<%@ page language="java" contentType="text/html; charset=Shift_JIS" pageEncoding="Windows-31J" %> Kei2007年5月号

CONTENTS

エッセイ

須田一幸 粉飾決算の防止
池田輝久 『大人の仕事ドリル』で非常識なビジネススキルを身につける
塩野 誠 プロフェッショナルの時代に若者は何をすべきか?
酒井光雄 『できない人ほど、データに頼る』
編集者が語る 『一粒の人生論』
山田 修 ファミリー・ビジネスの時代だ
吉田利宏 法律は考えるゲームです!
編集者が語る 『中国が北朝鮮を呑みこむ日』

連 載

森 達也 [新連載]リアル共同幻想論(1) 「人はなぜスリッパを重ねるのか」
嶋田 毅/加藤小也香 【連載】第11回 最新 MBA用語事典
小室直樹 日本人のためのアメリカ原論(5) なぜ強大な国家権力が必要なのか
竹内有三 ビジネスマンのための健康ラボ【骨格アライメント】(21)
西村ヤスロウ 美人のもと(21)
安土 敏 連載小説(37)小説「後継者」
佐和隆光 ハードヘッド&ソフトハート(65)基礎科学の軽視が国を滅ぼす
武田双雲 瞬間の贅沢(24)
編集後記

◎――――巻頭エッセイ

粉飾決算の防止

須田一幸

Suda Kazuyuki
早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。1955年生まれ。経営学博士、専攻は会計学。

 カネボウとライブドアの粉飾決算が大きな社会問題になった。そして、二〇〇六年に金融商品取引法が成立し、不正な財務報告を防止する制度が整備された。しかし、今また、日興コーディアルグループの粉飾決算が明るみとなり、さらに三洋電機の会計処理について疑惑が報道されている。須田・山本・乙政編著『会計操作』(仮題、ダイヤモンド社近刊)では、粉飾決算の一歩手前にある会計操作の実態を調査し、会計操作が株式市場に与える影響を分析した。このエッセイでは、どうすれば粉飾決算を防止できるかということを考えてみよう。
 粉飾決算を防止する制度の三本柱として、会計基準と監査および内部統制が挙げられる。つまり、(1)合理的な会計基準を設定し、それに依拠して企業が財務報告を行う、そして、(2)財務報告が会計基準に依拠して行われているかを公認会計士が監査する、さらに、(3)不正な財務報告が行われないように企業が自ら監視機構を作る、のである。
 いずれも粉飾決算を防止するために不可欠である。どんなに優れた会計基準を設定しても、監査が杜撰で、企業の内部統制に不備があれば、粉飾決算は防止できない。また、どんなに質の高い監査と内部統制を実施しても、ざるのような会計基準では砂上の楼閣になる。三つの要素が固く組み合えば、粉飾決算を防止する相乗効果が発揮される。その体制作りに向けて、ここでは二つのことを提案したい。
 第一に、会計基準の設定機関を充実させる必要がある。日本の会計基準は、財務会計基準機構の企業会計基準委員会が作成する「企業会計基準」などで構成されている。財務会計基準機構は民間団体であり、二〇〇五年度の収入は約一三億円、研究員数が二六人だった。これに対して、アメリカの財務会計基準審議会(FASB)の同年度収入は約三五〇〇万ドル(約四〇億円)であり、研究員は六八人にのぼるという。ハイレベルの会計基準を設定するには、わが国の場合もっと多くの資金と人材を確保する必要があるだろう。財務会計基準機構の財政は会費収入に依存しているが、地方証券取引所の上場企業やジャスダック上場企業の加入率は未だ三〇%程度だという。FASBと同様、上場企業に対して財務会計基準機構への加入を義務づける方向が考えられる。
 第二に、監査に対する社会的投資を促進する必要があるだろう。近年、新しい会計基準が相次いで設定され、さらに二〇〇八年四月一日以後開始する事業年度から、四半期財務報告のレビューと内部統制の監査が行われる。公認会計士の業務は飛躍的に増大しているが、それに伴う公認会計士の数と報酬はさほど増えていない。会計士の人数は最近少しずつ増加しているが、それでも一万七〇〇〇人ほどであり、約三三万人の公認会計士がいるアメリカとは大きな差がある。そして監査時間と監査報酬はアメリカとイギリスの数分の一にすぎないといわれている。質の高い監査は一種の公共財であり、我々はそのための投資を怠ってはならない。

