関関係の強い変数の集合をつくり、それぞれに共通する特性を探る手法。セグメンテーションやポジショニングなどの際に用いる。
因子分析を行う際には、様々な質問を設定する。そして、これらを基に、全体の傾向を説明する度合いの高い因子をいくつか選び出す。
因子は、特定の設問がそのまま1つの因子に対応しているのではない。それらの設問の背景にある潜在的な要素であり、その因子の組み合わせに特定の質問が対応しているのである。言い換えれば、因子分析は、直接には測定できない潜在的な因子を、様々な質問から逆算して求めているのである。
因子分析は、説明変数の数を減らせることに加え、様々な項目間の関係性を理解しやすくなるというメリットがある。
[関連語]クラスター分析、コレスポンデンス分析、コンジョイント分析
cluster analysis
【カテゴリー】マーケティング
異なる性質のものが混ざり合っている中から、データに基づいて類似性の高いものを集めてグループをつくり、分析する手法。セグメンテーションやポジショニングなどの際に用いる。
たとえば顧客の選好度をクラスター分析することによって、売り手視点ではなく、顧客の視点に立ったセグメンテーションやポジショニングのヒントを得ることができる。
クラスター分析には、階層クラスター分析と非階層クラスター分析がある。階層クラスター分析では、樹形図というツリー様の図表を用いて、クラスター間の距離などを視覚的に示す(生物の進化樹形図と同様の形である)。
[関連語]因子分析、コレスポンデンス分析、コンジョイント分析
conjoint analysis
【カテゴリー】マーケティング
いくつかの製品属性を組み合わせた複数の代替案を回答者に提示し、好ましさをランク付けしてもらい、回答者の選好を分析する手法。
コンジョイント分析を用いることで、製品の価格や色、デザイン、品質などの要因が、それぞれどのくらい選好に影響を与えているかを調べることができる。
分析は、直交表を用いて行う。要因(属性)やその内容(水準)の選択が重要である。ここで要因とはたとえば商品の色、内容とは赤、白、黒などを指す。
コンジョイント分析は、理論的にはスマートな分析方法であるが、要因や内容の数が多くなると、選択肢が増えすぎてしまい、回答者が正しく順位付けできなくなってしまうというデメリットが指摘されている。
[関連語]クラスター分析、コレスポンデンス分析、コンジョイント分析
好評発売中!MBAシリーズ
『[新版]MBAマーケティング』
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「資料についてご説明させていただきます」
かような言い回し、私は嫌いで使わないのだが、読者はいかがであろうか。
この「……させていただきます」という表現は、このところの流行になっているように思われる。街を歩けば「新製品の紹介をさせていただきます」や「値引きさせていただいています」などという掛け声が聞こえてくる。
この表現がよく使われるようになったのは、最近のことではないかと私は思う。
学術報告の冒頭に、「論文を発表させていただきます」と宣言することが定型になりつつあるようで、学会に行くとこれを一日中聞かされて私はイライラとして過ごすことになるのだが、かつてはそのようなことはなかった。国会審議の記録を見ると、最近はここでも「させていただく」人が非常に多いことがわかる。昭和時代の議事録を見ると、この形式の表現はあるにはあるが、それほど多くはないから、かつては国会でこの表現が使われることは頻繁ではなかったと想像される。
さて私は何故これが嫌いなのか。その理由を説明するためには、中学生のころに習った文法を用いて、「させていただきます」の構造を調べておく必要がある。
まず、「していただく」というのは「してもらう」の謙譲表現なので、これは話し手である自分のことをへりくだろうというものだ。「説明していただく」であれば、説明するのは話し手である自分以外の人物であり、敬意に値するのはその人物である。
一方で、「させる」とは使役表現である。すなわち、人に強いて仕事をさせるという形で使うものだ。たとえば、「説明させる」とは、誰かに説明という作業を強いるという意味である。
ところが、「ご説明させていただきます」という場合、その発言をする話し手本人が、続いて説明しようというわけだから、構造がややこしい。文法を整理して解釈するならば、尊敬に値する人が説明するように強いたので、私はその命令に従い説明するのだという意味になろう。
してみると、文法的には尊敬されるべき誰かが命令を出しているはずであるが、それが誰であるのかがはっきりしないことに気づく。尊敬されるのが話の聞き手ならば、あえて具体的に言わずに省略するほうがむしろ素直であろうが、実際には命令主は聞き手であるとは限らない。
もともとこの表現は「……させてもらう」という口語表現から生まれているようだ。おそらくこれは、かつて商売人が用いていた表現で、「お客様のご好意で」とか「神仏の恵みにより」という枕詞が省略されたものである。すなわち、させるのは神様や仏様、あるいは神仏と等価なお客様である。すると「もらう」では神様への謙譲の気分が足りないから、この部分は「いただく」と表現する。高貴な方に命じられて、自分は仕事をさせられているというわけだ。
こう考えていくと、「させていただきます」はへりくだって丁寧であり、尊敬の極みを表現しているかのようにみえても、実際にその尊敬の対象はまったくはっきりせず、ことによると具体的な形をもたない神仏かもしれないという、マカ不思議な構造をもっていることがわかる。
文法的には必ずしも誤りはないこの表現になぜ嫌な感覚がつきまとうのだろうか。
こんなことがあった。テレビを見ていたら、ある政治家が「政府案には反対させていただきました」とのたまう。
これは面白くない。いったい、そうさせたのは誰だというのだろうか。誰かの命令で反対するというわけだから、自分の信条で発言できるよう何重にも身分が保証されている国会議員の発言としてはいかにも不適切であろう。平気で「させていただく」人を、私はとうてい信頼することはできない。「政府案には反対いたしました」となぜ言えないのであろうか。
それとも、自分の意思を貫くと誰かに命でも狙われるという事情でもあるのだろうか。してみると、かの国会議員は、我が国における民主主義の根幹にかかわる由々しき問題を示唆しようとしているのかもしれない。「させていただく」政治家を見ると、私はそのようなことを心配し始めてすっかり疲労してしまうから、このところうっかりテレビをつけることもできないのである。
この例では、本来話し手本人の責任で処置されるべき事柄が語られているはずなのに、それを「させていただく」と表現することによって、話し手がその責任を放棄しているかのようにみえる。ここがまさに私の気に入らないところなのである。責任を負うべき当事者が堂々と責任を放棄し、あまつさえそこにあえて尊敬と丁寧で味付けして述べるなどは、慇懃なる無礼というものではないだろうか。
しかし、これだけいたるところで「させていただく」人が多いからには、その背景に合理的な理由があるはずだ。それを読み解く鍵は、交渉における基本戦略の一つ、当事者ではない第三者に交渉させるという戦略の効果である。
交渉で多くを得ようとすれば、相手から妥協を引き出さなければならない。よって、交渉を有利に進めるためには、自分には妥協する意思がないことを強く示すことが大切である。しかしながら、利害関係がある当事者には、交渉を早くまとめて安心したいという気持ちがあるから、どうしても妥協しがちになるものだ。そのため、あえて直接の利害関係がはっきりしない第三者に命じて交渉させることに戦略的妙味が生じるのである。
例を用いて考えてみよう。商店のレジにいるアルバイト店員と価格交渉をする人はほとんどいない。それはアルバイト店員と価格交渉をしても、店員が妥協して値引きに応じる可能性が乏しいと知っているからである。なぜそれがわかるかというと、その店員は商店の経営者から定められた値段で売るように命じられているということを知っているからである。すなわち、目の前にいる人物は誰かに命じられたことをするだけだということを知っているから、自分のほうから妥協するのだ。
この事情を店員の立場からみると、自分は命令どおりに動くだけで、決定権のない第三者であるということを客にわかってもらっているからこそ、面倒な価格交渉に巻き込まれることなく、てきぱきと業務をこなせるという恩恵にあずかっていることがわかる。
ここが、注目すべき点だ。すでに述べたように、「させてもらう」とは、自分は命じられたので、自分はその命令に従うという意味だ。ここで「もらう」のではなくあえて「いただく」ことで、自分がこの命令主に対して従属した身分であるということをはっきりとさせることができる。つまり、自分を支配する高貴な人からの命令だから、自分ではどうしようもない、だから私に対して交渉を持ちかけようとしても無駄だと宣言しているのだ。それは、やっかいな混乱を避け、自分のしたいことを粛々と進めたいという戦略的な気持ちの裏返しに他ならない。すなわち、仕事を命じる誰だかわからない人物を、あえて「いただく」ことで恐れおののき尊敬しているというところがこの表現の戦略的な要点なのである。
してみると、「ご説明させていただく」とは、自分は説明するだけの使用人だから、厄介な質問や反論は受け付けませんよと言っている理屈だ。実際、この表現を多用する人は、そう思って使っているのではないだろうか。この表現が巷(ルビ=ちまた)にて蔓延する背景には、そういった責任逃れ気質の広まりがあるのではないだろうかと私は想像している。
戦略的駆け引きなしに、「させていただく」のが自然な状況もありうることを、最後に付け加えておく。
西武から大リーグのレッドソックスに移籍した松坂大輔選手が、大リーグへの移籍を希望して球団と交渉し、移籍を球団側が了承したのちの記者会見で、「大リーグに挑戦させていただくことになりました」と発言したように私は記憶している。
