経2003年11月号
CONTENTS
石 弘光
経済学をいかに教えるか
幸田真音
経済小説大賞に寄せて
若田部昌澄
「輸入経済学」は日本になじまないのか?
エッセイ
伊藤洋一 対本宗訓 高田 明 小室直樹 山形浩生 田中秀臣
連 載
川勝平太 清水 博 妹尾堅一郎 宮台真司 高橋義夫
編集後記
◎――――エッセイ
石 弘光
Ishi Hiromitsu
一九三七年生まれ。一橋大学学長。政府税制調査会会長、国立大学協会副会長なども務める。最近の著書に『環境税とは何か』『税制ウォッチング』『大学はどこへ行く』などがある。
経済学をいかに教えるか
経済学ならびに経済学部は、近年、若者のあいだでどうも人気がない。大学入試の受験者の倍率や難易度で見ても、経済学部はもうひとつパッとしない。私が四十数年前に受験生であった頃は、経済学に対する関心はもっと高く、文系の学部では最も華やいでいたように思う。「社会科学の女王」といわれるだけの資格は、十分にあったといえよう。ところが最近経済学を大学で教えている仲間に会うと、昔やや軽んじていた他学部の後塵を拝し、はなはだ面白くないという風潮になっている。
これは明らかに、経済学教育の現状と無関係ではあるまい。学生あるいは社会一般の感覚からすると、経済学は「複雑で難しすぎる」「面白くない」そして「役に立たない」といった批判を受けているようだ。
確かに私の学生時代の経済学の講義と比較しても、その内容はあまりに多岐になり、かつ授業でやることが多すぎる。たとえば昔のマクロ経済学はIS=LM分析のみでほぼ核心部分が終わっていたことを考えると、マクロのミクロ的基礎まで学ばねばならぬ状況は初学者のやる気の範囲を超えている。つまり経済学は、複雑すぎて難しすぎる学問になってしまった。それに今日、経済学は段階を追って学習しないと理解できない体系となっている。一般に、経済学部のカリキュラムは、理論のコースでは初級、中級そして上級と段階的に設けられており、数学と同じように初歩から順次理解していかないとどうしようもない仕組みになっている。途中で挫折する学生も多く、面白くないといった不満も出やすくなる。
そして学生の目には、教室で教えられる経済学の理論と実際の経済の動きのあいだに、大きな乖離が生じているように映っている。バブル崩壊後、日本経済は長期間深刻なデフレ状況に悩まされている。そこからわれわれはどう抜け出せるのか、経済学は明解なかつ説得的な処方箋を特に提示してくれていない。かくして経済学はまったく役に立っていないのではないかという疑問が持たれてくる。
私には、このような批判が出されている経済学教育の現状をどう改めたらよいのか、残念ながらすぐによい知恵は浮かばない。しかし経済の実態をいかに説明しうるかといった経験科学の原点に帰り、細部にとらわれずに大きな視野から経済学を再体系化する試みが不可欠といえよう。いわば「骨太の経済学」を必要としている。
◎――――エッセイ
経済小説大賞に寄せて
幸田真音
Kohda Main
一九五一年生まれ。米国系投資銀行でディーラーなどを経て九五年作家デビュー。著書は『日本国債』『凛冽の宙』など多数。最近著は初の経済歴史小説『藍色のベンチャー』。現在週刊新潮で『日銀券』を連載中。
読者に伝えたい「熱い思い」が作品の力になる
一九九四年六月二七日。その日私は、早朝から病院の手術台の上にいました。
そして昼前、集中治療室に移された私は、麻酔から覚醒するなかで、それが歴史的な日であったことを知らされます。村山富市氏が内閣総理大臣に就任したと発表された直後、東京外国為替市場で、ドルの為替レートが一〇〇円を切ったのです。
長年、米国系投資銀行のディーリング・ルームに籍を置き、国際金融市場の現場で、日々相場と格闘する生活を送ってきた私は、やがてやって来るだろう超円高の時代を、直感的に嗅ぎ取っていました。そして、輸出大国であるこの国が、円高から受ける打撃に思いを馳せ、そんな時代をどうやって乗りきっていくのかと、いまから思えば滑稽なほど、ひとり焦りを覚えたのです。
でも、周囲は一見まったく平穏でした。円高に対する認識もいまほど高くなく、当局や金融市場が抱える問題も、さらにはこの国の金融システムが置かれている状況についてすら、まるで無頓着でした。
本当に必要な情報が、本当に必要な人々からはもっとも遠いところに追いやられている。現場を知っている者の一人として、私はそれを痛感しました。
「このままでは、この国はダメになる」、私はもどかしさばかり感じていました。現状を伝えなければいけない、みんなで一緒に考え、もっと議論を尽くさなくてはと。
それは、やむにやまれぬ思いでした。だったら、書くしかない。小説の書き方など知らず、いえ、それが小説だとも自覚せぬまま、私は夢中で書き上げました。
病床にいた私は、自分が動けない代わりに、自分と同じ歳の日本人女性にヘッジ・ファンドを立ち上げさせ、相場を通して日本を円高から救うという、自分自身の切なる願いからストーリーを思いついたのです。生まれて初めて書いた小説であり、作家幸田真音のデビュー作、『ザ・ヘッジ 回避』(文庫版『小説ヘッジファンド』)が、誕生した瞬間でした。
最近、小説を書きたいと思うんだが、というご相談をよく受けます。実際に書き始めたと言ってこられる方も数多くおられます。
ただ、残念ながら、最後まで書き上げたという声は、私の周囲にはいまのところありません。
小説を書くための素質についても、よく訊かれます。必要な要素はいくつか挙げられるのでしょうが、なにより大切なのは、なぜその作品を書くにいたったかという動機、書かずにはいられなかった「熱い思い」だと私は思います。
作者のそうした書くことへの情熱こそが、作品を最後まで書き上げる推進力になり、読者の心を揺さぶるパワーになるからです。
小説は、不思議な力を秘めています。作者が創りあげたはずの登場人物が、読者のなかで別の生命を与えられ、いつまでも長く生き続けるという経験を、私自身何度も味わいました。とくに、経済小説にはまだまだ無限の可能性が残されています。単に、企業小説や、いわゆる内幕物語だけではなく、重厚なミステリーや上質なサスペンスにもなりえます。なぜなら、経済は人間が生きることそのものであり、小説はその人間を描くものであるからです。
私自身もさまざまな挑戦を続けています。『投資アドバイザー有利子』は、コミカル・タッチの経済小説に仕上げましたし、最新著の『藍色のベンチャー』は、幕末時代のベンチャー・ビジネスをテーマにした、初めての経済歴史小説です。江戸時代の官と民、彦根藩と近江商人の歴史のなかには、現代との驚くほどの共通点を見いだしていただけるでしょう。週刊新潮で現在連載中の『日銀券』では、日銀を舞台にしながら、大人の恋愛を描いてみたいとも思っています。
経済小説ほど、未開拓の分野を残した小説はないかもしれません。今回の賞の選考にあたっては、新しい書き手のそうしたチャレンジ精神と、作品にこめられた「熱い思い」を重視して、読ませていただくつもりです。
まず一作、小説を書き上げてみてください。読者に訴えたい熱いメッセージがあれば、表現力や構成力といった技術的な面は、書き続けるうちに自然に得ることができるはずです。次世代を担う頼もしい作家の出現を、心から期待しています。とくに女性の経済小説作家の誕生も心待ちにしています。
◎――――連載1
日本の経済学 経済を読むキーワード
若田部昌澄
Wakatabe Masazumi
一九六五年生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科、トロント大学経済学大学院博士課程修了。早稲田大学政治経済学部助教授。著書に『経済学者たちの闘い』『まずデフレをとめよ』(共著)など。
「輸入経済学」は日本になじまないのか?
驚くべき日銀総裁の発言
いささか旧聞に属するが、今年の七月一六日、日本銀行の福井俊彦総裁は「(輸入された)経済学は一〇〇%信用していない」と述べ、日本の経済社会に根ざした新しい経済学を作る必要があると訴えたそうである。金融広報中央委員会主催「金融経済教育を考えるつどい」のパネルディスカッションで、総裁は「アメリカ人が作っている経済社会と日本人が作っている経済社会とでは、夢も文化も伝統も違う。輸入した経済学で日本経済を語り尽くそうとしても、結局、わかりにくくなる」と指摘し、さらに日本経済の現状を説明するには「日本の経済社会そのものを見て、みんなの夢を感じながらじゃなきゃできない」と語ったという(『読売新聞』二〇〇三年七月一六日の記事)。
新聞記事なので発言の正確な引用かどうか、それこそ一〇〇%の確信をもてないが、仮にこの記事を信用するならばいくつかの興味深いことが明らかになる。
まず、この総裁が端倪(たんげい)すべからざるレトリシャンであることだ(その一端は、今年の六月一日の日本金融学会基調講演からも窺(うかが)うことができる)。発言では「一〇〇%は信用できない」「語り尽くすことはできない」など部分否定のレトリックが多用されている。それらを文字通りとれば、なるほど輸入された経済学をすべて否定しているわけではないから、一見バランスがとれているように思われる。しかし、力点が「信用していない」にあるのは明らかである。
第二に、アメリカと日本を対比していることだ。夢、文化、伝統など、それ自体としては好感度の高い言葉を巧みにちりばめながら、経済学の背景をアメリカの経済社会と同一視していくところはうまい。もちろん、近頃アメリカの評判があまりよくないことは計算済みだろう。
そして第三に、「輸入された経済学」と「日本の経済社会に根ざした経済学」の対比である。こういう対比が出てくるのは、これまた日本の経済学を取り巻く状況を反映しているといえなくもない。同じように輸入された学問である(はずの)数学や物理学や生物学や化学について、同じことをいう人がいるだろうか?