◎――――連載

新連載 リアル共同幻想論

第1回 人はなぜスリッパを重ねるのか

森達也

Mori Tatsuya
1956年生まれ。テレビディレクター、映画監督、作家。ドキュメンタリー映画『A』『A2』で大きな評価を受ける。著書に『東京番外地』など多数。

 小学五年生になる長男が熱を出した。咳も止まらない。近くの小児科に連れてゆく。玄関の扉を開ければ待合室には大勢の子供たち。風邪が流行っているらしく、そのほとんどはぐったりと、隣に座る母親にもたれかかっている。
 靴を脱いだ僕は、玄関の横の靴箱に入っているスリッパに履き替える。長男は二回りほど小さなスリッパ。三〇分ほど待たされてやっと受診。
「風邪ですね」
 長男の咽喉の奥を覗き込みながら、症状と経過を説明する僕に医師は一言。うん。それは僕にもわかる。
「お薬二種類出しておきます。熱が少し高いようなので、座薬も出しておきましょう。しばらく様子を見てください」
 礼を言ってまた待合室の長椅子に腰かける。いつのまにか子供の数が増えている。まるでこの狭い空間で増殖しているようだ。ぐったりともたれかかる子供たちを横抱きにしながら、母親たちは皆、疲れきったように宙の一点を見つめている。
 名前を呼ばれて僕は立ち上がった。受診料を払い、小さな紙袋に入った薬を手渡される。長男の手を引きながら玄関へと向う。子供の数はますます増えている。まるでこの地域の子どもたち全員が、この狭い空間に集まっているかのようだ。
 一三〇人の子供たちを引き連れたハーメルンの笛吹き男は、そういえば町を出てからどうしたのだろうとふと思いつく。いずこかへ消え去ったとするバージョンもあるし、洞窟に入ったとするバージョンもある。いずれにしても最初のうちはまだいい。でも二、三時間も歩けば、お腹が空いただの、家へ帰りたいだの、ゲーム機を忘れただの言いながら、泣いたり座り込んだりする子供たちが続出しただろう。おそらくハーメルンの笛吹き男は、その段階で自分の軽率さに後悔したはずだ。世の中にはいろいろ面倒ごとはあるけれど、子供の世話は何よりも大変だ。それも一人や二人じゃない。町中の子供たちだ。笛吹き男だけではない。子供たちだって後悔したはずだ。そして親は泣いている。ひどい話だ。誰も幸福になどなっていない。
 玄関口にはさらに大勢の子供と母親たちがいた。中に入りきれないのだろうか。母親たちは何となく、僕と長男の足もとを見つめている。……何で足もとを?
 そうか。スリッパだ。スリッパが足りないのだ。だから彼らは待合室に入れず、玄関口で咳が止まらない子供の背中をさすりながら、誰かがスリッパを脱ぐのを待っている。
 あわててスリッパを脱いだ僕は、長男が履いていたスリッパと合わせて手に持った。でもどうしよう。いくつもの正方形に区切られた靴箱のスペースは大きくない。ここに収納するためにはスリッパを重ねなくてはならない。
 僕の後ろにいた母親が、この人は何をぐずぐずしているのかしらとでもいうように僕を少しだけ押しのけて、履いていたスリッパを脱ぎ、片側のスリッパの足を入れる部分にもうひとつのスリッパの先端を差し入れて、重ねたスリッパを靴箱に戻した。
 おそらくは日本全国津々浦々、スリッパの収納としてはとても当たり前の方法だ。玄関に立ちつくしていた母親が子供の手を引きながら、待ちかねたようにそのスリッパを手に取った。
 僕も手にしていた二つのスリッパを、同じように片方を片方に差し入れながら靴箱にしまう。もうひとりの母親が、入れたばかりのスリッパを素早く手にとった。僕と長男は靴を履き、玄関の扉を開けて外に出た。初春の風が頬を吹きすぎる。駐車場まで長男の手を引いて歩きながら、思わず言葉が口の端からこぼれおちた。……意味ないじゃん。