これなどは適切な用法とみなしてもよかろう。内実はどうであれ、形式上は選手の運命を決められるのは球団側であるというのが日本プロ野球界のルールであるから、松坂選手が勝手に挑戦するというのは妙な話で、運命を決められる球団が松坂選手に挑戦させたというほうが理屈に合う。しかも、挑戦させたのは松坂選手の希望をくみとったためだから、松坂選手がへりくだって、「させていただいた」というのにも理由があるように思われる。すなわち、させる側の球団と、いただく側の松坂選手の役割と権利関係が文法構造ときちんと対応しているからこそ、この場合の「させていただく」に意味が通っているである。
さすれば、「○○様のご配慮で、ここに出店させていただきました」とか、「○○先生のおかげで、留学させていただきました」などという表現は、させる側が尊敬の対象になる人物であることがはっきりと記述されているから、まあよいだろう。
最後に少々うがった見方を一つ。そもそも「させていただく」という表現は、自分が聞き手に腹を立てていることを示すために、意図して無礼を働くべく用いるのが、本筋の用法ではないだろうか。お茶の間コメディーで、喧嘩をした妻が「実家に帰らせていただきます」というような、あの手の使い方が本当なのではないか。少なくとも、私にはそれが一番自然に聞こえる。
今年の五月から、「三角合併」が解禁になった。これに対して、経済界は「外資の脅威が強まった」と警戒している。しかし、外国の資本が日本に入ってくることは、従業員の立場からすれば、歓迎すべきことだ。なぜなら、それは、経営に刺激を与え、日本経済を活性化すると期待されるからだ。
このように考える理由は、一九九〇年代以降の世界が大きく変わったにもかかわらず、日本がそれに対応できていないことだ。とくに、日本企業の利益率が欧米諸国に比べて著しく低い。それは、企業のビジネスモデルが新しい時代に対応していないことを意味する。
この基本的原因は、日本企業が資本面で国際競争にさらされていないことにある。直接投資受入残高のGDPに対する比率を見ると、日本は二・二%でしかなく、イギリスの三六・六%、アメリカの一三・一%などとは比較にならないほど低い。日本は、資本面で「鎖国している」としか言いようのない状態なのだ。
このため、経営者が直接に競争にさらされることがない。競争は経済的なパフォーマンスを向上させる最も基本的な手段であるが、日本では製品の競争はあっても、経営者や資本面の競争がない。
したがって、経営パフォーマンスを向上させるには、資本面で日本の企業を開かれた構造にし、経営者の競争を活発化させる必要がある。本書は、外国からの資本と企業の流入を促進して、日本経済を活性化することを提案している。
先に書いた「大きな変化」とは、日本やドイツなどの産業大国が没落する半面で、アメリカ、イギリス、アイルランドなど、「脱工業化」を実現した国が目覚ましい発展を続けていることを指す。日本の一人当たりGDPは、九〇年代初めには主要国中でトップだったが、二〇〇五年には、OECD(経済協力開発機構)諸国中で一四位にまで落ち込んだ。八〇年代末にイギリスの一人当たりGDPは日本のそれの半分程度しかなかったが、〇五年には日本より高くなった。また、つい最近までヨーロッパで最も貧しい国と言われていたアイルランドの一人当たりGDPは、日本のほぼ一・五倍である。
世界の先進国において、経済活動のなかの製造業の比重と一人当たりGDPの間に、明らかな逆相関が見られる。中国が工業化した世界で、製造業中心の産業体系を維持しようとすれば、「賃金などの要素価格が貿易を行なう国の間で均等化する」という「要素価格均等化定理」によって、賃金は低下せざるをえない。「格差問題」と言われる現象の基本には、このことがある。
イギリスやアイルランドに脱工業化をもたらしたのは、資本開国である。イギリスでは、ビッグバンと呼ばれた金融業の自由化を進めた結果、シティは、アメリカやドイツの金融機関が活躍する場になった。これは、「ウィンブルドン現象」と呼ばれる。しかし、それはイギリスを衰退させたのではなく、雇用を創出し、イギリスを繁栄させた。アイルランドも、外国企業の誘致によって新たな経済活動を切り開いた。
個別企業を見ても、日本企業の立ち遅れが痛感される。たとえば、インターネットの検索サービスを提供するグーグルは、一九九八年にスタンフォード大学の大学院生二人が創業して二〇〇四年に株式公開を行なったばかりの会社だが、その時価総額は日本企業のそれをまたたく間に抜き、現在では時価総額がグーグルより大きい日本企業は、トヨタ自動車一社だけになってしまった。
また、日本の総合電機メーカーは、アジア諸国の新興企業に押され、いまや見る影もない。従業員一人当たりの時価総額で見ると、日本の総合電機メーカーは、グーグルの数百分の一にしかならない。
個々の企業のビジネスモデルだけでなく、日本の経済政策そのものが、先に述べた構造変化に対応していない。
九〇年代以降の物価下落は、世界経済の構造変化とグローバリゼーションの結果であったにもかかわらず、国内要因による「デフレ」と捉えられ、超金融緩和が行なわれた。金融緩和・円安政策は、世界経済の構造が激変するなかで古いタイプの産業構造を延命させた。ここにこそ、現在の日本経済が抱えるすべての問題の根源がある。
法人税の減税を行なっても、古い構造をさらに引き伸ばすだけのことにしかならない。経済政策を大転換させる必要性は、喫緊のものである。
本書脱稿後に、「ふるさと納税」構想が急浮上した。これに対する批判は『週刊ダイヤモンド』誌上に書いたのでそれを参照していただきたいのだが、「まやかし政策」と言わざるをえない低レベルの政策だ。
本書のなかで、法人税減税による活性化戦略を「まやかし経済学はやめにしよう」と批判した。しかし、最近の経済政策は、さらに質が低下しているのである。
経済政策論議をなんとかまともなレベルにできないだろうか。これが、本書の背後にある切なる願いである。
『資本開国論』
野口悠紀雄:著
●1890円(税5%)
パスポートを紛失した。帰国した成田で入国手続きを普通に終えたのだから、そのときは確かにあった。成田からJRを乗り継いで帰宅して、カーゴパンツの膝のポケットに入れていたはずのパスポートがなくなっていることに気がついた。どう考えても不思議だ。弾みで中のものが落ちるようなポケットではない。どこで消えたのだろう。でも思い悩んでいる余裕はない。
まずは警察に遺失物の届けを出して、次に旅券事務所に連絡した。なくしたパスポートの失効と新しいパスポートの申請。必要な書類はいろいろ。警察の紛失証明書に加え、紛失一般旅券等届出書やら縦四・五×横三・五の写真とか、住民票に戸籍抄本に運転免許証に印鑑。
戸籍抄本に住民票。もちろんそんなもの家に常備しているはずがない。そもそもなぜ二つ必要なのだろうか。この二つの書類に免許証や印鑑が必要な理由は、本人であることを証明するということなのだろうけれど、なぜこんなに多く、手を変え品を変え必要なのだろう。まあ仕方がない。もしも誰かに悪用されたらもっと面倒なことになる。事態は急を要するのだ。僕は戸籍抄本と住民票を入手するために市役所に行く。受付で窓口を訊ねる。戸籍課と市民課。
市役所には他にもいろいろな課がある。生活支援課に課税課に国民年金課。商工観光課に男女共同参画担当室に道路課に治水課。住宅課に公園緑地課に宅地課。生涯学習担当室に社会福祉教育課。……人の営みは複雑だ。早足で階段を駆け上がる。感心している場合じゃない。急がなくては。
「ここに印鑑を押してください」
窓口の職員は、書類のその個所を指で示しながら言った。バッグの底を手で探りながら、僕は思わず吐息をつく。まずいなあ。確かに入れたと思ったのだけど。
「……サインじゃダメですか」
「ダメです」
「運転免許証がありますけれど、これもダメですか」
「ダメです」
忘れた僕がそもそも悪いのだけど、まったく取り付く島がない。にべもない。でもどうすればいいのだろう。時刻はもう四時を過ぎている。今すぐに家に取りに戻ったとしても、受け付けの時間が終了する四時半までにはきっと間に合わない。そうなるとまたパスポート紛失と再発行の手続きが一日遅れる。いや明日はどうしても外せない用事がある。二日遅れる。
そのとき、職員が小声で何か言った。もごもご。
「はい?」
「……一〇〇円ショップがあります。歩いて五分ほどです」
はあと僕は頷いた。さっぱり意味がわからない。
「たぶん森ならそれほど珍しい苗字ではないから、きっとあると思います」
やっとわかった。要するに一〇〇円ショップで三文判を買って来いと言っているのだろう。
「それでOKですか?」
「はい」
「わかりました」
そう言ってから僕は、「市に抗議します」と言った。
「はい?」
「ここに本人がいる。運転免許証もある。サインしたっていい。でもあなたは僕を本人とは認めてくれない。そして一〇〇円ショップで判子を買って来いという。つまりダイソーが中国の工場に発注した大量生産の三文判のほうが、ここにいる僕自身よりも、僕自身のアイデンティティを濃厚に所持しているとあなたは主張するわけですね」
カウンターの向うに座ってパソコンの画面を見つめていたはずの他の職員たちが、いっせいに振り向いて僕を見ている。目と口を丸くして僕の話を聞いていた職員は、「……判子を買って来いとは言ってません」と不満そうにつぶやいた。
「話をずらすんですか」
「それはあなたのほうでしょう。私はアドバイスをしただけです。嫌なら家に帰って机の横の棚の引き出しから印鑑を持ってきてください」
「……なぜ僕の印鑑がある場所をあなたは知っているのですか」
職員の顔色が変わった。思わず口が滑ったらしい。やはり個人情報保護法の威力は凄まじい。どうやら僕の私生活はずっと看視されていたようだ。
僕は顔をあげる。机に座る他の職員たちは皆、素知らぬ顔で目の前のパソコンの画面を見つめている。同時に僕は硬直した。背後に立つ誰かが、銃口らしき硬いものを僕の背中に押し当ててきたからだ。
「黙って歩け」
背後に立つ何者かが耳もとで囁いた。
「おまえのパスポートは組織が預かっている」