けれども、経済学についてはこういう考えの持ち主が多いようだ。いや、他の学問が対象とする現象に対して経済社会はそれぞれ違うのではないか、そもそも経済学は上記の意味での科学ですらないのではないか、という批判がすぐに寄せられる。そうした反応まで読み込んでの発言だとしたら、やはり福井総裁の発言は奥が深い。
それこそ無粋を承知で外国の例にたとえるならば、外国の中央銀行総裁がこのような発言をすることはありえないといってよい。そういう重大さを除けば、福井総裁の発言のうち私がもっとも気にかかるのは、どこかで聞いたことがあるという感を否めないことだ。
「日本の経済学」とは何だったか
歴史上、「日本の経済学」の確立を意識的に、表立って標榜する人々がいた時期があった。それは日中戦争が本格化した一九三八年頃から敗戦までの経済学である。
それは「政治経済学」「皇国経済学」そしてそのものずばり「日本経済学」と呼ばれていた。この時期のことは、かつては早坂忠氏(経済学史学会編『日本の経済学』東洋経済新報社、一九八四年)、近年は田中秀臣氏らが研究しているが、その意義の評価にもっとも意欲的なのは上久保敏氏だろう(「戦前・戦中の「日本経済学」と現在――それは単なる“まがいもの”であったか」『週刊エコノミスト』一九九三年九月二一日号、「終戦時までのわが国ノン・マルクス経済学史の素描――「純粋経済学」と「政治経済学」」『大阪工業大学紀要人文社会篇』第四六巻第一号、二〇〇一年)。
上久保氏は、当時の経済学者たち(土方成美、難波田春夫、大熊信行、板垣與一)の著作に即しながら、彼らが「経済の危機」と連動した「経済学の危機」という意識をもっていたこと、経済学にとどまらず政治学、社会学などとの「学際」研究をめざした総合性を志向したことに注目する。たとえば土方成美は『日本経済学への道』(日本評論社、一九三八年)において「分の思想」という日本古来の文化、伝統に着目して日本経済学を構築しようとした。また難波田春夫は『国家と経済』(第一巻、日本評論社、一九三八年)において、科学としての経済学は「経済の必然」という法則性の発見を基礎としているが、現実経済はそのような「経済の必然」だけで単純に割り切れるものではないとする。純粋理論の行き詰まりの打開こそ、彼の研究の主題であった。かつての日本経済学には「単なるまがいもの」として済まされない洞察があるというのが上久保氏の結論である。
そうかもしれない。しかし、疑問がわいてくるのも事実だ。そんなに優れているものならば、なぜこの経済学は顧みられなくなったのだろうか? もちろん、優れた研究プログラムが外的要因――この場合は敗戦――によって頓挫(とんざ)を余儀なくされるということはありうる。また、研究課題に対して分析手法が追いつかなかったということもあるかもしれない。上久保氏は没落の理由として、戦局の進展に伴う時局迎合性の増大、神がかり化、ドイツ経済学の影響を理由としてあげている。
しかし、時局迎合性というのは暗示的である。この学問には体制との距離のとり方において根本的な問題があったのではないだろうか。実際にはガリレオの負け惜しみだったかもしれないが「それでも地球は回っている」というのが近代科学の原点である。日本経済学は、学問が何かに奉仕するとろくなことはないことの見本のように思われる。
それと関連して閉鎖性がある。ドイツ経済学の影響があったように、日本経済学が他の伝統や文化を排除していたわけではないだろう。しかし自らの文化や伝統の尊重は、えてして他の伝統や文化に対する無知、軽視、敵意につながりやすい。ある思想が独りよがりにならないためには、他の思想との絶えざる対比と交流が必要であるが、日本経済学は戦時体制という極端に排外的な体制と結びつくことで、他の思想との交流を遮断・制限し、そして「神がかり化」したのではないだろうか。
なぜ西欧の経済学が主流なのか
振り返って、経済学の創成期はどうだろうか。経済学は長い歴史の積み重ねのなかで生まれてきたものであり、イスラムの経済思想に注目すべきという研究も出ている(シュンペーターの『経済分析の歴史』も言及している)。最近話題になったバーナード・ルイスの『イスラム世界はなぜ没落したか?――西洋近代と中東』(臼杵陽監訳、日本評論社、二〇〇三年)が強調するように、科学技術から文芸にいたるまでイスラム文明は長い間世界最高峰の文明だった。それが、なぜ西欧に追い付かれ追い抜かれたのか。その理由を探るのがルイスの本の主題だ。
ちょうど、イスラムと西欧との壮大な交代劇が始まろうとする頃の一七五六年三月、スコットランドにおいて『エディンバラ評論』という新雑誌の第二号に、編集者宛書簡という形をとった論文が掲載される。自然科学から文学、哲学まで、当時のヨーロッパの学芸全般を驚くべき深さと斬新さで展望したこの匿名論文の著者こそ、若き日のアダム・スミスであった(邦訳は『アダム・スミス哲学論文集』名古屋大学出版会、一九九三年)。
当時彼は弱冠三二歳、新進気鋭の研究者であった。この雑誌の目的はスコットランドの文芸復興だが、スミスは自国の学芸を発展させるためにも外国の優れた学芸を学ぶことが不可欠と考えていた。
その彼が注目したのがイングランドとフランスである。ちなみに当時のスコットランド人にとってイングランドは外国である。前年に刊行されたばかりのルソー『人間不平等起源論』に早くも目をつけ、それをバーナード・マンデヴィル(もともとはオランダ出身!)の『蜂の寓話』と対比してみせる。隣人愛に満ちた原始状態を手本にして社会を構想すべきか、それとも自愛心によってこそ社会秩序が構築されると考えるべきか。ここには、アダム・スミスの生涯を貫く主題をすでに見て取ることができる。
しかし、新しい思想の受容には抵抗と反発が伴う。『エディンバラ評論』はこの号をもって挫折する(だから俗にいう三号雑誌ですらない。ちなみに後年、同名の雑誌が出るがそれは別物である)。それは、この雑誌で紹介されていた神学思想が教会人たち(時の権力者たち)の反発を呼んだためだという。
けれどもこうした抵抗は長続きしなかった。このあたりが西欧の強みであり、ルイスがイスラムに対する優位としてもっとも強調するところでもある。知識についての貪欲さ、あるいは節操のなさ、そして異論を受け入れる、あるいはそうせざるをえない競争的かつ開放的な知的土壌こそ、われわれが経済学というときに、西欧のそれ――「輸入された経済学」――を指すことになった大きな背景ではないか。
あるいは、戦前にきわめて独創的な業績を残した経済学者高田保馬をとってみてもよい。彼の独創性の原点は「輸入された経済学」を徹底的に学び、理解しようとしたところにある。彼はワルラス、パレート、そしてヒックスによって一般均衡理論を吸収しながら、それをさらに発展させるプログラムを構想していた。その弟子が森嶋通夫である。
教訓は明らかなように思う。輸入かそうでないかにこだわる必要はないし、学問の発展にはそのようなこだわりこそ障害となるだろう。日本の経済社会を語るのにふさわしい経済学というときも、きらびやかな言葉やスローガンではなく、現在の経済学の何が問題なのかが具体的に検討されなければならない。
この連載では、その時々において気になるキーワードをとりあげながら、経済学の今について考えていくことにしよう。
◎――――連載4
球域の文明史
川勝平太
Kawakatsu Heita
一九四八年生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科修了。英国オックスフォード大学大学院博士課程修了後、早稲田大学政治経済学部教授を経て、国際日本文化研究センター教授。著書に『経済学入門シリーズ 経済史入門』『日本文明と近代西洋』『文明の海へ』『文明の海洋史観』など
唯物史観に「物」はない
マルクスのいうインフラは人間関係のこと
マルクスの「唯物史観の公式」において、経済は下部構造であり、それ以外の政治・法律などすべての人間の制度、組織、意識諸形態は上部構造とされる。ここで、下部構造が上部構造を変えていくダイナミズムについて述べる箇所を再録しよう。「経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。このような変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない」(『経済学批判』岩波文庫)。つまり、この公式では「下部構造=経済的基礎」が決定的に重視されているのだ。
下部構造とは、誤解を生みやすい言葉である。これは、前号で指摘したように人間についての概念であって、物ではない。
右に引用した文中には「経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革」という表現があり、いかにも物のことを語っているように思われる。だが、この「生産諸条件におこった変革」とは生産力の変化、すなわち機械の導入などによって労働者一人当たり、ないし単位労働時間当たりどのぐらい生産性が上昇したかという生産性上昇率のことであって、物のことではない。
下部構造は英語で言えばインフラストラクチャーである。その和製英語である「インフラ」と聞いて、マルクスの研究者でない(いや、多くの不注意な研究者も含めて)日本人が思い浮かべるのは、人間の社会活動の物的基盤であろう。ところが、そうした物的要素はマルクスの「唯物史観の公式」にはひとかけらもないのである。マルクスの言う下部構造は、経済領域における人間関係である。
人間以上に大切なものははかった
この点は、いくら強調しても足りない。マルクスにとっては、人間以上に大切なものはないということである。私はマルクスの人間至上主義を非難しているのではない。いやむしろ、人間中心主義、人間至上主義にはすぐれた面が多々ある。人間のことを中心に考えるからこそ、個人レベルでは、人間一人ひとりを大切にするという態度が、また、人類レベルでは、青年期のマルクスいわゆる「初期マルクス」の思想がそうであったように「類的存在」としての人間の理想を真剣に考えるという姿勢も生まれる。
ついでに言えば、人間中心の世界観はマルクスだけのものではない。西洋社会ではごく常識である。その背景をさぐっていくと、『旧約聖書』にまで立ち至る。周知のごとく、その冒頭の「創世記」において、神は天と地、光と闇、空、陸と海、植物、動物を最初の五日間で創造し、最後の六日目の仕事において「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。神はまた言われた、『わたしの全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える』」(口語訳版)。
まさに万物は人間のためにあり、その万物を治めるのが人間の仕事である。ユダヤ・キリスト教圏では、人間を神の似すがたをした存在として自然界の最上位にすえる世界観は血肉化している。
日本人が人間最上位の思想を体現した西洋社会を垣間見たとき、ある種の感動を覚えることも否定はできない。欧米各国を旅したり、生活したりした日本人が、独立心の強い西洋人とじかに接したり、一個人として大切に処遇されたり、また甘えを許されない経験をすることは少なくないはずだ。私もイギリスに六年間滞在した。イギリス人が私を一個の人間として処遇してくれる態度に何度も感激させられた。多くの人が同じような体験をしてきたからこそ、「西洋社会では『個人主義』であるのに対して、日本社会では『集団主義』である」といった文化比較論が古くて新しい研究テーマでありつづけるのだと思う。
その比較において、個人主義は個の自立や自我の確立などとプラスにとられてきたのに対して、集団主義には個の埋没や個性の喪失などのマイナスの要素がついてまわる。個人主義を集団主義の上に置く近代日本人の価値観に照らしても、人間中心主義や人間至上主義にはそれなりの説得力がある。マルクスの思想が、西洋社会のみならず、人権抑圧に苦しむ非西洋圏をふくめ、二〇世紀にグローバルな支持を得た理由は、まぎれもないその人間重視の態度にあると言うべきであろう。
しかし、個人主義と不可分な人間中心主義・人間至上主義と対比されるべきは、日本やアジアの集団主義であろうか。そうではあるまい。人間観の対比だけでは一面的である。むしろ、世界観における人間と万物との関係にまで、立ち返る必要がある。
人間の(・)自然か、それとも人間と(・)自然か
日本社会の伝統的世界観では、人間中心主義、人間至上主義という特徴をもっていない。原始神道や仏教の影響のもとで、生きとし生けるもの、自然界の森羅万象を見る目は、万物を対等とみている。万物は人間のためにあり、人間が治めるべきものだ、といった特徴は希薄である。人間以外の存在を人間以下のものとみなしてはいない。人間中心主義にうなずきつつも、私はそこに宗教臭さを感じてきた。その理由をあえて一言でいえば、万物は人間のためにあるという『聖書』の断定に同化できないところにある。
なぜ、この点こだわるのか。それは、「『唯物』史観」と言いながら、「物」についてはひと言も語られていないからである。唯物史観は人間についての歴史観である。さらにいえば、そもそも「歴史」は人間がつくるものだ、ということが前提にされている。言い換えると、西洋にあっては、歴史は人間の独占物なのである。
ところが、「イネの歴史」「絹の歴史」「茶の歴史」「庭の歴史」「森の歴史」等々、人間以外の物の歴史を語ることに、違和感を覚える日本人はいるだろうか。いない、と断定してよいだろう。私自身、大学院に入ってから本格的に「ワタの歴史」を調べていた。そして、二〇代の終わりにイギリスのオックスフォード大学に留学し、歴史の研究に従事した。イギリス人に研究テーマを聞かれ、「ワタの歴史です」と答えると怪訝な顔をされた。最初は、私の英語の発音が悪いからかと思ったが、やがて気づいた。たいてい「綿業の歴史がテーマですか」と聞き返されるのである。