誰も変だと感じない「当たり前」

 そもそもなぜ、待合室でスリッパに履き替えねばならないのか、その理由がよくわからない。いずれにせよ履物の意味は、足の裏を床や路上と遮断するために履くものだ。その定義に間違いがないのなら(ないはずだ)、スリッパを絶対に重ねるべきじゃない。なぜなら重ねるときに底面が足の裏が触れる内側の箇所に付く。付くどころかべったりと付着する。つまりその瞬間、床と足裏とを遮断することが目的のはずのスリッパは、本質を失っていることになる。
 ハンドルを握りながら考える。別に病院だけではない。家庭はもちろん、旅館や小中学校など、スリッパはとても日常的に僕らの生活に溶け込んでいる。そして病院や学校や旅館でのスリッパの収納方法は、まず当たり前のように、ひとつをひとつの中に入れる方式だ。つまり底面と足の裏が触れる面とが、いつも接触している履物だ。そして何よりも、誰もこれを変だとは感じていない。当たり前になってしまっている。
 現存する最古の靴はエジプトのピラミッドから発掘されたサンダル状の形態のものらしい。でも実際の発祥は、エジプトやら黄河文明やらインダス文明の時代どころではなく、もっとはるか前の時代であることは容易に想像がつく。石器や鉄器文明の頃に、手製の槍を振りかざしながら獲物を追っていたご先祖たちが、足裏を草や小石から守るために、藁や枯草などを足に装着していとしても不思議はない。つまりこれが靴の発祥だ。
 ならばスリッパは、いつ、誰が、発案したのだろう。

日本型スリッパの始まり

 ネットで検索すると、「東京工業スリッパ協同組合」なるタイトルのサイトを見つけた。スリッパメーカーの組合で、創業は昭和四〇年。このサイトによれば、日本型のスリッパが考案されたのは江戸時代の終わりから明治時代の初めにかけて。鎖国体制が終了するとともに来日するようになった外国人たちが旅籠や寺社に泊まる際、どうしても靴を脱がずに部屋に上がってしまうため、靴を履いたまま履く屋内用の上履きとして、東京八重洲に在住していた仕立て職人の徳野利三郎が考案して作成した。このときの基本形は左右同型で底は平面。そしてこれが、その後の日本におけるスリッパのスタンダードとなった。
 欧米にもスリッパ(slipper)はあったし今もある。靴の汚れ防止用に履くミュールや、観劇用のパンプスなど、使用目的に合わせた簡易な履物だ。どちらかといえばサンダルの感覚のようだ。日本のスリッパのような屋内履きは存在しない。最も大きな違いは、欧米のスリッパの場合は、日本のスリッパとは異なり左右非対称であることだ。ちなみにシンデレラの履いていたガラスの靴は、原文では「GLASS SLIPPERS」と表記されているらしい。
 いずれにせよ、屋内では靴を脱ぐという日本独自の畳文化が、スリッパなる履物を誕生させた。そして僕は、このスリッパ的なリラクゼーションが嫌いではない。いやかなり好きだ。たとえば飛行機での長旅の際、スリッパのありがたさをつくづく実感する。戸外を出歩いているときならしかたがないが、本を読んだり、睡眠をとろうとするときは、やはり靴を脱ぎたくなる。
 国際線の場合、日本の航空会社は各座席に使い捨てのスリッパを常備してくれることが多いようだ。外国の航空会社の多くは何もない。たまに使い捨てのソックスが座席に置かれている場合がある。靴を脱ぎ、靴下の上からこのオーバーソックスを履くわけだ。あれば利用する。靴を履きっぱなしよりはいい。確かに合理的だ。でも、体験者ならきっと同意してもらえると思うのだが、何となく素足で歩いているような感覚で落ち着かない。特にトイレに行くときは気が引ける。やっぱり日本人はスリッパ。ちなみに僕はかつて、飛行機でもらえるスリッパを持ち帰ってストックして、長旅の場合にはバッグに入れて持ち歩くことにしていた。ホテルでも役に立つ。特にシャワーを浴びた後、日本人としては靴を履きたくない(最近は100円ショップでも入手できるようになったので、使い捨てができるようになった)。