……このあたりでやめよう。書くまでもないとは思うけれど、途中までは僕の過去の体験。後半は脚色。というか出来の悪い創作。で、今回のテーマは、もちろん後半ではなくて前半だ。
実際にはそのときの僕は、結局は一〇〇円ショップで印鑑を買ってきて申請の書類に捺印した。急いでいたことは事実。パスポートを再発行するためには、ここで戸籍抄本と住民票をもらわなければならない。しかたがない。これ変ですよね、くらいは職員に言ったはずだけど、確か黙殺されたと思う。
判子をめぐるこの体験については、アイデンティティの問題だけでなく、行政はもうひとつの過ちを犯している。役所は文字どおりの官僚機構なのだから、手続きに下から上へといくつかの段階を設定することは、ある程度は理解する。でもならばせめて、下位のシステムで要求したことを、上位のシステムで繰り返してはならない。戸籍抄本をとるために印鑑を要求するならば、渡されたその戸籍抄本はすでに、お役所的なアイデンティティを十分に満たしていると考えられる。だから次の段階に進むときには、印鑑を不要とせねばならない理屈になる。書類を作成するための印鑑なのだ。印鑑自体に意味はないはずだ。
ネット上で印鑑を検索すると、全日本印章業組合連合会というサイトがヒットした。創立は明治三二年。昭和三一年に現在の名称に改称したこの会は、全国で九つのブロックで形成され、会員数は平成九年六月の段階で三五七四名に及ぶという。
要するに判子屋さんの横のつながりだ。明治三二年の設立はそれなりに古いと思うけれど、一〇年前の日付とはいえ、三五七四名の会員数は決して多いとはいえない。
このサイトによれば、判子の黎明は紀元前五五〇〇年頃に遡る。時代は古代メソポタミア文明期。石や粘土、貝殻などを素材とした「印」が、すでにこの頃から使われていた。単なる所有の表明としてだけではなく、呪術的な意味もあったようだ。
中国でも紀元前一一世紀の殷の時代に、銅を素材にした印がすでに作られていたという。漢の時代には地位や権力の象徴としての印が誕生する。後漢の光武帝から日本に贈られた「漢委奴国王(カンノワノナノコクオウ)」の金印もその一つだ。
なるほど。「漢委奴国王」の金印については、たしか日本史の授業で習った記憶がある。確かにあれは判子だ。
こうして古代メソポタミアで誕生した印章は、オリエントからエーゲ文明、ギリシャ・ローマ文明によってヨーロッパに広がり、またアジアにおいては、古代中国を経て日本に伝えられた。
文明とほぼ同時期に発生した印鑑は、一九世紀後半の欧米で、「自らの証」としての位置を手書きのサインに譲る。これは意外だった。欧米ではもっと以前から、サイン文化が根付いていたと思い込んでいた。
考えれば当たり前。一九世紀以前、つまり中世の時代においては、読み書きができる人はとても少数派だった。だからサインが意味を持たなかった。でも二十世紀に入り、教育の普及とともに、サインは欧米においては一気に広まった。それはそうだ。印章は偽造されたらどうしようもない。
ところが日本では、サインという習慣は根付かなかった。正確には、行政が根付かせなかった。
明治六年に発せられた太政官布告には、実印が捺されていない公文書は裁判において認められないことが明記されている。こうして法的に実印の重要性が確立され、それが未だに続いている。
調べた範囲では、印章がこれほどに行政手続きで大きな意味を持つ国は、日本以外に見当たらない。その要因は何だろう。日本の独自性。そう考えれば、もうひとつの要素が浮かび上がる。
戸籍だ。
「戸」と呼ばれる家族集団を単位として、国民の身分関係を明確にすると同時に、徴兵や徴税などをシステム化するうえでとても都合がいい戸籍制度は、天皇制を上位構造に置く明治政府が明治五年に発令した壬申戸籍が源流だ。家父長的で男子優先、封建制や家制度などの要素ととても相性がいい(というかそのものかもしれない)この制度は、国民を統治する為政者にとっては、とても有効なシステムだ。日本国籍を有する者をすべて「家」単位で登録する戸籍は、その都合のよさゆえに、出生による差別や外国人差別などを再生産する土壌にもなっている。
この戸籍制度をかつて採用していたのは、日本、韓国、台湾の三国だけだった。書くまでもないと思うけれど、日本によって植民地支配を受けていた韓国と台湾は、皇民化政策の一環としてこの制度を押しつけられた。だから現在の台湾において戸籍制度は停止状態であり、韓国も戸籍制度からの離脱を進めている。
つまり、印章文化と同様に戸籍制度は、現在の世界では唯一、日本だけが持つシステムといえる。戸籍は家。個ではない。だからこの制度があるかぎり、個の表象としてのサインがこの国に馴染まないことは、ある意味で当たり前なのだ。
伝統は大事にしたいと僕も思う。むやみに破壊はしたくないし、町の判子屋さんを追い詰めることもしたくない。でも無意味なことは、少しずつでもいいから廃棄しなくては。特に行政レベルにおいてあまりに無自覚な印章文化が変わるとき、世界に類を見ない日本の戸籍制度も、きっと変化するはずだ。少なくとも僕のアイデンティティは一〇〇円ショップにはないし、身分や家によって規定されるものでもない。
ファンド・マネージャーにとって最も大事な指標は市場の指数を上回ることである。代表的な指数であるS&P500を一五年間にわたって上回り、前人未踏の大記録を達成したのが、ビル・ミラーである。残念ながら二〇〇六年はわずかながらS&P500に及ばず、一六連勝は成らなかったが、それでも運用自体はプラスであり、投資家にとっては充分な成果を挙げている。
彼はバリュー投資家として知られ、同じバリュー投資家としてあまりにも有名なウォーレン・バフェットと基本的な考え方は似ているが、銘柄選択の方法がかなり異なる。バフェットは、企業の事業がよく理解できない場合には、決して投資をせず、その結果、ハイテク関連には一切投資しないことで有名だが、ビル・ミラーはバフェットが避けるハイテク関連にも大きく投資している。
その好例がグーグルへの大量投資である。まだ一般的にはグーグルの評価が定まらず、新規上場に際してさまざまな物議を醸していたころのグーグルを、大量に購入したことがある。バフェットならまず買わなかっただろう。
しかし、決して無謀な投資をしたわけではない。ビル・ミラーは事前に大学教授やアマゾンの元役員たちによる専門家のチームをつくり、グーグルについて徹底的に調べたうえで決断したのである。その意味ではまったく新しいタイプのバリュー投資家と呼べるだろう。
バリュー投資家のバイブルとされているベンジャミン・グレアムの『賢明なる投資家』では応用できないハイテク関連の分野に、新しいツール・考え方を開発し、ヤフーやアマゾンなどへの投資を行い、大きな成果を挙げている。驚くことに、ヤフーやアマゾンをITバブル崩壊の前にはちゃんと売り抜けてもいる。まさに天才的な投資家だろう。
ハイテクに投資する一方で、必ずしもハイテクにこだわっているのではなく、アメックスや住宅関連などバリュー投資家好みの銘柄もちゃんと持っている。その意味では「全天候型バリュー投資家」と呼ぶのが正しいのかもしれない。
言うまでもないが、投資の要諦は企業の価値をきちんと理解し、その将来のキャッシュフローが読めることである。これがバリュー投資の基本であるが、とかく将来を読むのが難しいハイテク関連にも応用できることを実践し証明したのが、ビル・ミラーなのである。
『ビル・ミラーの株式投資戦略』
ジャネット・ロウ:著 三原淳雄/小野一郎:訳
●1890円(税5%)
経営コンサルティングの仕事をしてると、経営者や企業の幹部社員たちと話す機会が多い。その度に私は「聞く」ことの大切さを痛感している。なぜならば、相手は必ずしもアドバイスを求めておらず、話を聞いて欲しがっているからだ。 これは、コンサルタントを雇っている側も気付いていないのだが、彼らは自分で課題を見つけたがっているし、自分で問題を解決したがっている。ただ、自分の頭を整理するために、話を上手に聞いてくれる人を求めているのだ。コンサルタントに求めているのは、問題を解決してもらうことではなく、自分で問題解決するための手助けに過ぎないのだ。
これは、経営コンサルティングに限った話しではない。上司と部下の間でも、親と子供の間でも同じだ。ところが、相手の話をちゃんと聞くというのは想像以上に大変で、たいがい、「それは違いますよ」とか、「こうした方がいいですよ」などと、つい口を挟みたくなる。そうすると、こちらのアドバイスがいくら良い内容のものでも、相手から拒絶されてしまう。まずは、相手の話をそのままに聞くことが大切なのだ。そこで、「相手の立場になって考えろ」とか、「相手を受け入れろ」とか言われることになる。
確かに、そういう姿勢はとても重要だ。しかし、ついつい口を出してしまうのは、
これまで相手から痛い目に合わされたことがあったり、彼らの失敗の尻拭いをさせられた経験があるからなのだ。だから、彼らに心を許して、受け入れるゆとりなどもてなくなってしまうのだ。
そこで、「何度言ってもわからない奴だな」「こいつに任せておいたら大変だ」とばかりに、頭ごなしに指示を出すことになる……。
では、どうしたらいいのか? ここでは、その解決策の一つとして『ビジネスマンの「聞く技術」』から「感情のサマライジング」という会話術を紹介しよう。
これは、信頼感や一体感が薄い相手にも使える効果的なテクニックだ。まずは、あなたがどのような習慣で話を聞いているのか、次の質問に答えて欲しい。例えば、あなたの同僚が次のように言ってきたとしよう。あなたはどの様に切り返すだろうか。
【同僚からのコメント】
「私は本当に嫌なんです。朝来ると、処理しきれない量の書類が待っています。そして、色々な人から『これは至急だ』と言われるんです。とても対応できません。上司は好きだし仕事も悪くないけれど、休暇を取ることもままならないんですよ」
【あなたの反応は?】
(1)処理仕切れないほどの仕事を頼まれて、そのプレッシャーにうんざりしているんだね。
(2)上司以外からの依頼も君が全部やらなければならないのかい?
(3)君の仕事は多すぎるね。上司にちゃんと話した方がいいよ。
(4)そんな状況に陥るのは、君には計画性がないからじゃない?