ワタは植物だが、綿業は人間の営みである。ワタの歴史は英語でhistory of cotton、綿業の歴史はhistory of cotton industryである。Industryは産業、工業など人間の仕業である。ワタを栽培したり加工したりする人間の営みの歴史なら分かるが、ワタ自体に「歴史」という人間の領域を結びつけると、英語の語感にそぐわない。「ワタの歴史」といえばワタが主人公のようで擬人的になる。これは無理からぬところがある。
日本の霊長類学は世界でトップクラスになったが、当初、サルに名前をつけてその「個性」を論じたり、サル社会の「歴史」や「文化」について論じる日本のサル学者は、西洋の学者から「擬人主義」という厳しい批判にさらされた。人間に近いサルに対してさえ「高崎山のサルの歴史」などというと、怪訝な顔をされる。まして「ワタの歴史」においてをや、ということなのである。
そうは言っても、「マルクスは『資本論』の第一章は「商品」と題し、物を扱っているではないか」という疑問があるかもしれない。しかし、注意深く読むと、「商品」という主題ながら「物自体」が語られていないことにすぐ気づくはずである。
「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、巨大なる商品集積として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる」――これは『資本論』の有名な書き出しである。このすぐあとに、商品には二つの要素すなわち使用価値と交換価値がある、という話がつづく。商品の二つの要素のうち、マルクスの関心は、もっぱら交換価値にあって、使用価値にはない。
商品の交換価値とは、人間の労働の量のことであり、人間の営みの計測値である。マルクスはその値を「労働時間」と言い換えている。たしかに第一章のタイトルは「商品」であるが、実際は交換価値、つまり労働時間という人間の営みを論じている。私から言わせれば、それは羊頭狗肉なのである。
『資本論』は人間論。自然を度外視している
他方、物そのものである「使用価値」については、『資本論』では「交換価値の素材的な担い手」としてひと言で片付けられているが、『経済学批判』では少し言葉を足している――「使用価値は、たとえ社会的欲望の対象であり、したがってまた社会的連関のなかにあるとはいえ、すこしも社会的関係を表現するものではない。使用価値としての商品が、たとえば一個のダイヤモンドであるとしよう。ダイヤモンドをみたところで、それが商品だということは認識できない。それが美的にであろうと機械的にであろうと、娼婦の胸においてであろうと、あるいはガラス切り工の手においてであろうと、使用価値として役立っている場合には、それはダイヤモンドであって商品ではない。使用価値であることは、商品にとってはどうでもよい規定であるように思われる。経済的形態規定に対して無関係な使用価値、使用価値としての使用価値は経済学の考察範囲外にある」と切り捨てており、ニベもないのである。
マルクスの『資本論』は人間論であって、それを支える歴史観には「物」したがって自然は入っていない。それはマルクスの限界だ、と批判しておきたい。
◎――――エッセイ
高田 明
Takata Akira
一九四八年、長崎県生まれ。大阪経済大学卒業。八六年に「鰍スかた」社長。九九年に「ジャパネットたかた」に社名変更。ラジオ、テレビ通販などを利用し業績を伸ばす。個性的な口調が人気に。
一期一会を大切に夢を実現する暮らしのお手伝い
真実を伝える、自分の言葉で話す、心で売る、という三つを心掛けていますが、商品の構造や機能、操作方法を正しく伝えるだけではなく、魅力や特性をどう伝えられるかです。デジタルボイスレコーダーなら、会議だけではなくて、生活の中で使う提案をします。購入すればこんなに生活が便利になると。例えば、ベッドの横に置いて思いついた時にアイデアを録音しておく、外出するお母さんが子供にメッセージを残す、お寿司屋さんが電話につないで出前の注文を残せば間違いが少なくなります。
お客様の要望はメーカーにフィードバックしています。カラオケは今度五〇〇曲から七〇〇曲に増やしました。でも七〇〇曲で終わったら、ジャパネットの評価は上がってきません。次は曲を随時増やす機能です。このようにお客様の要求を満たすことによって、信頼関係を築くことができます。ビデオの下取りも同じです。お客様の買い替えニーズにどう応えていくかです。
価格も買う動機の一つの要素ですから安くするための企業努力はしていますが、加えて企業としてトータルの価値や信頼性を大切にしています。アフターサービスはやってもやってもやりすぎることはありません。だからカスタマーセンターも自社内に設けて、決済の問い合わせなどにも応じています。
大規模な物流センターと受注センターを備えた社屋と、自社テレビスタジオ「ジャパネットスタジオ242」も開設、CSデジタル衛星を通じ日本全国へ自前でテレビ放送をしています。
経営の形態も雇用のあり方にしても、アメリカ型か日本型かなど、型にはまった考え方には左右されません。放送もそうです。台本があるわけじゃない。企業が独自に考えていくのが一番いい。変化に対応できるスピードが大事。ジャパネットではスピードを出すための方法が自前主義であり、メディアミックスだったと思っています。
今年度の売上目標は七〇〇億。昨年度が六二四億なのでこれまでと比べたら成長率が低下したと言われるかもしれませんが、今年は人づくり、組織づくりを再始動させたため、戦略的に意識し、ゆるやかな上昇にしたのです。状況を判断し組織のあり方も考えながら伸ばしていくのが一番お客様の方を向いた商売ができる。大変なのはこれから。企業として社会に対して責任を求められます。
私たちがお届けした商品で暮らしが豊かになるように、お客様の声をダイレクトに受け止めすばやく応えるためにも、一期一会の精神でお客様との出会いを大切にしたいと思っています。
◎――――連載11
共存在社会とその原理
清水博
Shimizu Hiroshi
一九三二年生まれ。東京大学名誉教授、金沢工業大学「場の研究所」所長(http://www.ba-academy.org/)。
著書に『生命を捉えなおす』(中公新書)、『生命と場所』(NTT出版)、『場の思想』(東大出版会)など多数。
「場所なき弱者」の救済
――弥生型コミュニティから縄文型コミュニティへ
引きこもりとは、自分と自分が生きているコミュニティとの間の関係が掴めなくなっている状態のことである。この関係が掴めないと、自分がどう存在してよいのかがわからなくなる。そこで自閉的になって閉じこもってしまうのである。自分なりの関係のとり方が発見できれば、自分の存在が次第にわかってきて引きこもり状態から抜け出していける。日本の社会の深刻な状況は、コミュニティの崩壊がさまざまなレベルで起きていることだ。そのため人々は何重にも存在を失い、縮こまって生きている。
コミュニティの崩壊とは、ひと言で言えば、コミュニティから出会いの場が消えてしまうことを意味する。出会いの場が消えると、関係を共有できなくなる。場を共有していないと、人間は互いの間合い(距離感)が掴めなくなる。すると、ここから引きこもりが始まる。
私はマルティン・ブーバーの『我と汝・対話』(岩波文庫、植田重雄訳)を参考にして、人間は出会う間合いによって自己を変えて生きる動物であると考えている。人間が遠い間合いで出会うとき、近い間合いで出会うとき、近すぎる間合いで出会うときでは、それぞれ自己の状態が変わってしまう。間合いが近すぎると互いに拒絶反応が起き、ほどほどに近いときは「我と汝」という互いのいのちを受け入れる関係が生まれる。だが、間合いが遠くなると、今度は「我とそれ」という人間とモノとの関係に変わって、互いのいのちに対する思いがなくなる。さらに「我と汝」の関係も、間合いのとり方によって微妙に変化をする。「我と汝」を接近させるために、アルコールの力によって拒絶感を麻痺させて出会う、という「場の技法」もある。
コミュニティに出会いの場が存在していれば、状況に応じて柔軟に間合いを変えながら関係をとる生き方が可能になる。しかし場が消えてしまうと間合いが決められないから、柔軟に生きる方法がわからなくなる。また場を感じられない人々が増えると、集まりのコミュニティ形成能力が下がる。どのようなコミュニティにせよ、変化が全体に広がるときには、間合いの変化の形で伝わる。したがって場が生き生きしていることが必要なのである。
職場や社会に場を感じられない人々が増えてくると、人間的な関係を「我とそれ」の関係として理解しようとするため、柔軟な間合いの生成を前提に決められていたルールが、「我とそれ」のルールとしてマニュアル化されていく。そして細部に至るまで画一的なルール解釈が始まり、コミュニティは硬直化していくばかりとなる。コミュニティのあり方が硬直化すれば、その危機対応能力は低下する。またこの状態では、創造的な人間は陰に押しやられ、コミュニティを変えるための創造的な力を発揮することができない。したがって事態の打開は難しく、コミュニティは早晩全面的に崩壊していくほかはない。
引きこもっている人間は、他者とできる限り遠い間合いで接していこうとする。場のない家庭で幼児の頃から引きこもった状態で成長すると、物理的には近い距離にいる他者を、遠い間合いに置いて「それ」として見てしまうので、他者のいのちの痛みを感じられない人間になってしまう。また、親から一方的に間合いを押しつけられて育った子供は、親の前では一見それらしい「よい子」の役割を演じていても、本当は間合いのとれない引きこもった人間になってしまう。
家庭は最も小さいコミュニティだが、家庭から出会いの場のはたらきが消えれば、家族として一緒に生きていくために必要な「我と汝」の関係が「我とそれ」の関係に置き換わるために、家族や他者をいのちのある存在として見ることができない状態が生まれる。その結果、最も安全であるべき家庭が最も危険な場所に変わって、家庭内暴力が生まれる。
家庭という出会いの場が崩壊しているため、母親たちは引きこもり状態となって子供との間合いもとれず、子育てのマニュアルを外に求めることになる。しかし、マニュアルを外に求めるということは、子供を「我とそれ」として考えていることの裏返しである。また、家庭ばかりでなく地域社会のコミュニティも崩壊している。駅の構内で人が殺されかかっていても、側にいる人々は「我とそれ」として、できるだけ関わり合いを避けようとする。
「場所なき弱者」という存在
社会を見渡すと、生きていくための出会いの場を奪われて、コミュニティにおける間合いがとれなくなった「場所なき弱者」があちこちで救済を待っている。「場所なき弱者」になるかならないかは、経済のグローバル化という現実的な力が大きく影響している。日本の社会の将来に対する価値や意義とは直接的には関係がない。
政治と経済の力関係で「場所なき弱者」が決まるということは、そうした力が集中する陽の当たる場所はそれなりに発展するが、力が集まらず陽の当たらない場所では「場所なき弱者」が生まれることになる。つまり二極分化の状態が出現するのだ。
税金や年金によって弱者を直接的に支える方法が行き詰まったことは、すでに大半の国民が直感的に理解している。では、場所なき弱者は、誰にも救われずに消えるしかないのだろうか。私は日本の国民にとって最も重要な課題は、「場所なし」によって生まれた弱者の救済であると思う。そのことが、日本の社会に二一世紀のための出会いの場をつくる国民的作業となるのである。
はたして弱者を救う方法はあるのだろうか。私はあると思う。たしかに、場所なき弱者が場所を潰そうとする強者の力に直接的に抗して戦うことはできない。しかし場所を潰された後に、強者によって潰されないコミュニティをつくることは可能であり、私はそれこそが救済の唯一の方法だと思っている。その方法を日本の社会のコミュニティづくりに関連させて、わかりやすく説明してみよう。
弥生型コミュニティと縄文型コミュニティ
日本の社会はこれまで弥生型コミュニティであった。しかし、生き残るためには、それを縄文型コミュニティに変える必要がある。後述するように、この二種類のコミュニティは価値観がまったく異なる。したがって、弥生型コミュニティが潰れ、従来の価値観が「ご破算」にならなければ、縄文型コミュニティに移行することはできない。この弥生型から縄文型への移行によって、「持つために在る」社会から「在るために持つ」社会への転換が起きるという点が重要である。
縄文型コミュニティは前々回(二〇〇三年九月号)で説明した「いのちの場」を中心につくられた大きな「家族」である。人々は共に存在することを目的に集まっているため、互いの警戒心を解いて心を開き、近い間合いで連帯感のある共同生活を送る。また日常的にコミュニティの祭事に参加して、その場に生じる爆発的な生命エネルギーを授かり、個性豊かなエネルギー溢れる土偶のようないのちの表現を生み出す。また、高齢者もいのちの場からエネルギーを受けて、明るく生きられる。このような集団では、かつての場のある家庭がそうであったように、人々は暖かさを求めて集い、それぞれ集落の内外に気を配って生活する。
実際の縄文時代のコミュニティでは、人々は周囲の自然から食料を得ていたために、環境から十分食料を得られる程度に人口が抑制されていたようだ。また、農耕もあり、食物も備蓄されていたらしいが、農業の生産性を高めるための努力を積極的に行なうことはなかったと思われる。分け合って共に食べることを喜びとし、人々が内部で警戒し合うこともない。このような柔軟な生き方では、コミュニティの維持費が非常に低い。