利便性の裏に潜む落とし穴

 日本で生まれたスリッパだけど、その出自が示すように、かつては庶民が日常的に使うものではない。いわば上流階級のシンボルだった。いつごろから普及するようになったかといえば、昭和三〇年代のようだ。つまり高度経済成長期。団地や集合住宅などが日本中に建設され、台所ではなくキッチンに、あるいは洋間に、スリッパはとてもよく馴染むグッズとして普及した。
 欧米からはウサギ小屋などと貧困な住環境を揶揄されながらも、日本人はスリッパを履きながら頑張った。頑張り方の問題はあったし、経済的な成功ばかりが賞賛される傾向は強まったかもしれないが、でもとにかく、スリッパと共に築いた繁栄なのだ。
 だから僕はスリッパを応援する、ないと困る。でもそれだけに、使い方の矛盾に対しては寛容ではいられない。裏と表を密着して収納する。つまり床面と足の裏とを間接的に接触させる。これはスリッパだけではなく、履物のレゾンデートルを破壊することと同義なのだ。それじゃスリッパが可愛そうだ。
 利便性が高ければ高いほど、使い心地が良ければ良いほど、安心感が強ければ強いほど、視野が狭窄するリスクが大きくなる。必ずとは言わないけれど、そのリスクが高まる傾向にあることは間違いない。狭窄した視野は、当然ながら不可視の領域を増大させる。そしてこれを補うため、共同体は時として、その多くの構成員が共通して抱く幻想をオートマティックに作りあげる。
 この連載は、そんな日常の共同幻想や不可視になってしまった領域に、違う角度から光を照射することを目的とする試みだ。現象や事象は多面的だ。いつもとは違う角度から光が当たるだけで、まったく知らない側面や相貌が現れる場合がある。
 その一回目にスリッパがふさわしいかどうかはわからない。少しだけ使い方を間違えているからといって、この場合は大きな災いには結びつかないとは僕も思う。
 でも馴致は広がる。滲出する。それに、もしも今のこの世界にコレラやペストが蔓延しているならば、スリッパの誤った使い方は人の命に関わる問題となる。
 ハンドルを握りながら思い出した。ハーメルンの笛吹き男の伝説は、実はペストによる災忌のメタファーなのだという説だ。良かったなペストが撲滅されていて。助手席の長男にそう言うと、医者の処方した薬でいつのまにかかなり回復したらしい長男は、「ねえ、お願いだから前を向いて運転してよ」とつぶやいた。

◎――――エッセイ

『大人の仕事ドリル』で、非常識なビジネススキルを身につける

池田輝久

Ikeda Teruhisa
一九四九年生まれ。慶應義塾大学法学部卒。七四年日本IBM入社。営業一年目で「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」獲得。以降同社最高額契約を受注するなど、ナンバーワン営業マンとして活躍。その後、日本オラクル常務取締役、EMCジャパン副社長を経てエンパワー・ネットワーク設立。ビジネススキルの重要性と価値を広めるため、研修・講演・執筆に活躍。NTT、サン・マイクロシステムズ、サントリー、ソフトバンク、第一生命、電通、トヨタ、日立など一〇〇社に近い研修実績を誇る。

 本書はドリル形式で楽しみながら、ビジネススキルを高めるために企画されたものです。ただし初めにお断りしておきますが「電話の対応」とか「名刺の受け取り方」といったビジネスマナーを扱った本ではありません。もっと実際のビジネスの場に即した、実践的コミュニケーションのスキルを鍛えるための書です。

非常識なビジネススキルを戦略的に用いよう

 マナーというのは絶対に必要なものです。社会生活においての基本ルールです。ただ、これを完璧にやれば有能なビジネスマンになれるかというと疑問です。
 マナーをふまえた上でさらに大事なことが、現実のビジネスの場ではたくさんあるわけです。たとえばビジネスにおいて最も重要なことは信頼関係を作ることでしょう。強い信頼関係を得るためにただマナーを守っているだけでよいのかというと十分条件ではないのです。
 人に会う場合はきれいな名刺を持参し礼儀正しく渡す、ということをまず会社では教わるはずです。ところが、皆がそれを忠実に守っているので、インパクトがないのです。だから、あえて名刺を持っていかないというマナー違反が、信頼関係を構築するのに役立つこともあります。なぜなら、まず印象に残るということ、そしてもう一度相手に会うチャンスが得られるからです。最初の挨拶では数人で、あるいはパーティなどの会場では大勢で会っていたものが、次回名刺を持って一人で訪ねることができるわけです。
 例えばビジネスの相手と会食するときも、美味しい料理を用意し、気配りをして、失礼のないように話を聞いて……なんて事をしていたのでは決して親しい間柄にはなれません。極端なことを言えば、殴ってしまって、後で謝るくらいが一番インパクトがあるのです。そのうえでしっかりフォローできれば、強固な関係が築けます。
 実際に生のビジネスの場ではそのような事がたくさん出てきます。ビジネスの現場はまさにドラマの連続なのです。それはマニュアルに頼った対応では処しきれないものです。そしてそういった難題をクリアできる能力を持つ人が、仕事ができると評価されるわけです。
 ただし、ずっとマナー違反ばかりしていては、常識のない人だと相手にされなくなります。常識に反するとわかった上で戦略的に用いることが重要なのです。これがビジネススキルという領域です。世の中の達人と言われる人や、経営者はみなこの能力を持っています。そういったノウハウを実戦例として伝授するのが本書の狙いなのです。

本当の意味のビジネススキルとは?