稚拙な行動にはアドバイスしたくなるし(3)、要領の得ない話には質問したくなる(2)。時には批判もしたい(4)。しかし、「感情のサマライジング」を使うと、応答方法は全く異なる。
「感情のサマライジング」を使うには、一定の要素を決まったパターンに当てはめて話せば良い。
a)相手の置かれた状況を話し、
b)相手の感情を言ってあげて、
c)共感を示す語尾を付けるだけだ。
これで「感情のサマライジング」の完成である。
「感情のサマライジング」を使うと、相手は自分が認められたと感じる。「なかなか話のわかる奴じゃないか」となり、「こいつの言うことも聞いてやろうか」という気分になる。コミュニケーションは論理と感情でできているが、この紋切り型のセリフだけで感情面を押さえることができる。つまり、会話のスタート時点から、相手の心を開けるのだ。
聞くという作業は話すという作業に比べて、受身で消極的な姿勢と思われがちだ。しかし、聞き手の対応次第で、話の流れも感情の流れも大きく変わる。相手の聞き方が悪いと、不快な感情を掻き立てられ、良いアイディアも浮かばない。その反対に、上手く話を聞いてもらえると、気持ちが落ち着き、考えも整理される。聞くという行為を精神論ではなく技術論として捉えて活用すれば、リスニングは強力な武器になるのである。
『ビジネスマンの「聞く技術」』
マデリン・バーレイ・アレン:著 出野誠/菅由美子:訳
●1680円(税5%)
定価各1365円(税5%)
営業コンサルタント。営業サポート・コンサルティング株式会社、代表取締役。
群馬県高崎市生まれ。1995年、群馬大学工学部を卒業後、トヨタホームに入社。その後、7年間のダメ営業マン時代を過ごす。2002年、クビ寸前の状態から小さなきっかけによりトップ営業マンへ。以来、2005年度まで4年連続No.1営業マンとなる。2006年、売れなくて悩んでいる営業マンのサポートをしたいとの思いから、同社を退職し、コンサルティング会社を設立。独自に開発した【訪問しないでも売れる営業になる方法】は、業界を問わず全国の営業マンに支持されている。また、毎日更新している【住宅営業マン日記】も、ブログランキングで1位を獲得するなど、注目を集めている。著書に、『訪問しないで売れる営業に変わる本』(大和出版)がある。
『がんばっているのに、どうして売れる営業になれないのだろう?』あなたはこんな悩みを持っていないでしょうか?
私は長年そう悩んでいました。間違った方法でお客様にアプローチしていたために、どんなにがんばっても、売れる営業マンにはなれなかったのです。
私は11年間、大手住宅メーカーで営業活動をしてきたのですが、入社して七年間ものダメ営業マン時代を過ごしてきました。その間、何度辞めようと思ったかは数え切れません。訪問恐怖症になり、お客様を訪問できなくなった私は、時間を潰すために夜の街を徘徊したこともよくありました。訪問してもダメ、電話をしてもダメ。まさに八方ふさがりの状態だったのです。
そんな私が、あるきっかけで『営業レター』に出会いました。『営業レター』とはお客様の家に出すハガキや手紙のこと。おかげで私は、その後四年連続トップ営業マンになったのです。
私のような遅咲きタイプの営業マンは珍しいといわれています。何故かというと、トップ営業という方は遅くとも一年くらいで頭角を現してくるからです。私のように三〇歳になってから売れるようになるというは数少ないケースなのです。
全部とは言いませんが、天才の知恵やスキルはまねできません。私のような営業センスのないダメ営業がトップになった知恵やスキルなら、取り入れてもらいやすいと思います。
この本は、私がダメ営業マン時代、精神的支柱となったことやアイディアを書き留めたものです。
もちろん私は「営業レター」によって、トップ営業マンに変わりました。しかし、その他にも、ちょっとした考え方や習慣を変えたことにより、状況が劇的に改善されていくということを体験したのです。そのちょっとしたヒントで、あなたの営業活動が少しでも楽になればと思っています。
この本は使ってもらう本です。ですから、常に持ち歩いてください。
『もう、お客様のところに行きたくない』
『営業は向いていないんじゃないか?』
このように感じたときにこの本を開いてください。本を開いて数ページ読んでいただければ、そのときのお悩みを解決するためのヒントに出会えるでしょう。本書があなたの営業活動のお役に立てば幸いです。
「公的年金制度はいずれ破綻するのではないか?」「真面目に保険料を払っても払い損になるのではないか?」
急激に進む少子高齢化を背景に、公的年金制度に対するこうした国民の不信感が募っています。
現在の公的年金制度は、個人の貯蓄とは意味も意義も異なるもので、私たちが納めている保険料は自分のためのものではありません。現役世代が高齢者世代を支えるという「世代間扶養」という仕組みになっています。ですから、平均寿命まで元気で生きたとすれば、額だけでいうなら、生涯に受け取れる年金額は支払った保険料額を上回るはずです。
しかし、そうとは知らず、「払った保険料よりももらえる年金額のほうが少ない」という思いこみが多くの人たちの間に蔓延しています。そうした思いこみや、年金制度に対する疑心暗鬼が、国民保険料の未納率を増すという悪循環を引き起こしたほどです。
多くの人が抱える、こうした公的年金制度に対する誤解や不信感の一因になっているものに、「制度のわかりにくさ」があります。度重なる改正で、特例や経過措置なども多く、制度そのものがわかりにくくなっています。
目につく問題に場当たり的に対処してきたために、現在の公的年金制度はパッチワークのようにつぎはぎだらけで非常に複雑です。その結果、多くの人は「自分はいつから、いくらの年金をもらえるか」という基本的な事柄について、漠然とした不安を持っています。
実際、生年月日が同じで、同じ日に同じ会社に入社した人同士だとしても、勤続年数や給与、家族構成などで年金の受給額は異なるのですから、これでは、将来の備えをどうしたらよいのか、あれこれ不安に思うのは当然でしょう。
平成一六年の年金改正で制度の根幹が大きく変わるまで、年金を新規に受け取り始める時の年金額は、賃金上昇率に合わせてスライドし、また、受け取り開始後の年金額の改定は、物価の上昇率(全国消費者物価指数)に合わせてスライドされてきました。
その結果、日本経済が右肩上がりの成長を続けている間は、「年金額は年々上昇する」のが常識になっていました。
ところが、少子高齢化が進むなか、年金受給者が増加する一方で、保険料を支払う現役世代の人口は減り続けています。これまで通りの水準で年金を給付し続けるためには、保険料をどんどん引き上げていくしかありませんが、これでは現役世代の生活は成り立ちません。
その解決策として導入されたのが、「保険料水準を固定し、その保険料収入の範囲内で給付水準を自動的に調整する」という「保険料水準固定方式」と、物価の変動に連動させないで年金額を改定する「マクロ経済スライド」です。マクロ経済スライドとは、被保険者数の減少と平均寿命の伸びに合わせて、従来の賃金・物価スライド分を調整するもので、被保険者が減り、平均寿命が伸びると、物価が上昇しても年金給付はそれほどには伸びないという仕組みです。給付の増大で年金財政が破綻するのを防ぐための自動調整機能といえるでしょう。
しかし、これで問題が解決されたわけではありません。現役世代が支払う保険料は少なくとも平成二九年までは上昇しますが、実際の年金額が目減りするのは明らかです。政府はサラリーマンが加入する厚生年金について、「平均給付額は現役世代の収入の五〇%以上を確保する」と言いますが、計算の根拠となった出生率の低下が続けば、これも絵に描いた餅にすぎません。
また、前回改正(平成一二年)で、平成一六年までに基礎年金の国庫負担率を引き上げる(三分の一を二分の一にアップする)ことが決まっていましたが、安定した財源の目処が立たないという理由で先送りされていました。
この財源は、平成一六年改正でも明示されておらず、将来にわたって問題を含んでいます。
こんなことを書くと、「やっぱり公的年金制度は破綻するんじゃないか」と思う人もいらっしゃるでしょうが、それは誤解です。公的年金の平成一六年度の財政収支を見ると、時価ベースで厚生年金に一三八・二兆円、国民年金に九・七兆円もの年度末積立金があり、余力を残しています。少なくともすぐさま破綻ということはなさそうです。
また、前述したように、平均寿命まで生きれば支払った保険料額を上回る年金額を受け取れるはずですし、将来の生活費のほとんどは公的年金で賄えるという点は疑いようがありません。
ところが現実には、年金制度について知っておくべき知識が欠けていたがために、本来もらえる年金が減ったり、最悪の場合はもらえなくなったりすることがあります。最低限の知識をもって、「自分の年金は自分で守る」という姿勢が問われる時代になっているのです。
年金を損せずに受け取るには、まず制度を知ることです。そして、年齢ごとに取り組める年金対策を講じることが必要です。「まだ早い」と思っている三〇代、四〇代の人でもやれることはありますし、すでに年金をもらい始めている人でもできる対策はたくさんあります。
ハッピーリタイアメントを送るための年金対策に「早すぎる」「遅すぎる」はありません。
『年金でトクする88のアイデア』
佐藤正明:著
●1575円(税5%)
米国の言語学者スティーブン・ピンカーの名著『言語を生みだす本能』の中に、次のような注目すべき記述があります。
生後一八カ月前後で言語は離陸する。語彙が「新しい単語を二時間に一つ」の割で増えていくようになり、以後、高校を卒業するころまでこのペースが維持される。
1歳半から18歳まで2時間に1単語のペースで覚えていくと、いったいどれくらいの数になるのでしょう。言葉に触れる時間を仮に1日10時間とすると、1日に覚える単語は5単語。1年を365日で計算すると、1825単語になります。これを1歳半から18歳まで16年半続けたとすると、ほぼ3万単語という膨大な数になります。
これだけでも驚くべき数字ですが、さらに私が注目したのは、10歳(小学校4~5年)の子供がどれくらいの語彙を獲得しているかを計算した結果です。それは、1万5000語という信じられない数字なのです。
1万5000語というのが、いかに大きな数であるかは、次の数字と比較していただけば納得されると思います。
語学専門出版社アルクが「標準語彙水準12000」という語彙リストを公表しています。これは、日本の英語学習者にとって有用と思われる英語語彙を1万2000語集めて、12のレベルに区分したものです。それによると、大学受験に必要なのは5000語、検定試験の受検に必要なのは6000語、さらにTOEICで高得点をマークするには9000語が必要であると分析されています。