これに対して弥生型コミュニティは生産型コミュニティである。農耕文明を発達させた生産効率の高い社会だ。農耕法の進歩によって自然環境を開拓して生産性を上げたため、縄文型コミュニティよりも多くの人口を養うことができたが、その多くの人口は、生産性を上げるためにも必要であった。この人口の循環的増加がコミュニティと自然環境のあいだに存在していたバランスを変えて人間の領域を広げていく。また、生産効率を高めることがコミュニティの目的となるため、構成員の個人的自由をコミュニティのルールが制限する。そして人間の生命的エネルギーを増やすことよりも、生産システムのエネルギーを増大させることが求められるから、社会に機能的な階層が生まれ、それに伴って人々の顔が消えていくことになる。いわば埴輪のような、人間的個性に乏しい機能的な表現が生まれてくるのだ。
弥生型コミュニティは縄文型コミュニティと比べて複雑な構造を持っているために、その維持に高いコストが必要となる。人々を集めてルールで管理するコストはもちろんだが、複数のコミュニティがそれぞれ環境に向かって拡大しようとするためにコミュニティ間に争いが生じる。さらにコミュニティの構造的進歩に伴って、その内部でさまざまな権力争いやトラブルが起きるため、安定性の維持にもコストがかかる。
このように弥生型コミュニティでは発展するほど構造が複雑になって維持費が幾何級数的に増大していく。だが、その分だけ環境を切り開き、さらに文明を発展させて生産効率を上げていけば、出費を上回るだけの収入が上げられ、コミュニティは持続できる。つまり、弥生型コミュニティでは、生産性と維持費の増大が追いかけっこをしながら互いに膨張していくのだ。もしも維持費が生産性を上回って大きくなれば、コミュニティは維持不能となり収縮してしまう。したがって、なるべく生産性を下げずに維持費を縮小することが重要となる。
人類は、自然環境や異文化の国々を征服しては支配するという安価な方法で、弥生型のコミュニティを発展させてきた。したがって、これまでは比較的低いコストでコミュニティを維持することが可能だった。しかし、今後は地球の自然と調和し異文化の国々と共存することが必要になる。そのためには新たに巨額の維持費が必要になってくる。つまり、これまでのようには弥生型コミュニティを維持できなくなるのだ。このことから文明の転換が始まっている。
転換の始まり
これまで日本の社会を支え、社会的秩序を与えてきたのは弥生型コミュニティであった。だが、家庭、地域、職場、社会、市場、国家で弥生型コミュニティが崩壊し、その後から縄文型コミュニティに置き換わっていく変化が始まりつつある。それが私の言う新幹線とローカル線の共存である(連載第一回、二〇〇三年一月号)。
この変化は長い時間を必要とするものだが、まずは力の弱いところから崩壊が始まる。たとえ社会的に大きな価値があろうと、力の弱い場所から崩壊が始まるのだ。そこにこの転換の特徴がある。そして場所を失って流浪する弱者が現れ、救済を待っている。これが前述した「場所なき弱者」の現象である。
例えば、社会との関わり合いを失った中小企業は深刻な不況に陥って崩壊していく。外見的には丈夫そうな大企業も、グローバリゼーションの圧力で内部にリストラの嵐が吹き荒れ、社員が身を小さくして生きている場合が少なくない。大学も改革の波に巻き込まれ、マスコミや広告代理店に注目されるような陽が当たる研究分野だけが残り、重要であっても地味な分野は場所なしの状態になっていく。そうした学者は、どれほど内容的に優れていても本を出版することさえ容易ではない。
社会が、いのちの場によって場所なき弱者を救済し、救済することによって救済されるという形を創出できれば、低コストの縄文型コミュニティへの転換が実現される。この点に気づき、評論を止めて自分でできる場所なき弱者の救済を実践すれば縄文型コミュニティへの間合いが掴める。企業が今後も活動を継続できるかどうかは、いかにして縄文型コミュニティの形に移行できるかによって決まると思われる。
◎――――連載11
知的技術本の古典を読む
『発想法』川喜田二郎(5)
妹尾堅一郎
Senoh Kenichiro
東京大学先端科学技術研究センター特任教授(知識創造マネジメント、知財ビジネス専門職育成ユニットプロジェクトリーダー)。研究領域は問題学・リスク論、コンセプトワーク論、ヴィジョン論、社会探索法他。著書に『考える力をつけるための「読む」技術』『研究計画書の考え方』など。
野外科学の定性的方法論
〜「デカルトの道」と対峙するKJ法の精神〜
川喜田二郎(かわきた・じろう)
1920年三重県生まれ、理学博士。1943年、京都大学文学部地理学科卒業。大阪市立大学助教授、東京工業大学教授、筑波大学教授を経て、現在、KJ法本部川喜田研究所名誉顧問。1978年に秩父宮記念学術賞、マグサイサイ賞、経営技術開発賞受賞。「川喜田二郎著作集」(全13巻 別巻1)がある。
KJ法を使いこなすための知的資質
前回、KJ法を有効に使うための能力について検討した。「なにものにもとらわれずに探検する」(p.154)能力、すなわち“探索学習能力”が前提として必要なことは言うまでもない。その上で、第一に「単位化能力」、第二に「圧縮化能力、あるいはコンセプトフォーメーション(概念づくり)能力」。そして第三に、「空間配置能力」を挙げた。今回はその続きから始めよう。
「文章、数式など、鎖状に発展する論理で、情報を前から後へと連結する能力」(p.155)も、これまた必要だ。この能力は、論理的整合性のある、つまりスジの通った議論をする能力と言い換えられるだろう。
ただし、私は、ここで川喜田が言っているのは、必ずしも狭い意味での論理ではないように思えてならない。つじつまの合った話の展開というのは、狭い形式論理だけで済むわけではない。定性的なデータの組み合わせにスジを通すとき必要となるのは、むしろレトリックではなかろうか。レトリックは修辞法と訳されているが、一般的には、同じ内容を飾りたてて言う弁論法の一種と勘違いされている場合が多いようだ。しかし本来のレトリックとは、言葉を使って世界を解釈する、その仕方のことである。世界をとらえる言葉は、煎じ詰めれば概念そのものに至る。つまり、レトリックとはコンセプトワークそのものなのだ。KJ法において、いろいろなラベルを創発的に組み合わせ、それらを統合的に表す表札を書くためには、豊かな修辞的能力が発揮されなければならない。ボキャブラリーの貧困な者は、いくら多様なデータを多数集めても、それを処理できないのである。
要するに、KJ法を活用するには論理力と共に修辞力も重要なのである。詳しく述べないが、私が“レトリカルシンキング”を提唱しているのは定性的方法論にそれが欠かせないからである。
また、川喜田は「心の能力」も必要と言う。それは「叙述と解釈とを厳密に区別する精神」(p.155)であるが、それは精神にとどまらず、「自他ともに区別できるように表現する能力」でなければならない。しかも「一義的にしか解釈しようのない文章的な表明」ができねばならぬ。これはなかなか難しい。
さらに川喜田はいくつもの能力を挙げているが、要するにKJ法では、これらのうち「すくなくとも三つ四つの違った能力を組み合わせて使わなければならない」(p.156)。能力単体ではなく、能力がお互いに関連しながら総合的に発揮される必要がある。この「関連的に行使する能力」自体が最も必要な統合能力とも言えるだろう。
多様な意見を求める
ところで、“態度”についてはどうだろうか。KJ法を使うにあたって必要な“態度”とはどのようなものだろうか。
最も重要なのは“知的勇気”ではなかろうか。
まず、KJ法を行なうときに自分が外界や対象を素直に見られるかどうか、が問われる。自分のモノの見方や既存概念にばかりとらわれていては、外界を素直に見ることはできない。とらわれない見方をするには勇気がいる。既存概念を捨て去る勇気が必要になるだろう。
一方、KJ法では、問題意識や対象に関する態度等、自分の内面もこれまた探索しなければならない。そのとき、自分のモノの見方や世界観が露わになってしまう。それを周りに知られてしまうことを怖れ、他者の反応ばかりを気にしてしまいがちだ。それでは素直に内面を探索などできはしない。小さな見栄を捨て去る勇気が必要になるだろう。
さらに、そして最も重要なことだが、KJ法では多様なラベルを出尽くすようにするが、このとき、知的勇気とでも呼ぶものが必要となる。議論がノッてくると発散をし過ぎて収拾がつかなくなりはしないかという恐怖心が出てくる。この恐怖心と闘う勇気が必要となる。逆に言えば、「『まとめる』自信があればあるほど、自由奔放な意見の発散を恐れなくなる」(p.166)。
私もこの点を強調したい。最近のビジネスパーソンはあまりにも「落としどころ」を最初から見つけようとし過ぎてはいまいか。あるいは最初からまとめようとし過ぎないか。常に原点となるべきミッションを確認しながら議論を進めることと、結論としての着地点を見通すことを混同しているようなのだ。そのために発想が貧困になっている。現状延長線上の発想なのだ。
落としどころを見極める能力は役人には必要だが、創造的な仕事をしようとする人にとっては裏目に出てしまいかねない。例えば事業構想を練るとき、必ず“発散”すべきステージがある。そのときに、思い切って発散できるかどうか。実はこれが豊かな発想をうながすコツなのだ。時間的な制約の中で発散をまとめられるか、そんな怖れを抱いている限り、斬新な発想など出てくるわけがない。始めから着地点を見ようとすると発想が貧困になる。身をすくめた思考にしかならないからだ。
では、発散したものをどうすれば良いのだろうか。私は、常日頃、学生や院生のみならず、企業での指導等でも“まとめるな、整理しろ”と指導する。逆説的になるが“まとめようとすればするほど、まとめられなくなる”からだ。そうではなくて、思いっきり発散あるいは展開させた議論を“まとめずに整理する”ことがコツなのである。整理しようとすると気が楽になるだろう。しかも、整理しようとすると、自ずと整理の軸を見出さなければならない。それが発想をうながすのである。整理をする中で新しい観点が生まれるはずだ。要するに、まとめようとしても発想は生まれず、整理しようとすると発想が生まれるのである。この私の経験知は、KJ法の精神と根底でつながっているように思える。
方法論としてのKJ法
『発想法』には、KJ法の紹介を通じて様々な思索に関する実践的な議論が含まれている。中でも“野外科学型アプローチと定性的方法論の可能性”とでも呼べる議論は、フィールドワークを行なう者にとっては魅力的な議論である。本稿の最後に、これらの点について簡単に述べよう。
第一は、“KJ法は手法ではなく方法論”である点について。
“方法”あるいは“手法”は“方法論”とは違うことについては既に述べた(九月号)。方法とか手法は、使用者が違っても必ず同じ答えに至るようになっているものを指す。一方、方法論は、ある意図やコンセプトの下にいくつもの手法を関連づけながら使用し、全体として方法論のコンセプトに沿うようなプロセスを進めるものだ。思考を展開するガイドラインと呼んでもよい。方法論は使用者の使い方いかんで結果に違いが生じる。
方法であったら誰がその方法を使おうが同じ答えが出てくることこそ重要であるが、方法論はむしろ逆だ。KJ法のような「技法に帰着されえない人間特有の独創性」を取り込む方法論の場合では、使用者によって異なる答えになる可能性こそ重要となるのである。そうだとすれば、方法論の成果は使用者の能力に依存する。そして方法論では使用者に思考能力を要求する。そして、その使用自体が使用者の思考能力を鍛える、という循環構造になっていく。
川喜田は、KJ法が、個人の独創性を否定するのではなく、むしろそれを伸ばすことをねらっている点を強調した。創造性の基盤を活用し、よりいっそうの創造性を高めようとするのがKJ法であるとも言えよう。
野外科学のアプローチとして
第二は、“KJ法は野外科学のアプローチの先駆け”という点だ。
川喜田は、KJ法を「野外科学」のアプローチとして位置づけた。これは地理学者であった彼がフィールドワークによる研究実践の中からKJ法を創ったことから言って当然のことだろう。
彼の独創性の一つは、従来の学問分類(自然科学、社会科学、人文科学)とは異なる分類(書斎科学、実験科学、野外科学)を提案したことにある。前者が学問対象による分類に対し、後者は学問環境と方法による分類と言えよう。
書斎科学は、「一度だれか先人の頭脳のフィルターをとおして、 体系づけられた形の情報になっている文献」(p.7)を用いて、「頭の中の推論」(p.8)を重視する方法をとる。一方実験科学の特徴は「実験科学の方法の核心は、仮説検証的」(p.10)である点に求められる。これらに対して、野外科学は「場所的一回性」(p.12)である現場、フィールドを対象にして、定性的な方法論でのぞまなくてはならないのである(川喜田は、一九七三年に同じく中公新書で『野外科学の方法』を著し、さらに詳しい議論を展開している)。
川喜田は、野外科学と実験科学の違いを、例えば次のように説明している。「実験科学は仮説を検証するところに重要な性格があるのに対して、野外科学はむしろその仮説をどうして思いつけばよいのかという、仮説を発想させる方法と結びついているのである」(p.14-15)。ただし、これは便法としての説明に見える。彼が本心そう考えているかどうか。少なくとも、私自身は、野外科学はそれ自体に学問的方法論を備えるべきだと考えている。
また、彼は(実際はどうかは疑問だが)仮説検証を全面的に否定しているわけではないと言う。「仮説検証的な態度それ自体は悪いことではない」。ただし、「はじめから仮説ができていて、それを実証するデータをとるだけなら、その仮説以外の新しい発想はでてこない」(p.192)と喝破する。