 本書は、きわめて具体的なビジネスのケースを、ドリル形式で考えていける点が大きな特長です。大事なのは実際の場面でどう動くか、ということに尽きます。
 ではここで、ビジネススキルに関する問題を一つ紹介しましょう。

【質問】あなたの会社には次の三タイプの「できる営業」がいます。あなたはどのタイプの営業が本当に素晴らしい営業だと思いますか?

(a)思いもよらなかった素晴らしいビジネスを突然受注して、周りをびっくりさせる営業
(b)厳しいコンペティションに血みどろになって勝ち抜く営業
(c)コンペティションなしにすんなりと目標を達成する営業

【解答】(a)1点 (b)3点 (c)5点

 まず、営業はできるだけ早い時点で案件の存在を社内に告知すべきです。案件があるのに黙っておいて、突然受注したから評価してほしいというのはルール違反です。多くの営業が真似をしたら、売上や利益を予測することができず大変なことになるでしょう。
 また、厳しいコンペティションに勝利すると格好よく見えますが、そこには負けるリスクもあるのです。素晴らしい営業とは、お客様との間に強い信頼関係を築きあげつつ競合なしにビジネスを達成する人なのです。

 このように本当の意味のビジネススキルの高さとは、表層的でなく奥深いものなのです。
 先日、バスに乗っていたら、三歳くらいの子供が親とまともに会話をしている姿を目にしました。そのとき、人間とはなんと凄い能力を持っているのだろうと改めて感じたものです。たった三年ほどで、歩き、認識し、会話し……どんなに優秀なコンピュータでも考えられないことです。
 私たちが日常ごく当たり前にこなしている事柄の本来持つ難しさに比べれば、仕事で必要とされる能力などたいしたレベルではありません。
 人は生まれながらに素晴らしい能力を持っています。元来優秀であるあなたが、このドリルを最後までこなせば、確実にビジネススキルが高まることは間違いないでしょう。



大人の仕事ドリル

『大人の仕事ドリル』
池田輝久:著
●1365円(税込)

◎――――連載

【連載】第11回
最新 MBA用語事典

グロービス経営大学院
嶋田 毅/加藤小也香

Shimada Tsuyoshi/Kato Sayaka
【グロービス経営大学院】
民間のマネジメント教育機関であるグロービス・マネジメント・スクールを母体に2006年4月より発足した経営大学院。「創造と変革」を担う人材の輩出を目指している。

純粋想起と助成想起

pure recall, assisted recall
【カテゴリー】マーケティング

 純粋想起とは、製品カテゴリー等の手がかりが与えられたとき、特定のブランドを思い起こせること。たとえば、「ハンバーガーショップといえばどこを思い浮かべるか」といったように、ハンバーガーショップというカテゴリーが与えられただけで、特定のブランド名を再生できる状態を指す。ブランド再生、非助成想起とも言う。また、回答者のうち、純粋想起した比率を純粋想起率、非助成想起率、再生知名率という。
 一方、あるブランド名を手がかりとして与えられたとき、そのブランドへの認知を確認できることを助成想起と言う。たとえば「○○というブランドを知っているか」というように、提示されたブランドについて、それが既知であると確認できる状態である。ブランド再認とも呼ぶ。また、回答者のうち、助成想起した比率を助成想起率、あるいは認知率、再認知名率と呼ぶ。
 一般に、助成想起よりも純粋想起のほうが記憶の程度が強い。そして、純粋想起のほうが、購買の際により選択されやすいとされている。
 広告戦略において、どちらを重視するかは製品のタイプによって異なる。たとえば、清涼飲料水やスナック菓子のように、消費者のこだわりが比較的小さく、店頭で手に入れやすいものを気軽に選ぶ製品(最寄品)では、ブランド再認が購買に結びつくため、再認知名率アップを目標とする場合が多い。
 一方、車や高級腕時計などブランドの指名買いが多い製品(専門品)は、ブランド再生のレベルにないと購入の選択肢に含まれないため、再生知名率アップを目標に据えることが多い。
[関連語]コミュニケーション戦略、広告戦略、マインドシェア