語数だけを比較すれば、10歳のネイティブの子供が、この9000語をはるかに越えるキャブラリーを身に付けている、というのは、驚きではないでしょうか。もちろん、子供が知っている語彙と、TOEICに出題される語彙はパラレルではありません。しかし、かなりの部分は重なるのではないか、と私は予想しています。その根拠をお話ししましょう。
かつて、私はオックスフォードの子供用の辞書「Junior Dictionary」を通読したことがあります。この辞書は、「7歳以上の児童用」に作られ、6000語がエントリーされています。「小学校低学年用の辞書なら難しい単語は出てこないはず」と思いつつも、「それでは6000語という収録語数はどんな単語で構成されているのだろうか?」というのが、私の素朴な疑問でした。
ひとつの分析手法として、私はこの辞書に収録されている動詞を、最初から順番に書き出してみました(全部で1200語強になりました)。すると……
abandon, abolish, abuse, accept, accompany, accuse, achieve……
驚くなかれ、そこに現れた動詞リストは、バリバリの「大学受験必須単語」とほとんど違わないそうそうたるリストだったのです。 この時に、子供用の辞書と言っても、語彙数が少ないだけで、扱われている単語は大人の辞書と少しも変わりがないことを私は痛感しました。早い話、日本の大学受験生は「Junior Dictionary」で単語を覚えてもいいのです。
10歳の子供が獲得する1万5000語は、もはや「子供用の語彙」などではない。その点を証明するために、今度は逆側からその証拠を探すことにしました。そして、見つけたのが、アメリカの出版社から刊行されている、子供用のスペリング辞典でした。小学校の中学年から高学年対象の本でしたが、1万6000語以上が収録されています。つまり「10歳で1万5000語」という冒頭の計算結果を見事に実証する数字だったのです。
もちろん、すべての児童がこれだけの語彙を獲得しているとは限りません。個人差は相当あるはずです。たとえば、言語発達の専門書には、「1歳頃に初語を獲得してから就学前期までに、およそ3000語から10000語もの語彙を獲得するとされている」と記されています。
この記述から、6~7歳で、早い児童はすでに10000語を獲得していることがわかります。これまた、ピンカーの算法にぴったり当てはまります。
5月に発売した私の新刊『英単語10000語チェックブック』では、アメリカ人が10歳程度ですでに獲得している可能性の高い1万語(1万5000語の3分の2)を選び、日本人のボキャビル用の素材としました。本で取り上げる10000語は、英米の子供用の辞書で扱われている1万5000語から、超基礎語を省き、日本人が覚える必要のない固有名詞や特殊な単語を省いて選定したものです。それをレベル別に1000単語ずつ分類しているので、どんなレベルの人でも自分にあった使い方できます。
単に10000語のリストを掲載するのではなく、語意を三択から選ぶ形式になっているので、鉛筆と赤ペンで楽しみながらチェックしていくだけで学習をすすめられます。また語義と共に、発音やアクセントも簡単にチェックできるという特徴もあります。書き込みを繰り返すことで、レベル別に自分だけのチェックリストを作ることができる本です。ぼろぼろになるまで活用していただければ幸いです。
『ネイティブの小学生なら誰でも知っている
英単語10000語チェックブック』
晴山陽一:著
●2310円(税5%)
子供の頃と比べると「じゃんけん」をする機会は圧倒的に減っている。子供は何かにつけてじゃんけんだ。そこで子供なりに公平の概念とともに勝負の厳しさを知るのである。単純なしくみであるが、実に合理的な戦いである。機会は減ってもやはりたまにはじゃんけんの機会はなくならない。やはり公平を求める時にやってしまうし、子供たちとの戦いもある。
そのじゃんけんだが、人によって出し方に差がある。もちろん地方によって言い方やチョキのカタチが違っていたりするのだが、同じような出し方の中でも手の表情が違うのだ。
特に差が出るのがグーだ。握り締めたグーに差があるのか。ある。はっきりある。そのこぶしの大きさだ。美人のグーは小さい。
手が小さいということではない。こぶしがしっかり握られているのだ。だから小さく見えるのだ。それがそんなに注目すべきことなのか。そうだ。注目すべきだ。
じゃんけん「ごとき」でしっかり力を入れるひたむきさが大事なのだ。ケーキの大きい方を目指すためにもしっかり握る気持が大切なのだ。確率論でなく、意欲だ。
これは何でも力んでしまうということではなく、力の入れ方をきちんとコントロールしている意識の問題である。だからグーの小さい人はコーヒーに砂糖を入れて、スプーンでかき混ぜる時、大きな音を立てたりしない。きちんとコントロールする。
グーが大きめの人は、力の入れ方に無頓着である傾向がある。チャックがうまく動かない時にむきになって壊してしまったりする。みじん切りしようと思った野菜が飛んでいってしまったりするのだ。ちょっとした時にも指先まで意識する習慣を持ちたい。それだけで「美人のもと」が増えていくのだ。
グーは小さく。パーは大きく。そんなことを考えるだけで、今じゃんけんで何を出すべきかについても、もう少し考えるようになる。考えた結果がはっきりした手のカタチになる。それだけで勝率は上がるのだ。
考えてみて欲しい。美人はなぜかじゃんけんに強い。じゃんけんに弱いと嘆いてばかりいる人は「美人のもと」がなくなりがちである。それは単に運の問題ではないのだ。それが本当に公平なのかもしれない。
少し前と比べると、コーヒー好きの女性は増えたように思う。コーヒーか紅茶を選ぶ場面でも紅茶が人気ものだった。
古いドラマでの初めてのデートの場面。男が女を家まで送る。家の前でさよならを言わなければならない。しかし、二人はまだ一緒にいたい。そんな時、女が「コーヒーでも飲んでいく?」などと聞く。
本当はコーヒーなどどうでもいいのだが。そして、ドラマではあるのかもしれないが、実際は家にコーヒーがない場合がほとんどであった。
喫茶店でコーヒーを残す女性も多くいた。特にデートの女性。たぶん男性がコーヒーを注文し、なんとなく「私も」と言ってしまった。そこで気づく。「私ってコーヒー好きだっけ?」。飲んでみる。苦いだけだ。ミルクティがよかった。
ところが、おしゃれなカフェが街に増え、コーヒーを楽しめる場も増えた。自然とコーヒーに接する機会も増え、苦いとだけ思っていたコーヒーも飲み慣れてきて、おいしく思える人が増えた。コーヒーを飲む時間を楽しんでいる。
問題はコーヒーの飲み方だ。コーヒーをきれいに飲む人はまだ少ない。美人は上手だ。何が上手かと言えば目線である。
美人はコーヒーを飲む瞬間の目線が程よい。近すぎず、遠すぎず。つまり、カップの中を見るようにしながら飲んだり、意味無く遠いところを見たりしない。テーブルやや前方を見ながら飲む。おいしそうにちょっとうなずく感じである。
近すぎる目線の人はなぜか鼻の穴がふくらみ、びっくりしたような顔になっている。遠くは自然と顎が上がりいやいや飲んでいるようだ。おいしくないのか。そして、目線が下手な人は、ズルズルと音が出ていることが多い。コーヒーはすすらないようにしたい。
さらに姿勢。まっすぐ向き合って背筋が伸びているととても美しく見える。しかし、猫背になる人が多い。カップを口元まで持ってくるのが面倒なのだろうか。なぜか猫背飲みはカラダがテーブルに対して斜めであることが多い。それでは「美人のもと」は消えていく。だが、それも目線を意識するだけで修正される。
目線正しく、おいしくいただく。すると「美人のもと」は増えるはずである。
ザ・リッツ・カールトン大阪のコンシェルジュカウンターに、米国人男性が足早に近づいてきました。顔は青ざめ、涙を浮かべられています。私は、「ただならぬ何かが起きた」と思いました。
男性は「飛行機を止めてくれ!」と叫んでいます。私は冷静になっていただけるよう「何をしたらよろしいですか?」と穏やかな口調でお聞きしました。お客様は、お父様が危篤状態で、緊急帰国しなくてはなりません。しかし、離陸まであと一時間! とても間に合いそうにありません。
男性の尋常でない様子を感じ取ったのでしょう。ベルマン三人がこちらに注目していました。私は、お客様には「すぐ着替えてください」とお願いし、ベルマンに「一緒に部屋に上がって、荷物の梱包を手伝ってくれませんか」と伝えました。ベルマンは、まだほかのベルマンが二人待機していることを瞬時に確認し、三人でお客様の部屋に急行しました。
次に私はドアマンのところへ行き、「関西国際空港までお急ぎのお客様がいらっしゃるので、タクシーを一台待機させておいてくれませんか?」と、さらにフロントに「お客様がチェックアウトされます。すぐにビル(領収証)を出してください」と伝えました。
10分後、私の目の前を荷物をもったベルマンとお客様が足早に通りすぎていきました。チェックアウトをすませ、待たせておいたタクシーに乗り込み、お客様は空港に向けて出発されました。ベルマン、フロントクラーク、ドアマンそれぞれの尽力と連携プレーの賜物でした。
その間、私は航空会社と交渉していました。航空会社の方は、「フライトまでもう一時間切っています。申し訳ないですけど無理です」とおっしゃいました。
私は粘らなくてはと思いました。
「何とかなりませんか。ともかくどうしても今日発たないといけないのです。命に関わることなのです」
そんなやりとりが15分ほど続きました。最終的に航空会社の方は、「やれるところまでやってみます」と電話を切られました。状況は五分五分でしたが、最終的にはフライト時間を遅らせて、お客様は無事飛行機に乗ることができました。
私はこれまで国内系、外資系合わせて四つのホテルで、おもてなしについて学び、コンシェルジュの能力を高めてまいりました。国内系の大阪東急インからスタートし、外資系のヒルトン大阪、ザ・リッツ・カールトン大阪、そして現在はリゾートトラスト・東京ベイコート倶楽部(2008年3月、東京お台場にオープン)にお世話になっています。