川喜田は、現代の科学は「デカルトの道」(p.209)であり、その分析主義、定量化志向、法則追求的なやり方には限界があることを、本書をはじめとして様々な著作で繰り返し指摘する。一方、KJ法は総合的、定性的志向であり、独自性とか個性を追求する面を開拓したものであるという。「しかしKJ法は決して、分析的・定量的・法則追求的なデカルト的方法論を、まちがっているとしているのでもなければ排斥しているのでもない。そうではなくて、それは車の片車輪にすぎないといっているのである。もうひとつの車輪として、総合的・定性的・個性把握的な方法論をも科学のうちに含めないと、車は転覆してしまいますよといっているのである」(p.210)
川喜田のKJ法は、単に知的生産の技術にとどまらず、その射程を遠く科学のアプローチまで延ばし、KJ法における実践哲学としての意義を主張しているのである。
KJ法の入門書『発想法』をよく読めば、KJ法が単なる分類手法ではなく、知的生産の核心をついた方法論であることが分かるだろう。さらに、我々の思考法や学問の方法論についても多くの問題提起をしていることにも気がつく。その問題提起の多くは、後の彼の著作でいずれも深く展開されていったが、その原点は本書にある。六〇〜七〇年代に本書を読んだ読者諸氏に、ぜひ三〇年後の再読を勧めたい。必ずや新たな発見があるだろう。
(本項了。次回からは加藤周一『読書術』を取り上げます)
◎――――連載7
M式社会学入門
宮台真司
Miyadai Shinji
一九五九年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。現在、東京都立大学人文学部社会学科助教授。著書に『権力の予期理論』『終わりなき日常を生きろ』『自由な新世紀・不自由なあなた』など。
「選択前提」とは何か
連載の第七回です。第五回までは、社会システム概念それ自体の理解に必要な説明をしました。そして前回からは、社会システム理論が分析道具とする個別概念の説明をしています。まず前回は「構造とは何か」をお話ししました。簡単に復習してみます。
パーソンズは古来の伝統を踏まえ、変わりやすい変数を「過程」、変わりにくい変数を「構造」と呼びます。でもこのやり方は科学的に不適切です。変わりやすさ(の間に成り立つ関係)が変わりにくい場合を、諸変数を直和分解する仕方では記述できないからです。
そこで一九六〇年代から自然科学が導入され、変わりやすさの間の変わりにくい関係、すなわち変数の間に成立する関係=関数を「構造」と呼ぶようになります。これとは別に、構造主義の普及で、変換にもかかわらず不変の性質を「構造」と呼ぶ仕方も広く知られます。
七〇年代以降の社会システム理論は、古来の伝統用法、パーソンズの用法、自然科学の用法、構造主義の用法の全てを包括する「構造」概念を用いるようになります。すなわち、選択の前提を与える論理的に先行する選択を、「構造」と呼ぶようになるのです。
部分間に成り立つループを入れ子式に組み込む形で多段的に全体を成り立たせる社会システムで言えば、より下位のループにとって、より上位のループは、選択に論理的に先行する選択という意味で、構造です。上位/下位は相対的ですから、構造概念は相対的です。
別言すると、社会システムは、「選択に論理的に先行する選択」という構造の機能を、幾重にも多段的に組み上げることで、選択能力を上昇させ、さもなければ達成できないような複雑性の縮減を――場合の数の少ない確率論的に稀な秩序を――実現するのです。
選択前提と自由
「選択の前提」を与える「論理的に先行する選択」を「構造」と呼びましたが、社会システム理論では「選択の前提」という概念自体が非常に重要な意味を持ちます。そこで今回は「選択の前提」(選択前提とも言う)とは何かということについて説明しましょう。
選択には前提が必要です。まず、選択領域、すなわち選択可能な選択肢群が与えられていなければならない。次に、選択領域から現に選べなければならない。後者は、選択チャンスがあるので選べるという水準と、選択能力があるので選べるという水準とがあります。
以上をまとめると、選択前提には三種類あります。第一は「選択領域」。第二は「選択チャンス」。第三は「選択能力」です。ちなみに前回紹介した「構造」概念は、選択前提の中でも、第一の「選択領域」を与える先行的選択という機能に注目したものです。
三つの選択前提の違いを理解するには、人間学的な自由論の観点を導入すると良いでしょう。まずは、自由ではなく、不自由に注目します。選べないことを「不自由」と言います。不自由には三つの水準があります。第一は「選択領域の欠落」です。
例えば、未開社会には飛行機で移動するという選択肢がありません。その意味で不自由です。でも未開社会の人たちは飛行機で移動するという選択肢をそもそも知りません。知らないので、選択肢の不在を不自由だと感じる主観的な「不自由感」はありません。
ところがそこに西洋文明社会から宣教師がやって来て、さまざまな文明の利器の存在を教えるとします。西洋には飛行機もある、シャワーもある、テレビもあるという具合に。選択肢の存在を知った未開社会の人たちは、途端に「不自由感」に苦しむかもしれません。
すなわち、不自由の第二の水準は「選択チャンスの欠落」です。選択肢は既に主題化されているのに、お金がないとか禁じられているなどで、選べないという状態です。この場合、お金があればなあ、といった反実仮想に伴って「不自由感」が自覚されます。
ところが、「選択領域の欠落」がなく(選択肢が既に思い描かれて)、「選択チャンスの欠落」もない(お金もあるし誰も禁じていない)としても、どれを選ぶべきか迷いが生じて判断できないなどの理由で、うまく選べないということもありえます。
これが不自由の第三の水準、すなわち「選択能力の欠落」です。具体的には、利害得失(効用)の計算能力を欠く場合もあれば、利害得失を評価する価値観ないし選択原則を欠く場合もあるでしょう。この不自由には、不全感という意味での「不自由感」が伴います。
これらを逆転すると、自由であるとは一般に、選択領域と、選択チャンスと、選択能力が与えられているという意味で、選択前提が十分に供給されているがゆえに、滞りなく選択を行える状態のことです。これに対して、不自由とは、選択前提の供給不足の状態です。
ちなみに、不自由の三類型はそれぞれ、近代以前、近代過渡期、近代成熟期に特徴的な不自由に対応します。例えば、近代過渡期、すなわちモノの豊かさが国民的目標となる第二次産業中心型の社会で問題になるのは、経済的貧しさ=「選択チャンスの欠落」です。
モノの豊かさを達成した近代成熟期に、何でも選べるのに、何を選んでいいのか分からない、あるいは、ソレを選ぶことに何の意味があるんだ、という形で問題になるのは、選択原則(選択肢を評価する物差し)の不在という意味での「選択能力の欠落」です。
近代以前に特徴的なのが「選択領域の欠落」です。南側は、近代と接触することで貧しさを自覚し、外貨を獲得するべく一次産品に作付けを替え、国際市場で買い叩かれて構造的貧困に陷りますが、以前は自足していました。この自足が選択領域の欠落に相当します。
ちなみに、ここには「選択領域を獲得することで、選択チャンスの欠落が問題になる」という皮肉が見出されます。同じ事態は私たちの成熟社会にもあります。飛行機を知らなかった未開人が飛行機を知ることで、飛行機がないのを不便に思うという「利便性のトラップ」です。
かつて私たちはウォシュレットがあればいいと思ったことはないはずです。でもいったんそういう機器があるのを知ると、ウォシュレットがないのを不便だと思ってしまう。基幹的な需要が飽和した成熟社会では、資本主義はそうやって市場のフロンティアを開拓します。
選択連鎖による複雑性の縮減
選択Aがあり、選択Aを選択前提として選択Bがあり、選択Bを選択前提として選択Cがあり、という連なりを「選択連鎖」と言います。この場合、選択Cにとっては選択Bが、選択Bにとっては選択Aが、選択に論理的に先行する選択という意味で、構造を与えます。
例えば、旅行目的地の選択に悩んでいるとします。旅行目的地の選択は、先行的な選択を前提にします。すなわち「旅行する」という選択です。「旅行する」という選択も、先行的な選択を前提にします。すなわち「気晴しをする」「休日を過ごす」という選択です。
逆に辿(たど)ると、「気晴らしをする」という選択が、「旅行する」「映画を観る」などの選択領域を開示します。この選択領域からの「旅行する」という選択が、「海に行く」「山に行く」などの選択領域を開示します。この選択領域からの「海に行く」という選択が…。
この場合、「気晴らしをする」という選択が「旅行する」という選択にとっての構造を与える。同じく、「旅行する」という選択が「海に行く」という選択にとっての構造を与える。「海に行く」という選択が「江ノ島に行く」という選択にとっての構造を与える…。
こうした選択連鎖には、「選択に論理的に先行する選択」という構造の機能を幾重にも多段的に組み上げることで選択能力を上昇させるメカニズムの、一例が見出されます。このメカニズムによって、さもなければ達成できないような複雑性の縮減を実現しています。
ハーバード・A・サイモン『経営行動』は、こうした選択連鎖による複雑性の縮減に注目した組織論を展開しました。組織人は個人としては決定能力に限りがあるが、所与の決定前提を踏まえた決定を連鎖させることで、高度に合理的な決定を出力することができる、とします。
したがって組織の課題は、各組織人の決定が組織目的に適合した合理的なものとなるべく、妥当な決定前提を踏まえて決定を行うように、動機づけを与えることであり、そのために「オーソリティ行使」「忠誠心開発」「助言」「訓練」が用いられるべきだ、とします。
組織人の決定が、組織目的に適合した妥当な決定前提を踏まえるとき、決定前提=目的、決定=手段、という目的手段連鎖が形成されます。モノ作りで儲ける→車を作る→スポーツカーを作る→エンジンを設計する→電子燃料噴射装置を設計する…といった決定連鎖です。
この目的手段連鎖はハイラーキーの下に向かうにつれて分岐し、ハイラーキー全体はツリー状の統一をなします。その全体を見渡せる組織人は、個人的能力の限界ゆえに、殆(ほとん)どいないか全くいません。それでも妥当な目的手段連鎖が構築されていれば組織は回ります。
選択連鎖と、アノミー・社会
さて、以上のように目的手段連鎖は、選択連鎖の一例です。目的選択が手段選択の選択前提をなし、手段選択がその手段選択を目的とする下位的手段選択の選択前提をなし…、という具合に連鎖します。この目的手段連鎖の概念に、有名なアノミー概念が直結します。
デュルケムは『自殺論』で、金持ちが急に貧乏人に転落して自殺する場合と、貧乏人が急に金持ちに成り上がって自殺する場合があることを発見します。共通して、従来までの前提が当てにできなくなるがゆえの混乱に由来すると見倣(みな)し、それをアノミーと呼びます。
従来用いてきた手段(金銭)の不足も、従来抱いてきた目的(金持ちになる)の不足も、確かに混乱を招き寄せます。後にマートンが前者を「機会のアノミー」、後者を「目標のアノミー」と命名しました。今では「手段のアノミー」「目的のアノミー」とも言います。
選択連鎖の概念を持ち込めば、選択連鎖の一部を構成する、選択前提と選択の特定の組み合わせにおいて、選択前提に関わるリソース不足が目的のアノミー、選択に関わるリソース不足が手段のアノミーです。手段は下位手段にとっての目的なので、相対的な概念です。
選択前提を与える先行的選択を「構造」と呼び、構造を選択前提とする選択を「過程」と呼ぶので、選択前提に関わるリソース不足(目的のアノミー)を「構造のアノミー」、選択に関わるリソース不足(手段のアノミー)を「過程のアノミー」とも呼べます。
最後に言うと、私たちのコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的な前提の総体が社会であり、それを探求するのが社会学です。実際、社会学の思考伝統は、前提を遡る思考に特徴があります。デュルケムは、契約の前契約的前提を遡及するのが社会学だと言います。
再び選択連鎖の概念を持ち込むと、サイモンは「組織」の本質を、選択連鎖のツリー状の展開に求めましたが、それに倣(なら)えば「社会」とは、部分的にはツリー(=組織)を含みつつも、全体はループやジャンプを含んだ、選択連鎖のリゾーム状の展開だと見倣せます。
社会は組織ではありません。旧東側の歴史が象徴するように、社会を組織となそうとする試みは必ず失敗します。その理由を皮肉にも、組織による複雑性縮減機能を明らかにしたサイモンは、組織の複雑性縮減機能の限界に求め、限界を補完するメカニズムが市場だとします。
なお、選択連鎖の概念には、連載第五回で述べたコミュニケーション(選択接続)の概念が直結します。野球の「打撃」にとって「投球」は選択前提です。「回答」にとって「質問」は選択前提です。その意味で、コミュニケーションは複数主体間を跨(また)ぐ選択連鎖です。
◎――――エッセイ
伊藤洋一
Ito Yoichi
一九五〇年長野県生まれ。住信基礎研究所主席研究員。大妻女子大学講師。主な著書に『国際通貨ハンドブック』『スピードの経済』『ビッグバン時代のネット活用術』など。訳書に『グリーンスパンの魔術』がある。メディアで切れ味のいいコメントを発信中。
鍋で分かる日本経済
いただいたお題は「鍋で分かる日本経済」。悩みましたよ(笑)。筆者は「全日本鍋物研究会」の広報部長(自任役職です)で、鍋に関するエッセイなども書いている。当会は一〇月二四日に『平成鍋物大全』を出しました。一七〇〇円。