マインドシェア

mind share
【カテゴリー】マーケティング

 顧客の心の中に占める特定ブランドの占有率。
 定義からも推定されるように、マインドシェアは直接に測定できるものではない。一般には、純粋想起率で代用することが多いが、場合によっては純粋第一想起率を用いるケースもある。純粋第一想起率は、たとえば「ハンバーガーショップといえば、まずどこを思い浮かべるか」のように、最初に頭の中に浮かぶブランドを答えてもらったときの割合である。
 通常、マインドシェアは販売シェアとは一致しない。なぜなら、販売シェアは製品力や価格競争力、チャネル力なども加えたトータルの力が反映されるからである。マインドシェアが低いにもかかわらず販売シェアが高い状態は、価格競争力やチャネル力に優れていることを示す一方で、当該ブランドの将来性に黄信号が点っていることを示す兆候でもある。
 マインドシェアは一般に専門品でより重要とされてきたが、近年ではネットで情報を収集したり購入したりする消費者が増えてきた影響もあって、ますますその重要性が指摘されるようになってきている。また、こうしたトレンドを反映して、検索エンジンで上位に表示されるようにする、いわゆるSEO(検索エンジン最適化:Search Engine Optimization)が高い注目を集めている。
 なお、マインドシェアが高くとも、顧客が好感度を抱いていない場合には、購入に結びつかない。たとえば、プロスポーツ球団のアンチファンにとっては、当該のチームはマインドシェアは高いものの、チケットを買ってまでゲームを見ようとはしないだろう。
[関連語]純粋想起、助成想起

広告戦略

advertising strategy
【カテゴリー】マーケティング

 一般に、顧客にある商品・サービスを購入してもらうためには、そのブランドのことを何らかの形で知ってもらう必要がある。マーケティングにおいてこの目的を果たすための中心となるのが広告戦略である。
 広告戦略は大きくクリエイティブ戦略とメディア戦略に分けられる。この両者がうまくかみ合うことが、ブランドの認知を効果的に高めるうえで必須である。
 クリエイティブ戦略は、「伝えるべきメッセージづくり」である。企業がこれだけは伝えたいと考える製品やサービスの属性を選び出し、メッセージを明確にすることである。効果的なコミュニケーションを行うためには、少数の属性に絞ったほうがよい。また、絞り込んだ製品やサービスの属性をそのままストレートに伝達するだけでは、受け手に興味を持ってもらえないことが多い。したがって、受け手が興味を持つような「伝わる」メッセージに翻訳する必要がある。たとえば、テレビCMの場合は、印象的なメッセージ(キャッチコピー)と周到な場面設定が重要になる。
 一方、メディア戦略は「伝える場所の確保」である。ターゲットの属性、サイズ、エリアに合わせて、予算の枠内で最も効果的なメディア・ミックスを探し当てることが重要である。なお、テレビ、インターネット、新聞、雑誌、ラジオ、屋外広告など、それぞれのメディアには特性があり、それを活かすような表現戦略を心がけなければならない。
[関連語]コミュニケーション戦略、セールス・プロモーション



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◎――――連載

第5回 なぜ強大な国家権力が必要なのか

小室直樹

Komuro Naoki
1932年生まれ。京大理学部卒、阪大、東大院修了。ハーバード大、MIT、ミシガン大各大学院へ留学。
著書に『危機の構造』『経済学をめぐる巨匠たち』など多数ある。

宗教となった資本主義

 アメリカで政治思想といえば、ロックの思想家が浸潤するにしたがって宗教的思想に変質した。既に述べたように、資本家、発明家、探検家などにおいても予定説的信念を持つに至っている。また、アメリカ経済学においては、古典派とケインズ派の論争が中心テーマとなっていたが、それが宗教的色彩を帯びるに至った。
 マルキシズムは宗教といわれたが、ソビエトの崩壊と共に消え去っていった。
 他方、資本主義論争はますます宗教的性格を帯びるに至った。古典派のケインズ論争を見よ。ルーカス、サージェントの徒輩はケインズ派を罵倒する際に、あたかも異端者を痛罵するが如き用語を用いているではないか。ケインズの専門用語(失業、とくに非自発的失業など)があたかも禁句の如き取り扱いを受けた。古典派は、長らく、このようなものは存在しないと唱えてきたからである。
 かくの如く資本主義は宗教にまでなったから、アメリカは国策として、相手が資本主義となれば味方と考え、資本主義でなければ敵と考える。資本主義国を守るためなら、戦争も厭わない。マルキシズムに代わって、アメリカこそ「資本主義という宗教」を信奉する宗教国家となってしまった。
 これみな、ロックの思想の一般化といえる。