それぞれ大きな学びがありました。たとえば、ヒルトンではゲストリレーションズオフィサーとして数々のVIPを担当させていただきました。ヒルトンはお客様に対して、高いレベルのサービス、速いサービス、均質なサービスを求めており、ここで私はおもてなしのスキルを学びました。ザ・リッツ・カールトン大阪には、開業準備の段階からお世話になり、チーフ・コンシェルジュ、その後、ロビー・マネージャーとして勤めさせていただくなかで、おもてなしのマインドについて学びました。リッツ・カールトンはお客様に対して、何かして差し上げようという気持ちの強いホテルで、スタッフはみな高いマインドをもっていました。それがリッツ・カールトンミスティーク(神秘性)と呼ばれる感動サービスを生み出しているのでしょう。
そして現在は、リゾートトラスト・東京ベイコート倶楽部に宿泊部支配人としてお世話になっております。東京ベイコート倶楽部はフロント周りのスタッフ全員がコンシェルジュとして仕事をする「オールコンシェルジュ」を標榜しており、私はスタッフ教育も担当させていただいております。
私は、おもてなしに最も必要なのはマインド(心)だと考えます。おもてなしには、「ここからここまで」という区切りはありません。区切りはおもてなしをする個人によってずいぶん差があり、その差はマインドの差です。
また、おもてなしには、2つの欠かせないものがあります。それはご要望をキャッチすることと、ご要望にお応えすることです。ご要望は短い接客時の会話からキャッチすることもできますし、言葉にされなくても五感や第六感のようなものを駆使して察することもできます。
そして、お客様のご要望をかなえるためには、チームワークが大切です。私はスタッフをもつようになり約15年になりますが、大切なのはマネージャーとしてスタッフに敬意を払うことです。お互いを認め合える、謙虚で素直な組織ができれば、スタッフは外部のお客様に対して心のこもった感動サービスをご提供することができるしょう。
本書では、これまでの経験から学んだ、お客様のご要望をかなえる方法を、初めてまとめさせていただきました。コンシェルジュの仕事術は、お客様のご要望をかなえたいと思うすべての人に役立つものかもしれません。現在は、お客様のご要望にお応えするのは当たり前、それを超えた「おもてなし」をして初めて、お客様に感動していただける時代です。ホテルを始めとするサービス業に携わる方のみならず、すべてのビジネスパーソンのお役に立てれば非常にうれしいです。
『伝説コンシェルジュが明かすプレミアムなおもてなし』
前田佳子:著
1
6月初旬の真夏を思わせる暑い日に、プログレス上町店が開店した。宮里店開店の朝とはうって変わった快晴で、青空に誘われたかのように、開店予定時刻9時の1時間以上前から客が並び始めた。巨大な白いドームを思わせる店の周囲は、開店を待つ人々の列でぐるりと取り囲まれ、色とりどりのアドバルーンが舞う青空から差してくる太陽の光は、朝とは思えないほど強く照りつけていた。人々は、西寄りで日陰のある側ではビルの陰に寄り、東寄りでは日傘の花を咲かせた。周辺の大駐車場と建物の上層階にある駐車場に向けて車が次々にやってくる。屋内駐車場から店内に向かう通路にも、客の長い列ができていることだろう。派手なファンファーレで始まった開店セレモニーのあと、いくつかの入り口から、どっと店に入った客は、広大なエントランス・ホールを前にして、一瞬、気後れたようだったが、遅れてならじとばかりに2階の衣料品や家電の売り場めがけて、エスカレーターに殺到していった。
「お買い得商品は、十分、ご用意してありますので、お急ぎにならず、ゆっくりとお買い回りくださいませ」とマイク片手の店員が訴え続けたが、それも、どうにか将棋倒しになる危険を避ける効果を上げただけだった。
開店後30分もすると食品売り場も混み出し、入場制限が行われていたにもかかわらず、11時に主通路は人で一杯になり、客は流れに沿って一方向にしか動けない状況となった。それでも、主婦たちは頼もしく、通りすがりの冷蔵ケースから魚や肉のパックを取り出して買物籠に投げ込んでいく。
フジシロの社員たちが店に入ったのは正午に近づいて、ようやく混雑が一段落したころだった。彼らは申し合わせたように黙々と店に入り、1000坪近い広大な食品売り場で小一時間を過ごし、その後、他の売り場や駐車場を一瞥してから、フジシロ中央店を見て本部事務所に戻っていった。
最初に戻ってきたのは重成で、午後2時少し前だった。
「見てきたか」と後ろから声をかけてきたのは、浩介である。「私はこれから見に行く。どうだった?」
重成は振り向いて、社長と気づいて立ち上がった。
「すごい混雑でした」
「そうだろうな」
「プログレスは、上質化路線というか、高級化路線というか、ますます百貨店化してきているようです。ですから、食品売り場の考え方も我が社とは完全に分かれました。あれだけの大型店ができる以上、中央店は何らかの影響は受けるでしょうが、日常の食の提供者としては、消費者は、うちのほうを支持してくれると思います」
「そうか、予想どおりだな。で、うちの店、客は入っているか?」
「まあまあです。いつもの7掛けというところでしょうか」
「オペレーションはどうだ?」
「それが素晴らしいんです。『品切れなし、作業場に製品在庫なし』が、本当に実現できています。いや、大したものです。これなら、客数が7掛けになろうが、倍になろうが、ロスなしに対応できます。そのうえ、鮮度はピッカピカです。そう言えば、佐藤先生がいま中央店にいます。満足のご様子でした」
「それはよかった。すべて佐藤先生のおかげだ」
そう言った浩介だったが、重成のもとを離れるときに、「そろそろ考えてやれ」と小声で言った。
「えっ、何ですか」
重成が背中に掛けた声に振り向きもせず、浩介はドアの外に消えていた。
「何を考えてるのかなあ、社長は。その若さで、もう耳が遠くなっては困ります」と、重成は、相変わらずの減らず口を叩いたが、その瞬間、はっと気づいた。詠美と結婚しろ、ということだ。重成の家にやってきたあと、浩介はときどきそのようなことを言う。
「冗談じゃない」
条件反射のように浮かんできた台詞を重成は口にした。
「そんなこと、あり得ない。分かってないんだなあ」
だが、日頃の重成らしくなく、それがなぜあり得ないことなのかというロジックは浮かんできていない。
「困ったものだ」
重成はそんなことを何度も繰り返して言ったが、まさか、自分のほうが浩介に「困ったものだ」と思われているという自覚はない。
2
本部事務所を出た浩介は、自分のBMWを運転して、まずフジシロ中央店に行った。プログレスの駐車場は満車だと思ったので車を自店に置いていくことにしたのだ。
運転好きの浩介は、社長になってからも、自分で車を運転する。アルコールが入ったときは運転代行を頼む。対外的な付き合いの関係上で、稀に運転手付きの車でないと具合の悪い訪問などの場合は、前社長の運転手だった中沢照彦を引っ張り出す。運転手専門でなくなった中沢は、普段は総務部にいて庶務の仕事をしている。勤務ぶりがまじめで事務処理能力も高いので、重宝がられている。
中央店に立ち寄ると、店長の利根三郎が目ざとく見つけて走り寄ってきた。
「社長、悔しいですが、多少影響を受けています」
「300メートルのところに大型店が開店した日だ。多少の影響があって当たり前だ。心配するな。プログレスは見たか」
「見ました。予想どおりの店で、日常の食についてなら負けません」
利根も、重成とまったく同じことを言った。いまや、この認識はフジシロ内で共通のものとなっている。
「プログレスの売り場で、いつも当店(ルビ=うち)に来るお客様にたくさん会いました。どんな顔をして挨拶したらいいのか、もじもじしてしまいます。向こうも目を背けて、互いに知らぬ顔で通り過ぎるのですから、いやになります」
「そんなこと、気にするな。プログレスの店も見ていただいたうえで、普段の食事の支度のときには、また我が社に来てもらえればいいのだ」
「それはそうですが」
「ところで、佐藤先生はおられるのか」
「はい。それが」と利根はちょっと声を潜めた。「ものすごく熱心で、このところほとんど毎日やってこられます。それも、何時間も売り場や作業場を見ておられます。作業がジャストインタイムになっていないときには、そのことを具体的に私に指摘してくれます」
「それはありがたいことだ。指摘事項はきちんと正しているのだろうね」
「もちろんです。この間は、夜の8時過ぎに、突然お見えになったようで、夜間担当の副店長が驚いていました。その時間帯の品揃えが、商品部の決めたとおりにきちんとできているかどうかをご自分の目でチェックしておられたそうです」
「フジシロがプログレスを撃破することを、それほど強く願っているのだ。で、いまはどこ?」
「たったいま鮮魚の作業場でした」
利根の言ったとおり、浩介は鮮魚の作業場で詠美に会った。「さとう」と書かれたフジシロ社員用の名札を胸につけている。これがないと作業場のなかに入って自由に動き回ることはできないのだから、詠美の行動の必要上、至極当たり前のことだが、予想していなかったので、浩介はちょっと驚いた。
「完全に我が社の社員になっていただいて、ありがとうございます」
「あら」と、気づいて詠美は微笑んだ。「とてもよくできています。わずか3ヶ月の準備でこれほどの完成度に達するというのは信じられません。皆さん、よほど一所懸命に頑張ったのでしょう」
「佐藤先生のご指導のおかげです。我が社内では、重成君が頑張った。このプロジェクトの中心は彼でした」
「本当に」
「ああ、先生、彼はいま、本部にいます。帰りがけに立ち寄って、中央店のジャストインタイムの状況について先生の評価を話してやってください。彼、喜びますよ。それから、今後の課題などについてもお願いします」
「分かりました」
重成の名前が出たときに、詠美が明らかに頬を染めたように浩介は感じた。浩介は重成の顔を思い浮かべて、「鈍感な奴だ。俺がふたりの指に、エンゲージリンクグをこの手で押し込むまで分からないのか」と心の中で毒づいた。
3
プログレス上町店には客が溢れていた。巨大な2フロアのどこに行っても、客、客、客だ。ショッピングセンター形式で専門店部分があるが、そこも客で一杯だった。
「すげー」と浩介は、若者のような感想を口にした。
フードコートという呼び方が一般化してきた飲食スペースにも空席はもちろんなく、長い行列ができている。その人混みをかき分けて現れたのはフジシロ青果部門の岸原満夫だった。ソフトクリームを手にしていて、それに舌を差し出したとたんに社長が目の前に出現したので、ひどくバツの悪そうな顔になった。この岸原がプログレスからの誘いを断ったので、アドバンスの青果部門はフジシロの商品部でなくプログレスから社員を連れてきたということを、浩介は聞いている。
「ははは」岸原のきょとんとした表情を見て、浩介は、思わず声に出して笑った。「競争相手の店でソフトクリームを買ってはならないという就業規則はないから、安心しろ」