まずは宣伝でしたが、ここで悩むのです。「鍋で分かる日本経済……」。@でも皆さん知ってます? 世界の人々は今どうやって食事をしているか。調べて驚いた。ヒンズー教やイスラム教圏を中心に、世界人口の約四四%の人は手で食べる「手食文化圏」の住民で、東南アジア、中近東、アフリカに広がる。世界人口を六〇億とすると、二六億四〇〇〇万人。
あとは、箸を使う「箸食文化圏」と「カトラリー食文化圏」。仲良く二八%(一六億八〇〇〇万人)。箸は日本、中国、朝鮮半島、台湾、ベトナムなどで使われている。一方のカトラリー使用は欧州、米国など。
まだ……。Aでも皆さん知ってます? 鍋は「箸食文化圏」的な存在です。「手食文化圏」の人々が煮えたぎった鍋に手を突っ込むことは難しい。日本人が鍋で火傷をしないですむのは、箸のおかげ。ナイフ、フォークで鍋を食べるのも難しい。「チーズフォンデュ」は「鍋の定義」を満たさない(詳しくは、『平成鍋物大全』で)。しかし、ここまで来ても「鍋で分かる日本経済」は……。
Bでも皆さん知ってます? 同じ箸でも、全然違う。朝鮮半島の箸は大部分が銅、銀、ステンレスなどの金属製。これらは箸ながら、カトラリーが持っていた熱伝導の問題を抱える。中国の箸は、木、竹、骨などが主で、違いは頭から先までほぼ同じ太さであること。長く、約二七センチあるとの統計もある。だから重い。
日本の箸は軽く小さく、かつ素材も多種類で、頭から先にかけて細い。つまり、操作性に優れている。何かを掴むには、日本の箸が一番楽。軽くて動かしやすい。だから思う。北東アジア各地にある箸で鍋に最適なのは、「日本の箸」だと。何よりも、軽さ、操作性は重要なポイント。日本の箸は、食材を掴むのには最適だ。
ということで、この我々が住む日本で世界でも冠たる「鍋文化」が花開いた。その国に生まれたのは幸せなことだ。うーん……。Cでも皆さん知ってました? 日本にはどのくらいの鍋があるか。代表的なものでは、「広島の牡蠣のどて鍋」「若狭の白子鍋」「東京の湯豆腐」「兵庫のハモ・スキ」「愛知の鹿鍋」「北海道の石狩鍋」……。挙げればきりがない。
そのくらい日本人は、魚類、肉類、豆腐類、野菜類を使い、スープにも多種多様なものを使って味覚を豊かにしてきた。きめ細やかな食の文化が日本経済を(力強く)(多様に)……。
あれ、ちょうど行数切れ。「鍋で分かる日本経済」はまたこの次ということで。皆さん、「鍋の季節」ですよ……。
◎――――エッセイ
小室直樹の経済思想ゼミナール 特別編
小室直樹
Komuro Naoki
一九三二年生まれ。京大理学部卒、阪大、東大院修了。ハーバード大、MIT、ミシガン大各大学院へ留学。著書に『ソビエト帝国の崩壊』など多数。
古典派とケインズに影響を与えた政治モデル
人間は未来を正しく予測できる
市場を自由放任すれば「最大多数の最大幸福」はおのずと達成される――。
これは古典学派の始祖、アダム・スミスのドグマである。だが「最大多数の最大幸福」を追求することの正当性を最初に語ったのは、スミスより二回りも歳下のジェレミー・ベンサム。英国功利主義の元祖である。
ベンサムの思想は一七世紀の大哲学者ジョン・ロックのモデルを継承している。ロック・モデルでは、人間は自然状態――つまり社会をすべて捨象した状態にあると考える。身分も特権も一切ない。あるのは自らの身体、生命、自由、そして「予見能力」だけ。自然状態における人間と他の動物との決定的な違いは、この未来を予見して行動できる点にある。社会的な諸要素をすべて剥ぎ取られた状態においても人間は自らの身体と生命を駆使して労働し、糧を得る。しかも、今現在の刹那的欲求のみならず、将来にわたる欲求を予見して労働の成果物(富)を最大化しようとする――これがロック・モデルである。
だが、ベンサムは言う。人間は、将来の欲求を見越して行動できるだけではない。その効用、将来にわたる幸福の度合いも正確に計算できるのだ、と。
この「幸福計算(felicity calculus)」に基づいて最大多数の最大幸福を実現できるよう、市場は徹底して自由放任すべきだ――というのがベンサムの主張である。
古典派を否定したケインズの流動性選好
スミスの市場自由放任主義(レッセ・フェール)を熱烈支持したベンサムだが、皮肉なことに、その思想は後に古典派の宿敵となるケインズにも絶大な影響を与えた。ケインズが主著『雇用、利子および貨幣の一般理論』で展開した利子理論、すなわち流動性選好(liquidity preference)説である。
例えば、ある人が財産を持っていたとしよう。単純化のため、保有方法は現金で持つか、証券で持つかしかないことにする。現金で持てば利子はつかない。証券で持てば利子がつく。ロックの継承者たる古典派であれば「証券」で持つはずだ。将来にわたる欲求を予見でき、しかもその効用を正確に計算できるのなら、富を最大化するために利子のつく証券を選ぶに決まっている――これが古典派の考え方である。
ところがケインズは、そんな状況でも「現金」で持つことを選ぶ人は必ずいるという。理由は、証券の価格は変動するかもしれないから、である。証券の価格は利子率の逆数で表せる。利子率を「r」、証券の価格を「P」とすると、無限等比数列の和の公式から「P=1/r」となる。利子率が変われば証券の価格も変わる。だから今、インフレを捨象すれば、現金の価値は変わらないことになる。よって財産を安定的に保有するため現金(流動性)を持つ――というのがケインズの流動性選好説である。
古典派のドグマはロックの哲学を源泉とし、ロック・モデルは「人間には予見能力がある」との仮定を置く。ベンサムはこれをさらに精密化して「人間は将来における幸福も正確に計算できる(=経済人には未来が明らかに見える!)」とした。ケインズはこれを、途方もない仮定――将来を正確に予想することなどできない、として真っ向から否定したのである。
なぜ日本人は現金を蓄えるのか
日本人は膨大な金融資産を保有しているが、諸外国に比べると、現金や利子が限りなくゼロに近い預金で資産を持っている人が多い。いったいなぜか――。その理由までは、さすがのケインズも説明してくれていないが、やはり「先が見えない=将来における幸福が計算できない」というのも現状では一因だろう。
金融資産はたっぷりある。生産力も高い。いくらでもモノは作れるのに、みんなが不景気で悩んでいる。これほどの矛盾はない。みんながやたらに金を使えば景気は良くなるに決まっている。使えば使うほど乗数効果で収入も投資も増える。だけど誰も使わない。使えないのは、将来だけでなく「人」の行動が予測できないからである。自分が使っても、他の人が使わなければ意味がない。結局、自分ばかりが貧乏になる。投資も消費もされない貯金ばかりが増えて、経済まで塩漬けの状態――ベンサムなら、あるいはケインズなら、この状態にどんな処方箋を書くのだろうか。
◎――――エッセイ
対本宗訓
Tsushimoto Sokun
一九五四年生まれ。京都大学文学部卒業。臨済宗佛通寺派管長を経て、現在、帝京大学医学部にて医学を学ぶ。著書に『禅僧が医師をめざす理由』『坐禅――〈いま・ここ・自分〉を生きる』などがある。http://www.sokun.net/
「老い」の意味
多少奇異に響くかもしれませんが、私は三八歳のときから「老師」と呼ばれるようになってしまいました。誰が考えてみても、四〇にも満たない若僧に「老」の字を冠するのは、それこそ字義に悖(もと)るというものです。「老師」が宗門内での地位に対する尊称であり、必ずしも年齢とは関係ないといくらわかっていても、私自身、「老」の持つイメージの呪縛から、どこか居心地の悪さを感じずにはいられませんでした。
一般的に私たちは「老」という言葉に「衰」の一面しか見ていないものです。生物学的にも医学的にも、「老」とは加齢による正常な身体機能の低下、劣化、あるいは喪失を言うのであって、それ以外のものではありません。
確かに身体機能のほとんどは歳(とし)をとるとともに右肩下がりのカーブを描きます。まるで釣瓶(つるべ)落としの老いの日々を象徴しているようにです。しかしただひとつ、脳神経のインパルス速度だけは低下が目立って緩徐であることは注目してよいでしょう。つまりボケも現実ですが、大脳機能は老いてなお盛んでありうるということを示しているのです。
ご存じのように、ヒトは他の動物と比べ生殖年齢を過ぎてなお生存する期間、つまり老年期の長いのが特徴です。しかも生殖活動のピークと、精神活動を支える大脳機能のそれとは明らかに分離しています。長い老年期があることは人間に特有のものと言われていますが、これにはいったいどんな意味があるのでしょうか。
近代のライフサイクル論を持ち出すまでもなく、すでに古代インドの時代から、老年期が人生の完成期として位置づけられていました。若い時には活動のエネルギーが外側へ向かっていますが、身体機能の衰えにしたがって、自然と心の内側への眼差しが開かれてくるようになります。言い換えれば、文化の創造はもとより、精神的深化、魂の成熟など、あるていど身体機能が衰えなければ見えてこないものがあるということも事実です。
冒頭に述べた「老師」という尊称にもすでに示唆されているように、「老」の語は単に「衰」だけではなく、より本来的な意味で「熟」の面も併せ持っていることを深く銘記したいものです。そして直ちにこのことが「老いにどう寄り添っていくか」あるいは「老いをどう生きるか」という問いへの手がかりとなるのではないでしょうか。
◎――――エッセイ
山形浩生
Yamagata Hiroo
一九六四年生まれ。東京大学都市工学科およびマサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程修了。某大手シンクタンク勤務の傍ら、幅広いジャンルで批評、翻訳活動を展開。著書に『新教養主義宣言』『山形道場』など、訳書に『クルーグマン教授の経済入門』『環境危機をあおってはいけない』などがある。
ODAの現在とその終わらせ方
そもそも経済援助とは……
昔々、アメリカ合衆国というとっても偉い国があった。それが最近は見る影もなく……という話はどうでもいい。かれらの偉さは様々な面でも発揮されたのだけれど、それは戦争の後始末という面でも発揮された。昔は、戦争といったら勝った国が負けた国を蹂躙し、財宝をごっそりかっさらい、兵士たちは強姦略奪破壊の限りを尽くすのが当然のこと。あるいは巨額の賠償金をふんだくり、国力の根幹を叩きつぶして二度と刃向かおうなどという気を起こさせないのが常道だった。
ところがこのアメリカという国は、なんと負けた国を助けよう、という得体の知れないことを思いついた。それがマーシャル・プランだ。荒廃したヨーロッパの復興のために、勝った国が賠償金をもらうどころかお金を出しましょう、という常識はずれの発想。それが開発援助の発端だ。そこにはもちろん、第一次大戦後のナチスの台頭をふまえた反省もある。経済があまりにダメになると、不満も発生しやすく、国が不安定になり、それは世界的な不安定にもつながってしまう。ナチスみたいなのがあちこちで出てきてはたまらない。それよりは、きちんと豊かになってもらおう。そのほうが、世界の安定にも資する。ひいては、アメリカのためにもなるじゃないか。その名残は、いまもEBRD(ヨーロッパ復興開発銀行)という援助機関の名前に残っている。
そして、この発想は見事に成功した。ちょっとの援助で、ヨーロッパはすぐに復興し、一応発展への道を歩んだ。そして、一九五〇年代に入ると、それまで欧米の植民地だった第三世界が次々に独立国となった。もちろんかれらの経済レベルは低かった。インフラもない。でも、ヨーロッパはうまくやった。第三世界だって、ちょっとインフラを作ってあげるとか、ちょっと起業の資金を貸してやるとかすれば、もうあとはすぐに自立して、自力でガンガン発展し、貸した金も返してくれて、それでおしまい、になるはずだった。
もちろん、そこには冷戦の影響もあって、援助でも米ソが張り合う状況があった。でも一方で、現実に最初の援助のモデル通りの発展をとげた国もあった。ヨーロッパもさることながら、その最大のモデル国はアジアにあった。日本だ。
日本人の多くは忘れているけれど、日本はもともとODA(政府開発援助)を受ける側の国だった。日本の戦後復興は開発援助を結構受けている。東名高速道路も、新幹線も、世界銀行の融資を受けて実現したものだ。そして日本は見事に経済復興をとげた。ごらん。開発援助はうまくいくんだ。他の国だってできるはずだろう。それがうまくいきそうな様子もあった。共産国は五カ年計画を次々に実現し、生産レベルを増大させた。細かいところは雑だったけど(生活雑貨とか)、でも量的には結構よくなったようだった。そして西側陣営も負けじと援助でアスワンハイダムを作って、第二パナマ運河を作って、コンピュータを活用したシミュレーションに基づく計画理論によって効率も高まり……。
そして一九六〇年代。話はここらへんからおかしくなりだす。援助をいろいろやったところが、気がついてみると全然発展していないのだ。発展したところはある。たとえば奇跡の成長をとげた東南アジアとか。でも、ほかのところは、まあ惨憺たるありさま。もちろん、多少はよくなっている。貧乏な人は減った。また、飢えた人も減りつつある。かつて、人口が爆発的に増えるインドは早晩大規模な飢餓を迎えると予言した人がいた。そうはならなかった。でも、それが開発援助のおかげとはなかなか。そして発展したアジアも、それが開発援助のおかげとは、ちょっと言いにくい。最近発展している中国だって、市場経済を採用したから発展したのであって、援助のせいじゃない。すると、援助ってのがどこまで役にたってるのか、いまのぼくたちはまるっきり胸をはれない状態にいるのだ。
援助によって何を目指すのか?