自然状態とは戦争状態

 初めて近代哲学の立場から人間モデルをつくったのは、ホッブズであった。
 ホッブズは英国に生まれ、チャールズ一世の死刑とクロムウェルの執政と王権回復の時代をまずつぶさに研究した。そして、内乱とは如何に恐るべきものかを身にしみて感じた。
 だから、ホッブズの問題意識といえば、如何にしてこの内乱の問題を治めるべきかにあった。彼は、この恐るべき内乱が如何にして起きるのかを説明するために、これにビヒモスという名前を付け、説明するための理論的モデルをつくった。
 ホッブズは自然科学と数学に興味を持ち、とくに「ユークリッド幾何学」を学問の手本とした。彼の哲学とは、幾何学的人間モデルである。
 彼は戦争のために社会的要素をすべて捨象して、知覚のみを有する人間を考えた。
 ただし、人間には知覚のほかに、理性があり、これによって将来のことが予見しうる。そして人間は、現在だけでなく、予測された未来のためにも食料を欲する。この食料は多ければ多いほどよい。
 このように、自然人は動物と違って、知性によって未来を知ることができるから、現在でも、将来でも、生活するために、なるべく多くの食物を手に入れなければならない。いわば、必要な食物を無限に要求するのである。
 しかし、実際に存在する食物の量は有限である。したがって、他人の取り分は無限にして、有限の食物を巡った争いとなる。
 かくて、互いに狼となり、万人の万人に対する闘争となる。ホッブズの自然状態とは、戦争状態である。

戦争状態に如何に対処すべきか

 しかも、ホッブズの自然状態は、自由で平等の状態であるから、抜群に弱い人も、抜群に強い人も存在しない。そして、この恐ろしき戦闘は、永遠に続くであろう。
 ホッブズは、この戦争状態をビヒモスと呼んだ。ビヒモスを退治するためには、如何にすべきか。
 そのためには、人々は契約によって戦争をやめる必要がある。しかし、契約を破る者が出てくる。この場合、かかる不届き者を懲らしめるために、強制が必要となる。
 この強制を担当するのが政治権力であり、この国家権力をリヴァイアサンと呼ぶ。

ロックが加えた重大な要素

 ロックはホッブズを受け継ぎ、近代哲学として、やはりユークリッドの『幾何学原論』をモデルに、抽象的人間モデルをつくった。
 ロックは四〇歳にして初めて『幾何学原論』を読んで、限りない感激を受けた。そして、学問とはかくの如きものでなければならないと思った。
 ロックは、ホッブズのビヒモスとリヴァイアサンの理論を見て、これこそ真の哲学と思ったが、重大な追加(変更)を唯一つだけ加えた。この唯一つの追加によって、ビヒモスもリヴァイアサンも性質を異にすることになった。
 ホッブズの自然状態とは、いわば消費するだけの採取経済であった。彼の自然とは、人間の誰もが手を加えることができない状態である。食物といっても、拾うか、捕まえるかのいずれかである。
 これに対して、ロックの自然状態とは、農耕など人間の力によって食物を増加しうる状態である。
 ロックが、ホッブズの理論に加えたのは労働だけであったが、これによって事情は根本的に変わることになった。
 ホッブズの自然状態は万人の万人に対する戦争状態であったが、ロックの自然状態によって、万人が共同して働く平和状態になった。とはいうものの、
 ――内乱は絶対に起きないのか――。
 ――国家権力は必要とまでいえるのか――。
 ロックはそこまでは言っていない。それでは、みんなが共同して働けば、みんな幸せになりそうだが、実はそうでもない。

強大な国家権力の必要性

 みんな共同して働くといっても、より働くやつもいれば、怠けるやつもいる。とくに貨幣の発明の後は両者の格差となり、格差は限りなく大きくなるかもしれない。
 かくして、労働によって得られた富の増加は、労働に従事した人のものになり、このルールは私有財産の発端となる。私有財産が起こると、不平等が生じる。そして貨幣の発明は、この不平等を限りなく増加させることになる。
 この不平等に不満を持つ者は、結託して内乱を起こすことであろう。そのときは、内乱を鎮めるために、強大な国家権力を必要とするであろう。
 かくして、ホッブズよりもはるかに一般的な意味において、ビヒモスもリヴァイアサンも出現が要請されるわけである。
 このように、ロックは近代的政治学の労働価値説を生んだのである。

物理学も数学も経済学も、ロックの影響を受けている

「ユークリッド幾何学」をモデルとするロックは、ニュートンに始まる近代物理学の先蹤ともなり、またロバチェフスキーに始まる近代数学の先蹤ともなった。
 ロックのモデルがスミスの労働価値説につながり、英国古典派の経済理論を生み出したことはいうまでもない。スミス、リカードのモデルにおいては、国家も社会もすべて捨象され、いきなり資本家と労働者が現れ、労働価値説が学説の出発点となったのである。
 ここが経済学の出発点であり、労働価値説からすべての理論が展開されていく。
 この点に関しては、マルクスもケインズも同様である。マルクスはリカードの労働価値説をすべて呑み込んで、そこから『資本論』の壮大なるシステムをつくりあげた。
 ケインズはセイの法則を否定する。とはいうものの、単に有効需要という面を付け加えただけで、供給のほうは依然として古典派と同じである。
 つまり、巡り巡っては、依然としてロックの伝統(因習)そのままであるといえる。