「済みません」
「慌てていると、クリームが落ちる」
「はい」
「どうだ。印象は」
「大分考え方が違います。とにかく、売れるだけ売ろうという考えです。商品の作り方も荒っぽいし、消費者にムダの出ないような買物をしてもらおうというような発想はほとんどありません。でも、野菜の地産地消コーナーが参考になりました」
ふたりは客に押されるように歩いている。「済みません」と言いながら、岸原がクリームを舐めた。遠慮しないで舐めろ、と浩介は動作で示した。
「社長、店内で当社(ルビ=うち)からプログレスに移った連中に会ったのですが、ちょっと気になることを尋ねられました。当社(ルビ=うち)に戻れないかと言うのです」
「戻る?」
そんな虫のいい、と言いかけて、浩介は、待てよと思った。
「だれだ?」
「言ったのは精肉の石渡ですけど、みんな、そう思っていると言っていました」
「みんなって、まさか守田社長もではないだろうな」
「それはないでしょう。守田さんは首になるんだそうです」
「えっ。本当か」
「首になるというのか、なったというのか、ちょっとよく分からなかったんですが」
「うーむ」
浩介の目の前に食品売り場があった。
「後でまた聞かせてくれ。私は、ちょっと売り場を見てくる」
浩介のその言葉を待っていたように、ほっとした顔をして岸原は姿を消した。
4
浩介は、プログレスから戻ると、在席した総務人事担当の小笠原常務と生鮮担当の狭山取締役を社長室に呼んで、たったいま、岸原から聞いた話を伝えた。
「何ですって。そんな虫のいい話はありません」
小笠原常務が言下に言った。なるほどカマキリとはうまく名付けたもので、ギロッと見開いた眼光も鋭く、目の前に出現した敵に鎌を振りかざしたような迫力である。
「みんなって、一体だれのことですか」
「みんな、と言うからには、甲村も入りますね」と狭山が言った。狭山には、妙に論理的なところがある。
「冗談じゃない」と、小笠原はほとんど叫んだ。狭山の言葉が火に油を注いで、カマキリの鎌が一層高く上がったようだ。「皆を勧誘して回っていた甲村がそんなことを言っているとすれば許せません」
甲村は、以前人事の採用担当をしていて、その人脈と情報を利用して、フジシロ社員たちの引き抜きをやった。その攻撃からフジシロを守る立場にいた小笠原としては、煮え湯を飲まされた相手だ。
「甲村がそう言っているかどうかは分からない。ただ、精肉の石渡は『みんな、戻りたいと思っている』と言っていたそうだ」と浩介が、岸原の言葉どおりを伝えた。
「とすると、守田さんも戻りたいのですかねえ」
狭山はあくまで話の論理を追いかける。
「いや、そうじゃない。守田さんは、首になったとか、なるとか言っていた」
「えっ」
小笠原と狭山が同時に叫んだ。
「何でまた」
「いや、分からない」
「そう言えば、今日、うちの鮮魚のバイヤーが俵に会ったらしいんです」と狭山が言い出した。「宮里店でフジシロに負けてから、守田さんをはじめとして、フジシロから移った人たちは、すっかり信用を失ってしまったそうです。だから、今度の上町店の店作りは、すべてプログレスから来た連中がやったようです」
「そうか」
浩介はプログレス社内の雰囲気が分かったように感じた。
うまいことを言われて引き抜かれたが、山田会長はじめプログレスの人々は、もともとフジシロの経営者や社員を高く評価しているわけではない。企業規模で圧倒的に大きくなり、全国に店舗網を広げている自分たちは勝ち組であり、フジシロは、所詮、負けていく過程にある企業だと認識しているだろう。GMSとスーパーマーケットで業態がまったく異なるなどという認識は彼らにはなく、GMSこそスーパーの王者だと信じているはずだ。だから、フジシロがスーパーマーケットとしての先進企業だということの意味も、彼らが本当に理解しているとは言いがたい。初めから評価していない相手だから、やらせてみて結果の数字がよくなければ、それで終わりである。
浩介は、判断を間違えた人たちの哀れを思った。失敗して学ぶことのほうが多い。ゴルフだって、と思ったが、その言葉を飲み込んだ。
「守田さんは首謀者だから戻せないし、戻る気もないだろう。甲村君はフジシロ社員の引き抜きに積極的にかかわったから、これも別だ。まあ、いわば戦犯だな。でも、あとの人たちは、本人たちにその気があるならフジシロに戻れるようにしてやったらどうだ。もちろん、それぞれの上司だった役員の意見を聞いたうえでの話だが」
浩介の言葉に狭山は頷き、小笠原は怖い顔をしたまま黙っていた。
5
プログレス上町店開店から1ヶ月が経った。梅雨が早く明けたせいもあってか、フジシロ中央店の売上高は日に日に旧に復しつつあった。季節の移り変わりが早まるほど、スーパーマーケットの売上高は順調になるのだが、中央店の売上高が伸びているのは、そうした追い風のせいだけではなかった。
プログレスの開店に先立つ2ヶ月間にわたって、強力な競合対策を実施したため、中央店の売上高は、プログレス出店直前には、前年比130パーセントにまで上がっていた。宮里店でやったと同じ『試食作戦』も丹念に実施した。その努力が実ったのであろう。フジシロの社員たちが驚いたことに、プログレス開店によって落ちた売上高が急速に戻ってくると、中央店は売上高前年比が100パーセントを超え始めたのだ。野菜、卵、牛乳、冷凍食品などを非常な安値で提供していたし、チラシに掲載した加工食品や日用雑貨のナショナルブランド商品も、プログレスの開店価格に対抗できるような価格で提供していたから、粗利益率の大幅な低下は免れない。しかし、300メートル先に大型店ができたにもかかわらず、前年を割らなかったのは、非常に誇らしいことだと、フジシロ社員たちは感じた。
「強い価格政策で引きつけられた消費者がフジシロに来てみる。ジャストインタイムの作業ができているから、売り場に品切れがなく、次々に新しい商品が補充されてくる。いつ行っても家庭内で調理する食品や総菜について、消費者の期待が裏切られないのです」と、競合対策にかかわったメンバー一同の反省会に出席した詠美が解説した。「つまり、周辺の消費者に対する家庭内の食事の提供者として、フジシロの価値がいままでより一層高まったと言っていいでしょう」
浩介がそれを受けた。
「プログレスの上町店が出た場所は、本来、フジシロとの共同出店であるはずだった。プログレス側の裏切りにより、我が社は切り捨てられた。それは、我が社存亡の危機だったと言っても過言ではない。しかし、その危機は、見事に乗り越えられた。言うまでもなく、皆さんの努力の成果だが、それを指導していただいたのは、ここにおられる佐藤先生だ。佐藤先生、本当にありがとうございました」
会議室内に自然に拍手が沸き起こった。
そのとき、ドアにノックの音がして、おずおずと総務部の元運転手の中沢が入ってきて「社長」と抑えた声で呼びかけた。
浩介が席を立つのと拍手が収まるのとが同時であった。
「えっ」
手渡されたメモを見て浩介が上げた声の鋭さに、会議室中が振り向いた。全員の目に、固い表情の浩介が見えた。
「どうしたんですか」と言いながら総務人事担当常務の小笠原が立っていった。
浩介が手元にあるメモを渡した。
「守田さんが死んだ」
小笠原の言葉に部屋中が凍り付いた。
「病は気から」なんて言うと、この科学の時代にとお笑いになる方もいるかもしれません。でも、気持ちのありようが病気の改善を少なからず後押しをすることは医学的にもかなり実証されていることなのです。
プラセボ効果も、そのよい例といえるでしょう。プラセボとは偽薬、つまりニセの薬のことです。新薬の効果を確かめる臨床試験では被験者をグループ分けし、一方には本物の薬、もう一方には偽の薬(デンプンなど)を摂取してもらうようにします。これは二重盲検といって、被験者はもちろん、医師にも渡される薬の区別は知らされません。
興味深いことに、こうした試験では必ず偽薬を飲んでいた人の何割かも、対象となっている症状が改善されるのです。甚だしい場合、例えば頭痛や高血圧などでは半数近くが改善されることもあるといいます。
これをプラセボ効果と呼び、免疫学的には「薬を飲んでいるという安心感が副交感神経を優位にし、リンパ球という免疫細胞の活性を高めるため」と考えられているのです。
従来はあまり医者の間では顧みられなかったプラセボ効果ですが、最近は代替医療の一環として応用する医療機関も増えてきています。もちろん、実際に偽の薬を処方するわけではありません。患者さんに安心感を与え、病気に対して前向きな気持ちにさせることで、総体的な治療効果を高めることが目的です。
特に末期ガン患者などを対象にした終末医療機関では、この効用を重視しているところが少なくありません。広島市で終末医療に取り組んでいる土井クリニック戸坂の土井龍一院長は、このように言っています。「私どもではサプリメントも用いますが、サプリ自体の効果以上に、それによって患者さんに生まれてくる前向きな気持ちがQOLを確実に改善させる点に注目しています」
大切なのは病と闘う気力をつくること―。プラセボ効果が示唆するところも、そのへんにありそうです。
●ご意見・ご感想はこちらまで…healthy@diamond.co.jp
二〇〇七年四月から、大学教員の肩書きが変わった。教授はそのままだが、助教授が「准教授」に、助手が「助教」になった。
こうした肩書きの変更は、アメリカの大学に準じてのことである。すなわち「アソシエイト・プロフェッサー」に「准教授」という訳語が充てられ、「アシスタント・プロフェッサー」の素直な訳語は助教授なのだが、それに「助教」という造語を充てたのである。何から何までアメリカの大学を真似ようとする文部科学省の「改革」は、教員の肩書きにまで及んだわけである。
ここでアメリカの大学の仕組みについて、かいつまんで紹介しておこう。
二〇歳代後半で博士号を取得する見込みが立った大学院生は、助教授(日本における助教)の公募に応募する。履歴書と研究業績一覧に、博士論文の指導教授の推薦状を添えて、応募先の大学に送付する。一つの助教授ポストに対する応募者数は数十人に及ぶ。
そのうち約一〇名が書類審査によって選抜され、学会の年次大会の際に、開催地のホテルのスィートルームに設営された面接会場で、応募先大学の教授数名による面接試験を受ける。面接の結果、三人程度に絞り込まれた候補者がセミナーに招待され、博士論文の概要について講演する。セミナーを終えるとディナーに招待され、人柄、性格などについてチェックされる。
ザ・ベスト&ザ・ブライテストと判定された一人に、学科長のサイン入りレターが届く。そこには「私たちは、貴君のセミナーに感動した。そこで、私たちは年俸××万ドルで貴君を当大学の助教授に採用することに決めた。なお、任期は五年とする。以上のオファーの諾否を連絡して欲しい」といった主旨のことが書いてある。