さて、これまで援助の歴史を長々と書いてきた。それには理由がある。援助のあり方、援助の将来を考えるにあたっては、二つのことを念頭に置く必要がある。援助によってぼくたちは何をしたいのか、そして実際にそれができるのか、ということだ。それを理解するためには、そもそも援助って何のためだったのか、そしてそれがきちんと成果を挙げてきたのか、ということを見る必要がある。援助は、慈善じゃない。途上国の経済発展を一時的に助けてあげるためのものだった。そして、途上国が発展すること自体が、援助する側の役にたつはずだった。それは世界を安定させて、戦争という無駄な出費を抑え、そして貿易とかを通じてお互いにメリットを得るためのものだった。
ところが、それは思ったほどうまくいっていない。援助をたくさんしてあげたところが成長したか? いや。成長したところで援助は有効だったか? そうでもない。そして、一時的だったはずの援助は、いまや五〇年以上も続いている。結局、それは完全な失敗ではなかったけれど、でも成功と呼ぶにはあまりに乏しい成果しか挙げていない。
なぜかというと……そもそも国がどうして成長するかはよくわかっていないからだ。世界銀行とかは、わかっていると言いたがるけど、でもウソだ。かれらは後知恵で何か理屈をこねてるだけだもの。だいたい、人に教えるほど成長の仕方がわかっているのなら、援助大国日本はなんでさっさと自分が停滞から脱出して成長をはじめないの? そしてそれがわかっていないと、具体的にどう援助したらかれらの役にたつのかもわからない。
そして援助本来の目的も見失われてきている。日本でも、世界でも。日本では最近、援助は国益を重視しろ、というような話がよく出る。実は新しいODA大綱にもそんなことが書いてある。でも、国益ってなんだろう。これを口走る人は、援助したら相手国が直接日本に見返りをくれるとか、日本の言うことをきくとか、日本にごまをすってくれるとか、日本企業の仕事が増えるとか、そんなことを考えているようだ。でも、援助ってそもそもそんなレベルの「国益」を考えていたわけじゃないのだ。さらに世界では、世界銀行をはじめ、援助は経済発展なんか目指さずに、貧困削減を目指す、なんてことを言い出している。どうせ援助しても発展に役立たないんだから、いちばん貧乏な連中が死なないくらいの援助をしてやって、あとはもう放っておこうという発想だ。つまり、援助は慈善だ、と言っているに等しい。
ぼくは、どっちの考えも変だと思う。それで何が実現されるのか、よくわからない。援助は、本来はそんな短期的なエサみたいなものじゃないはずだった。でも一方で、どういう援助が発展につながるのかはっきりしないし、その「本来の」狙いがあまり成果を挙げていない以上、小手先とはいえなんかメリットが出た方がいいじゃないか、という議論もある。援助関係者の一部はこの板挟みで悩んでいる。
いま問題になっている援助をどうすべきか
じゃあ、本来の目的と短期的な国益、という面から現在問題になってる各種の援助ネタを考えてみよう。どれも結構簡単だ。慈善ではないこと、発展に資するか、日本に直接のメリットがあるか、という三点を忘れなければいい。
まずイラクやアフガン支援。ちょっとやそっとかれらを支援したところで、かれらが経済発展するわけがない。だから最初の点ではボツ。でも、この二カ国への援助はアメリカの顔色をうかがうための施策だ。それはまあ国益に資するとは言える。二点目は合格。だから、やればいいんじゃないか。実際にそれがイラクやアフガニスタンの復興に役立つかは、二の次、三の次だ。とはいえアフガニスタンの例を見ても、当のアメリカが一年たてばすっかり忘れ果ててしまうのは見えている。イラクも、いま派手に風船だけあげておいて、あとでだんだん先細りにしておけばいいとは思う。
北朝鮮。ここは焼け石に水だ。援助したところで、状況はほとんどよくならない。経済発展はおろか、人道的な援助だって効果はたかがしれてるし(一部の人が数日食いつなぐくらいでしょう)、あの王朝が延命するだけだ。援助しても日本のいうことをきくわけでもない。無駄だから援助なんか出すべきじゃない。
そして中国。すでにかなり経済発展してるし、宇宙船まで打ち上げてるし、そのうえ中国は、日本から援助をもらっておきながら、ほかのところには開発援助を出してあれこれ口出ししようとしている。余計な金もあるようだし、放っておいても民間レベルの投資で発展できそうだし、縮小していいと思う。ただし、日本企業もたくさん出ているし、いろんな報復措置をかなり露骨にするところだから、国益という意味ではしばらく横ばいくらいで推移させておけばいいんじゃないか。
きれいな引き際を考えよう
一方でそういう目先のことを離れたことも考える必要はある。これから先の援助はどうすべきか、ということだ。
ぼくはODAという仕組みそのものの終わらせ方をきちんと考える必要があると思う。それも世界的に。だっていまから三〇年たって、まだ援助が必要なほど飢餓や貧困が残っているなら、それはこの援助という仕組みが結局機能しなかったということだ。そしてもしそれがなくなっているなら――もう援助なんかいらないでしょ。もちろん利害関係者は難癖つけて残そうとはするだろう。環境問題がどうしたとか、南極のペンギンも豊かになる権利があるとか言いだして。そういうのを抑えるためにも、援助の目的と、そしてその成果を図るベンチマーク――ひいては存続を決める尺度――をいまのうちから明確にしておく必要がある。
開発援助という仕組みが根本的に成功だったのか失敗だったのかを、どこかではっきり見極めて、どうやってきれいに引退させるか、ということを考えなきゃいけない。ただしそのやりかたとなると、ぼくにもノーアイデア、ではあるのだけれど。
◎――――連載25
高橋義夫
【前回までのあらすじ】
意次の嫡男・意知は、土山宗次郎らが提案した蝦夷地開拓を進めることとした。しかし、田沼父子の権勢を快く思わない大名たちからは、成り上がり者としてさまざまな嫌がらせを受ける。そうしたなか、意知は江戸城中で旗本の佐野善左衛門に襲われ命を落とす。
花簪(はなかんざし)の踊り
小説・田沼意次
意知の遺骸が安置されている築地の田沼家別邸の門前が、夜がふけると騒々しくなった。何者とも知らぬ頬かむりの男たちが集まり、
「いやさの善左で血はざんざ」
と、声をそろえてはやしたてる。
去年からこどものはやり唄で、いやさの水晶で気はさんざ……という文句があり、その地口だった。善左はいうまでもなく、城中で意知を殺害した新御番の佐野善左衛門のことである。
門番が提灯を提げて表に出て行くと、男たちは散りぢりに逃げるが、遠くまでは去らずに、憎々しげに尻を叩いて、
「いやさの善左で血はざんざ」
と、はやし、いい気味だと悪態をつく。門番は騒動をおこすことを禁じられていたから、涙を呑んで引き返さねばならなかった。
夜が明ければ、二人の乞食(こつじき)があらわれ、一人はどこで手に入れたのか田沼家の七曜の紋をつけた酒樽の菰(こも)を頭からかぶり、尻を出して、怪しげな身ぶりで駈け出し、一人が鍾馗(しょうき)の冠をかぶり顔に墨髯を描いて、
「悪魔待て、逃がさぬぞ」
と、大声を上げて、木刀をふりまわして追いかけ、斬り殺す真似をする。それをとめる者はなく、それどころか大きな口をあけて笑って見ていた。
佐野善左衛門が語った意知殺害の理由に、いつのまにか尾ひれがついて市中の噂となっている。意知の死体が桔梗の間に横たえられているところへ、父の意次が急をきいて駈けつけ、わが子の死体の肩を扇子で二度打ち、なんたる醜態ぞと叱言をいったというありもしない噂まで駈けめぐった。
昨年の秋から東北地方を中心にして全国が兇作におちいり、食が尽きて多数の餓死者が出ていた。江戸府内は年内は備蓄の米があり、持ちこたえていたが、年が明けるころには地方からの廻米が途絶え、米価が騰貴した。貧民は口にするものがなく、飢えている。近郊からは打ちこわしの不穏な噂もきこえた。そうした庶民の鬱憤のはけ口が、田沼父子に向かったようである。
四月七日朝、意知の葬送の列が築地の別邸を出て、駒込の勝林禅寺に向かった。不祥事があったことをはばかり、家臣だけの寂しい葬列だった。三浦荘司は意次の代りに参列していた。その日は江戸城中で、刃傷事件にかかわる大目付、目付たちの処分が下されている日だった。
道々見物人が群れをなしたが、手を合せる者も礼をする者もない。上野あたりにさしかかったとき、見物人の中から投石をする者があった。石は棺には当たらず、随行の武士に当たった。
「無礼者」
と、怒鳴って武士たちが列から飛び出す。石を投げたらしい男たちが見物人の陰に逃げこんだ。荘司は大手を広げて、武士たちをさえぎった。
「騒ぐな。放っておけ」
「御葬列に石を投げるとは、すて置けませぬ」
武士たちは荘司をおしのけて犯人を捕えようとする。
「町方に任せろ。静かにいたせ」
荘司は武士の腰にしがみついておしとどめた。武士は追跡をあきらめ、口惜し涙を腕で拭った。
勝林禅寺の山門前には、菰をかぶった数十人の物乞いが待ちかまえていた。山門をふさぎ、中に入れまいとする。
「御葬列をさまたげるな。立ち去れ」
と、先払いの武士が叱りつけたが、ひるむ様子もない。ある者は大の字に寝そべり、
「斬るなら斬ってくれ。寺の前で死ねば世話はねえや」
と、うそぶく。仕方なく一人あたり銭五十文を与え、寺からは飯一椀をふるまってようやく葬列は門内に通った。
「我慢をしろ、我慢をしろ」
と、荘司は若い家臣たちの肩を叩いて廻った。
一方、佐野善左衛門は浅草の徳本寺の実姉の墓側に葬られた。間もなく、その月の二十三日に、幕府は米価の騰貴をおさえるために、米商人と米にかかわる商いをする人々に、米の買いしめと売り惜しみを禁じる布告を出した。その禁令の効果で、一時的に米が市場に出て米価は下がったのだが、それを佐野のおかげと信じた人々が、世直し大明神とあがめ、参詣に集まった。ついには門前に世直し大明神の幟(のぼり)を立てる者まであらわれ、町奉行所は無用の者の参詣を禁じる騒ぎとなった。
意次は寄合の林内記(ないき)に依頼して意知墓碑銘を選文して五月に勝林禅寺に碑を建てた。親として、非命にたおれた子の事蹟を後世に伝える心持ちからである。しかし二カ月後、林内記が叙爵されて大学頭に昇進すると、昇進を餌にして美辞麗句をつらねた碑文を書かせたと、城中では陰口をささやかれた。
意知の百箇日が過ぎてから、土山宗次郎が神田橋の屋敷を荘司に会いに訪れた。
「山城守様がお亡くなりになられても、蝦夷地調査にさしさわりはありませんか」
と、用人部屋で声をひそめて訊ねた。
「なにを心配しておられる。蝦夷地の調査はすでに公許の得られたこと。なんのさしさわりもありません」
「それならよろしいのですが、松前藩はだいぶ巡見を警戒して、使者が現地のアイノとじかに話をするのを妨げようとしていると、報告が来ております。青島俊蔵(しゅんぞう)と申す勘定役が頭取となって現地に参っておりますが、すでに先遣の最上徳内(もがみとくない)らが、厚岸(あつけし)から国後(くなしり)島、択捉(えとろぶ)島に渡っております。しかし青島には松前の横目(よこめ)がつきまとい、まるで罪人あつかいだとこぼしております。青島の書状によると、松前藩は青島たち御使者の落ち度をさがし出し、蝦夷地調査を中止させようと画策しているとか。万が一のことがあると、青島たちは二階に上がって梯子を外される破目になりますからな」
「心配はありません」
荘司は断言した。
「それで安心いたしました。くれぐれもご尽力をお願いいたします」
土山は軽く頭を下げた。土山は蝦夷地の開拓に命がけである。他のことは眼中になさそうだった。みずからを納得させるようにうなずいてから、眉をひそめて、にじり寄って、
「奥羽の飢餓の様子はお耳に届いておりますか」
と、話題を変えた。荘司はうなずき、
「少しはきいています。たいへんな惨状だそうですな」
「先日、ある者からくわしい話をききました。出羽、陸奥の両国はとくにひどいことになっております。銭三百文に米一升、雑穀も同じ値だそうです。もとから貧しい者たちは米穀を口にする手だてがなく、親子兄弟を見棄て、われ一人で他領に逃げる者どもが引きもきらぬとか。他領に逃げても、そこに米があるわけでもなく、飢える者がさまよい歩き、日に二千人、三千人と行き倒れて餓死しています。生国に残った者は餓鬼地獄に落ちたも同然で、食うべきかぎりのものは食い尽して、先に飢えて死んだ屍骸の肉を切りとって食っているよし。ある者の話に、陸奥のなんとやら申す橋にさしかかったところ、橋の下に餓死した屍骸が転がり、一人の男が屍骸を切り割りして、腿の肉を集めて籠に入れていたそうです。橋の上から、なにをしているのだと声をかけると、その男がこの肉を草木の葉と混ぜ、犬の肉と欺(だま)して売るのだと答えたそうです。また、ある土地では、幼き子の首を切り、皮をはいで焚火に投げこみ、親らしき者が……」
「もうよろしい。何万という餓死者が出ていることは承知しております」
荘司は手を横に振って話をさえぎった。
「こうつぎからつぎに天変地異がおこるとは、なにかが狂ってしまったのでしょうか」
と、土山が首を横に振った。
「わたしもこの春陸奥を旅したという人から、南部の五戸(ごのへ)から東の方の村里は、あいつぐ飢餓と疫病のために人種が絶えてしまったかのように、まったく人影を見ず、人声をきかないときいております。田畑は荒れ果て、雑草が生えるばかりで、崩れかけた人家をみかけて中の様子をうかがうと、夜着を着たまま白骨となった死体が寝ているだけだったそうです。まったくこの有様では、何年たったら、もとのように五穀が実る日がもどるのか、とその人は嘆息しておりました」
話にきくだけで暗澹(あんたん)とするのだから、現地を実際に見た人々の思いはどうだろうか。そういうことを、江戸屋敷に住む大名は語らない。旅行者の見聞によって、しだいに知られてきたのである。
土山は辞去の挨拶をしてから、荘司の顔をじっと見て、
「お痩せになりましたな」
と、つぶやいた。土山にいわれるまで、痩せたと自覚したことはなかった。
「そうですか」
と、答えて、荘司は片手で頬をさすった。
(つづく)
◎――――エッセイ
特別論文
田中秀臣
Tanaka Hideomi
一九六一年生まれ。早稲田大学経済学研究科博士課程修了。上武大学ビジネス情報学部助教授。著書に『日本型サラリーマンは復活する』『平成大停滞と昭和恐慌』(共著)などがある。
ハイパーインフレの幻想
日本はデフレ不況にある。このデフレ不況は、中国やインドの生産性上昇による国際的な構造デフレとする暴論もあるが、一般的には総需要(消費や投資など)が不足して起こる景気循環的な問題である。この場合、金融政策や財政政策の出番になるのだが、周知のように財政赤字の深刻化により、大規模な財政出動には制約が大きい。また金融政策については、九〇年代の終りからほぼゼロ金利政策が採用されており、通常のコールレート操作を通じての金融緩和効果も限界に至っている。
しかし問題が景気循環的なものであるかぎり、これに適応した政策を行うのは当然なことである。いま書いた財政・金融上の制約のもとで、いくつかの「非伝統的」なマクロ経済政策が考案されてきた。私は従来からインフレ目標を設定しての超金融緩和政策を主張している。しかし、このインフレ目標政策については、私からみると非常に興味深い奇抜な反論が試みられている。その代表的なものが、インフレ目標を導入するとハイパーインフレーションが起きるというものである。
ハイパーインフレはなぜ起きるのか
ハイパーインフレーションの定義は、論者によってさまざまであるが、歴史的な経験からすれば、月率四〇ないし五〇%の物価上昇率を目安としていることが多い。ハイパーインフレーションの経験として、教科書でもおなじみの例は第一次世界大戦後のヨーロッパや、七〇年代から現代までも頻発しているラテンアメリカやアフリカでの事例である。例えば、荷車一杯の貨幣で一袋の馬鈴薯さえも満足に買えないなどというエピソードが伝えられている。
ハイパーインフレーションの原因は、最終的にはきわめて高い貨幣成長率に求められる。戦前のオーストリアで、月率四〇%のハイパーインフレーションを生み出したのは、月率三一%の貨幣成長率である。そして、なぜ政府やその国の中央銀行が高い貨幣成長率を生み出してしまうかの答えも明瞭である。それは膨大な財政赤字による「財政危機」にある。なぜ膨大な財政赤字が高い貨幣成長率を生み出し、それがハイパーインフレーションに至るのかを簡単に説明しておこう。
いまある国が深刻な財政赤字問題に直面しているときに、これをファイナンスする手法は伝統的にはふたつしかない。ひとつは公債発行による政府借り入れをすることであり、もうひとつは貨幣を発行による貨幣発行益(シニョレッジ=貨幣額面から製造原価をひいたものが政府収入となる)を利用することである。
先のオーストリアの事例は第一次世界大戦による敗戦国であり、その戦後賠償金が極端な財政赤字ショックをもたらした。これをファイナンスするために政府・中央銀行は貨幣発行益を利用したことがハイパーインフレーションの引き金をひいたのである。また南米やアフリカで今日みられるハイパーインフレーションは、政府の財政赤字を国外からの借り入れによってファイナンスするという前者の手法をとっていたのだが、海外の貸し手が債務不履行を予期して政府への貸し付けを停止するという事態に直面して、その国の政府がやはり貨幣発行益に依存して財政赤字のファイナンスを行ったことで発生している。
さて、このようにハイパーインフレーションというものが、歴史的な経験では、主に深刻な財政赤字をファイナンスするための貨幣発行益の利用、その帰結としての急激な貨幣成長率に原因があることにほぼ異論がない。
ふたつのハイパーインフレ論
ところで、今日の日本の経済論争においてしばしば散見されるハイパーインフレ論は二種類存在する。ひとつは、先に書いたようなインフレ目標政策などを導入することによって、デフレ脱却を行うことは不可能であり、万一(「百歩譲って」という表現もよく利用されている)デフレ脱却ができても、一度インフレ期待になれば中央銀行はおいそれとインフレをコントロールできずにハイパーインフレになる、という主張である。
もうひとつは、デフレを放置すると政府の債務残高は膨張を続け、やがては日本の総資産約一〇〇〇兆円をはるかに超えてしまい、政府の債務不履行が人々の信じるところとなり、国債は暴落してしまう。そのため政府は財政赤字のファイナンスを貨幣発行益に依存せざるをえなくなり、ハイパーインフレーションの引き金をひくというものである。
最初のケースをハイパーインフレーションT型とすれば、後者はハイパーインフレーションU型といえる。そして歴史的経験と簡単な理論的考察さらに常識(世間知)の力を借りれば、T型はまず起こりえない。起こるとすれば、その確率は「魔法の壺」(ノーベル経済学賞のロバート・ソローの表現)にめぐりあえるくらいの確率であろう。しかしU型は日本が持続的なデフレに直面するかぎり、これは憂慮すべき可能性のひとつである。
T型は、主に今日のデフレへの政策的処方箋について超金融緩和政策が無効なことを主張するための根拠として利用されている。インフレ目標政策はデフレに効果はないか、あっても劇薬である、と喧伝されると、狼少年の童話を信じる世間知があるならば、そのような政策は誰も支持しないから、インフレ目標批判のレトリックとしては非常に魅力的なのかもしれない。この種のT型はそのような童話的なものから、より強固な理論的装いをもったものまで多数存在する。理論的なT型の代表としては、『先を見よ、今を生きよ』の斉藤誠氏と『誤解だらけの構造改革』での小野善康氏であろう。
斉藤氏も小野氏も日本の状況を「深刻なデフレ」であるとみなすとことから議論は出発している。ここで私がいう「深刻なデフレ」というのは、貨幣とその他の金融資産(代表的には短期・長期の国債を念頭に置かれたい)が完全に代替してしまうケースをさしている。通常の金融緩和政策の一手法としては、中央銀行が国債を買いオペすることで市場にマネーを供給する。より多くの国債を購入すれば、国債価格は上昇し、利子率は下落する。しかし国債の利子率がかりにゼロであったとしたらどうなるだろうか? 貨幣は利子がつかない流動性資産なので、この買いオペは単に貨幣を同額の貨幣と交換するだけになり、まったく金融緩和効果をもたないだろう。このような状況をケインズ経済学では「流動性の罠」とよび、ここでいう「深刻なデフレ」をさす事態である。斉藤氏も小野氏も定義には若干の差異があるものの、この「流動性の罠」に日本が陥っているとみているのだろう。
しかし、いまの日本の長期国債につく利子率はゼロではない。すなわち長期国債の買いオペは十分に金融緩和効果を発揮する。だがデフレ期待がより強まり、長期国債の利子率がゼロに接近する「深刻なデフレ」に陥る可能性はつねにあるし、現状の長期国債の利子率は高いとはいっても二%をきる水準であり、歴史的には高いものとはいえない。見方をかえれば長期国債の買いオペは有効ではあるものの、量的水準はかなり過大なものにする必要がある。
超金融緩和政策の誤解
インフレ目標(人によっては「調整インフレ」と表現して、この表現に過剰にマイナスのイメージを吹き込んでいるようだが、経済学的には意味不明の所業である)がハイパーインフレーションになってしまうと説く論者は、このような量的にきわめて過大な長期国債の買いオペがもたらすベースマネーが貨幣の信認を失わせ、貨幣を紙切れ同然にしてしまうと警鐘を鳴らすわけである。
例えば、小野氏は、貨幣も流動性資産(貨幣、国債、株など)の一部分にすぎず、貨幣を極端に増やしても、それで貨幣以外の流動性資産の実質的価値はかえって上昇するので、貨幣から他の金融資産により多くの資源が割り振られるだけであり、消費や投資への効果はない。いわゆる実需に効果はないが、他方でこの種の超金融緩和で貨幣は紙切れ同然になっているのでハイパーインフレーションが出現する、と説いている。
しかし、これはふたつの点で問題があると思われる。第一に、確かに小野氏の議論では流動性資産全体の実質価値はあがっているので、貨幣以外の流動性資産に資産選択の軸足が移動するかもしれない。しかし、それは株や社債あるいは外債などへの投資が増加するということを意味するのであり、これは実物投資を増加させる経路として機能する。さらにこれらの金融資産の価値が上昇し、実物投資が復調すれば、やがて消費も増加するだろう。
第二に、本論の冒頭でみたように、過去のハイパーインフレーションの経験をみればわかるように、ハイパーインフレーションの「原因」は、政府がまったく対処できないと予期される財政赤字ショックである。貨幣の大増刷はこの財政赤字ショックに生み出されたものにすぎない。言い換えれば、景気問題を解消するために打ち出された超金融緩和政策が原因となるハイパーインフレーションという歴史的経験は存在しない。そのためハイパーインフレーションの終焉は、ほとんどの場合、財政再建計画を伴った貨幣成長率のコントロールが功を奏した場合である。
幸いにして、ハイパーインフレーションU型が目前の問題ではない(その可能性が近い将来に接近しているだけである)。日銀はインフレ目標を立てた上で超金融緩和政策を行ってもハイパーインフレーションの懸念は生じえない。むしろ、インフレ目標はそのようなハイパーインフレーションの可能性を事実上排除するだろう。さらに政府が日銀とともにアコードを設定し、中長期的な財政再建を約束すれば、ハイパーインフレーションU型の潜在的な脅威も回避できる可能性が強い。
ところで、斉藤氏や小野氏が懸念する「深刻なデフレ」に陥った場合はどうであろうか。ポール・クルーグマンはこの場合でも超金融緩和政策への日銀のコミットだけで対処可能であるとした。私もそのような「政策レジームの転換」については肯定的である。しかしさらに確実性を増すためには、(現状ではU型の懸念はないから)貨幣発行益を活かした減税政策などの財政政策と組み合わせた超金融緩和政策がベストな選択になるだろう。
編集後記
マーケティング局より…
出版業界に勤める人間のあいだでは本は身銭を切って読むものという掟があります。そうしないと、我々、出版業界人は飯を食っていけないからです。私はよくその掟を破る常習犯ですが……。
先日も近所の図書館へ市場調査。休日の図書館の賑わっていること。話題の新刊ともなれば、一カ月待ちはあたりまえ。活字離れが盛んに言われていますが、この図書館の賑わいを見ていると、深刻なのはむしろ財布の中身が軽いことのような気がします。
最近の図書館はHPを開設し、インターネット予約もできるのです。この便利さが図書館利用に拍車をかけているのかも。
世間では身銭を切って、読書をしないと身につかないというのが定説です。読書の秋真っ盛り、是非この機会に座右の書(返却する必要のない)を見つけてみては。 (岩佐)
編集室より…
先日、会社帰りにCD店に立ち寄りました。小学生の娘に頼まれ、ジャニーズ系アイドル、Kinkiキッズのシングルを買うためです。
いい年をして、こういうCDをレジに出すのは気恥ずかしいもの。その心を知ってか知らずか、若い女性店員は「二一日にはアルバムも出ますので、よろしかったらどうぞ」。この言葉はマニュアルどおりなのか、それとも私を「オバサンのKinkiファン」と見たからなのか。後者は困る、と思った私は、反射的に「子どもに頼まれただけなので」と言っていました。
アイドルにはまることはないでしょうが、年を重ねても何かに夢中になったり感動する心は持ちたいもの。しかし、この店にはもう来ないかも、と思いつつポイントカードだけはもらってしまった私の行動に、しっかり年が表れているのかもしれません。 (小暮)
本誌創刊以来、二年にわたって続いた小室直樹さんの連載がまとまり『経済学をめぐる巨匠たち』と題して一一月に発売されます。経済学の系譜を根本的な思想までさかのぼり、経済と経済学の本質をわかりやすく説いた一書です。一一月号からは新たに早稲田大学教授・若田部昌澄さんの連載「経済を読むキーワード」が始まりました。ご期待ください。
二〇〇三年は江戸開府四〇〇年ですが、ペリー来航一五〇年でもあります。たった一五〇年! 米欧と次々に和親条約を結んでいったのが一八五四年ですから、来年は日米、日英、日露和親条約一五〇年の節目にあたります。お、そういえば来年は私も五〇歳になるんだ。すると生まれた年が開国一〇〇年だったわけか。近代化なんてつい最近のことなんだなあ。それにしても江戸時代の平和は長かったんですねえ。 (坪井)
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