優秀な大学院生には複数個の大学からオファー・レターが舞い込む。彼または彼女にとっては、選(ルビ=よ)り取り見取りの売り手市場である。しかし、どこからもオファーの来ない博士候補の大学院生は、助教授職に就くことをあきらめて、大学以外の職場(経済学の場合なら、民間の研究所、シンクタンク、国際機関など)を探す。
さて、助教授に採用されると、博士論文を一流の専門誌に投稿するのが最初の仕事となる。見事、それが受理・掲載されれば、彼または彼女の未来は明るい。逆に、それが没になると、彼または彼女の未来は暗い。五年間の在任中に、一流の専門誌に五本くらいの論文を載せることができれば、他大学から准教授のオファーをもらえる(後述するように、同じ大学の准教授に昇格することは原則としてあり得ない)。准教授に昇格すると、通常、テニュア(終身被雇用権)が与えられる。
一九五〇年代初頭のアメリカで、マッカーシー旋風(ジョセフ・マッカーシー上院議員が政府職員、ジャーナリスト、映画俳優、学者などのうち共産主義者と名指しされた者を告発・パージし、アメリカに住む人びとを恐怖のどん底に追い込んだ事件)が吹き荒(ルビ=すさ)んだのち、大学教員の思想・言論の自由を守るために、大学の教授職を、雇用者側の意向ではレイオフ(解雇)できない特別職とした。これがテニュアである。その代わり、大学教授には、他の職種にはない定年制が設けられた。しかし、近時、年齢による差別はあってはならないとして、定年制は廃止された。
では、テニュアを獲得してしまえば、一生安泰なのかと問われれば、首を縦に振るわけにはゆかない。アメリカは日本のような年功序列賃金ではなく、年俸の決定権は大学側にあるからだ。六月に学校年度が終わり、夏休みに入るとすぐに、大学教授は「業績」を申告しなければならない。業績次第によって、年俸は上がりもすれば下がりもする。年俸を上げるためにも、また准教授から教授に昇格するためにも、ひたすら査読付き専門誌に論文を書き続けなければならない。
ジョン・K・ガルブレイス、ミルトン・フリードマン、レスター・サロー、ポール・クルーグマンらのように、一般読者向けの著書を刊行するのは、ごく少数の経済学者に限られる。そうした著書は収入増にはつながっても、「業績」の増加にはつながらない。とはいえ、右に名前を掲げた四人の経済学者の社会的影響力はきわめて大きい。また、経済学の教科書や入門書を書くテキストブック・ライターと呼ばれる学者も少なくない。ヒット作をものすれば、年俸を超える収入が安定的に保証される。しかし、これまた「業績」にはカウントされない。
以上がアメリカの大学の仕組みである。さてそこで、日米の相違点をいくつか指摘しておかねばならない。
最近は、日本でも任期制を設ける大学が増えてきた。アメリカでは、すべての大学が助教授職に任期制を設けており、同じ大学で助教授が准教授に昇格することは原則としてあり得ない。だからこそ、任期制は機能するのである。日本のように少数の大学だけが助教や准教授に任期制を設けるというのでは、任期満了の助教または准教授の捌(ルビ=は)け口が狭すぎる。任期満了後の身の振り方が気になって、落ち着いて研究ができなくなる。しかも、助教を採用する際に、自校の大学院生を優遇するから、大学教員の「流動性」はきわめて乏しい状況のままである。
要するに、任期制は、日本の大学の伝統的な制度・慣行と根本的になじまない。にもかかわらず、文部科学省は任期制の導入を奨励している。他の制度・慣行を所与とするならば、任期制という制度の導入は、日本の学術・科学の国際競争力を蝕むことはありこそすれ、それをいささかたりとも高めることにはなるまい。
もう一つの決定的な日米の相違点は、給与の面にある。アメリカの大学がいわゆる年俸制をとり、プロ野球選手と同じように、業績(成果)主義が貫徹しているのに対し、日本の大学では、年功序列賃金制度が固定されてビクともしない。業績と給与はまったく無相関である。
教授への昇進に当たってもまた「年功」が最重要視される。「業績」の意味もまたあいまいである。人文社会系の場合、専門誌のフェアな査読制が機能しそうにないし、読者の数、社会的影響力という点からすれば、一般紙・誌への論考の掲載、著書の出版のほうが、専門誌への論文の掲載をはるかに凌ぐ。とはいえ、査読付き専門誌上への掲載論文のみを「業績」とみなす風潮が、人文社会系でも広まりつつある。このこともまた、人文社会系の学術研究のレベルアップになるのかならないのか、実のところ微妙な問題である。
大学間の人材獲得競争もまた、往年に比べれば、激しくなってきた。アメリカでは、分野別の大学の評価が、所属する教員の量的業績、すなわち誌上に掲載された論文の本数または総ページ数と、質的業績、すなわち被引用回数(サイテーション・インデックス)でなされるから、業績豊富な教授連は引く手あまたとなる。そして、引き抜く側と引き抜かれる側との間において勝負の決め手となるのが年俸である。
日本では、大学間の引き抜き合戦の武器として給与を使うことはできないし、今後とも、給与が武器として用いられることはあるまい。なぜなら、給与の多い少ないが大学教員の行動規範になるとの仮説は、「武士は食わねど高楊枝(ルビ=ようじ)」という価値観の支配する日本では、成り立ちにくいからだ。
その結果、何が起こるのかというと、大学間の格差の果てしない拡大である。大学の「格」が唯一の移動の誘引となるからには、格下の大学から格上の大学への人材の流れは堰(ルビ=せ)き止めがたいからだ。
以上に見てきたとおり、また本連載の前々回で大学院重点化や専門職大学院の設置に関して述べたように、大学のさまざまな制度・慣行は相互に補完関係にある。そのため、他の制度をそのままにしておいて、一つひとつの制度を改革するのは、害あって益なしの場合が多い。
任期制にせよ、業績主義にせよ、アメリカの大学では、他の諸制度と相まって、競争原理を研究の場に持ち込むための装置として有効に機能している。しかし、それらを日本の大学に闇雲に持ち込んでも、「一利なし」ならまだしも「百害あり」ということになりかねない。この件に限らず、近年、文部科学省は、「制度の補完性」ということを忘れて、大学の制度・慣行をいじり過ぎである。
教育再生会議でも、高等教育の改革案の一つとして、大学院の新入生に占める自校の学部卒業生の割合を三〇%以下に抑えるべきだ、という信じがたい暴論が罷り通っているそうだ。工学部では、学部卒業生の八割前後が大学院の博士前期過程に進学する。要するに、六年間かけてエンジニアを育てるのが通例となっている。「最後の二年間を他の大学で」というのは、エンジニア教育の非効率化以外の何物でもあるまい。むしろ、やるべきなのは、「自校の博士課程修了者から助教を採用しない、助教を自校の准教授に昇格させない」というアメリカの原則を見倣うことである。
いま、日本の大学はかつてない危機にある、と私は考える。研究費配分の傾斜は、年々、より急勾配になりつつある。企業マネジメントで「選択と集中」が望ましいことはよくわかるが、国の研究費の配分での「選択と集中」はけっして望ましくはない。なぜなら、研究の成果について予知することは、神ならざる人間にとって、不可能を要求されるに等しいからだ。
「選択」するのが人間である以上、選び間違いは避けがたい。選び間違いの結果、個人ならば破産、企業ならば倒産の憂き目を見て、それで終わりである。しかし、国の場合、一〇億円の研究費を「選択」されたプロジェクトに五年間「集中」して注ぎ続けても、成果は無に等しいかもしれない。だからといって、だれもその責任を問われない。その意味で、成果が予知不可能な研究の「選択」を少数の人間の判断に委ねることは、とんでもない国費の無駄遣いを招きかねない。研究費の配分方式についても、抜本的な見直しが求められる。
「独」
独りで生き抜く覚悟があってこそ真の協業
「今の仕事は適職ですか?」「力を十分に発揮できる場所ですか?」
転職情報誌や転職エージェントの広告に並ぶ問いかけであり、サラリーマンであれば誰もが一度は自問自答することでもある。仕事にやりがいが見出せない、給料が安い、上司とそりが合わない……。まったく不満のない人なんて、そういるものではない。かといって、転職で何もかもが解決することはほとんどない。
終身雇用が形骸化した今、「とにかく定年までしがみつく」という考えよりも、「より良いところへ」と考えるのは自然なこと。総務省の調査によると、昨年一年間で転職した人の数は三百万人を大きく超えるらしい。しかし、新しい職場を気心の知れた環境に変え、自分のやりたい仕事に専念し、思い通りの成果を出せるという状況を作るまでには、それなりの時間と相応の努力を覚悟しなければならないことも確かである。結局、どこにいても、自分が望む環境を作るには、自分から進んでアクションを起こさなければならない。
先日、知人から転職の相談を受けた。話を聞くと、望むほどの給料がもらえず、また会社自体のビジョンが見えず、このままでいいのか不安だという。給与やビジョンの問題では、社員一個人ができることは何もないかもしれない。下手に進言することで立場をますます危うくすることもあるだろう。それでも、と思う。なぜその会社に入ったのか、不満がありながらもなぜ勤め続けてきたのかを落ち着いて思い返してみることも必要なのではないか。まだやれることがあるのではないか――。しかし、そのとき私は、何も言えなかった。少なくとも転職に関しては。
ということで、四月から中途入社しました中鉢と申します。よろしくお願いします。これで転職は三度目です。(中鉢)
▼去る5月28日、東京・帝国ホテルで「第4回ダイヤモンド経済小説大賞」の最終選考会が行われました。最終選考に残った2作品について、審査員による厳密な選考を行った結果、うち1作品を佳作とし、大賞および優秀賞については残念ながら「該当作なし」とすることに決定しました。大賞が「該当作なし」となったのは、今回が初めてになります。
この4年間にわたり、気鋭の作家による経済小説を世に送り出した「ダイヤモンド経済小説大賞」ですが、今回をもってひとまず終了し、来年からは「城山三郎経済小説大賞」として、新たなスタートをきることになりました。応募要項などの詳細は近日中に発表いたします。経済小説の偉大な先駆者の名を冠するにふさわしい賞として、皆様のさらなるご支援をいただければ幸いです。どうぞご期待ください。(比留間)
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