チャールズ一世(一六〇〇〜一六四九)……イギリスおよびアイルランド国王(在位一六二五〜一六四九)。王権神授説による絶対王政から、議会と対立し、専制政治を行った。一六四二年、王党派と議会派の対立で内乱が勃発し、清教徒革命(ピューリタン革命)が起こる。クロムウェの活躍で議会派の勝利は確実となり、チャールズ一世は投降。一六四九年に処刑される。ちなみに、チャールズ一世は当代きっての絵画コレクターであり、処刑後、コレクションの多くは議会派によって売り払われた。

オリバー・クロムウェル(一五九九〜一六五九)……下院議員を務め、清教徒革命では、議会派の軍人として活躍。「鉄騎隊」「ニュー・モデル軍」を率いて、議会派を勝利に導く。チャールズ一世処刑後は、共和国の指導者となるが、万人の平等を訴える水平派を弾圧するなど、独裁を行うようになる。死後、一六六〇年、チャールズ二世の王政復古が起こると、クロムウェルは大逆罪に処され、遺体を掘り起こされて絞首台にかけられた。

ユークリッド幾何学……古代エジプトの哲学者・数学者エウクレイデス(英語名ユークリッド)の『幾何学原論』に由来する。図形や空間などの性質を研究する数学の一部門。形式論理学のみを用いて、五つの公理からすべての定理を説明した。

ニコライ・ロバチェフスキー(一七九二〜一八五六)……数学者、カザン大学教授。ユークリッドの第五番目の公理を否定して、別の公理を立て、非ユークリッドの幾何学の創始者となった。



経済学をめぐる巨匠たち

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『経済学をめぐる巨匠たち』
小室直樹:著

◎――――エッセイ

プロフェッショナルの時代に若者は何をすべきか?

塩野 誠

Shiono Makoto
企業価値戦略研究会理事、コンサルタント。1975年生まれ。慶応義塾大学法学部卒業後、シティバンク銀行、ゴールドマン・サックス証券、事業会社(起業)、ベイン&カンパニー、ライブドア証券(現かざか証券、取締役副社長兼投資銀行本部長)等において事業戦略立案・実行、市場関連業務、M&A・投資業務、プライベート・エクイティ及びLBO関連業務、合併・買収後の企業統合、資金調達、企業防衛等に国内外において従事。現在は、非営利団体の企業価値戦略研究会における活動と共に、コンサルタントとして国内外の企業に対し、幅広い提言と講演を行っている。

どんな環境であっても
価値を創出できる人がプロ

「プロフェッショナル」という言葉が、ビジネスの世界で喧伝されることが多くなってきました。日本の企業においても経営者が外部から招聘されたり、ファンドによって買収された企業に、そのファンドから経営陣が送り込まれたりすることも、珍しいことではなくなりました。
 そうした中で、どのような経営環境においても価値を創出することのできる「プロフェッショナル」人材が求められる傾向が強まってきているのです。
 例えば、「官製ファンド」とも言われた産業再生機構を見ても、弁護士やコンサルティング会社、投資銀行出身者を集めて、短期的かつ集中的な企業再生業務を行わせていました。
 昨今の人材市場を見ても、いわゆる「プロフェッショナル・ファーム」と呼ばれるコンサルティング会社や投資銀行出身者により、生え抜き以外の経営陣や企業再生チームの人材が供給されている感は否めません。
 一方で、こうした既成の大企業の生え抜きの社員による出世コース以外に経営に関わるコースが出来始めたということは、従来からの企業人事の一部に構造的な変化が生まれ始めていることの表れかもしれません。
 わかりやすい例を挙げれば、長年、営業畑でプレイヤーとして職務に従事していた人間が、ある日、一定の年次に達した時に、「これからは君に経営をやってもらう」と上司から言われても、スキルと意識の両面で、マネジメントを行うに足る準備が出来ていることは稀でした。
 もちろん、我が国を代表するような大手商社やメーカーにおいても、こうしたプロフェッショナル人材の不在を看過しているわけではなく、社内教育制度を改革してみたり、中堅と呼ばれる年次において小規模な関係会社のマネジメントに参画させてみたりと、試行錯誤を行ってはいます。
 大企業による海外でのM&Aも盛んなことからも、こうした大企業の欲している人材とは、PMI(Post Merger Integration)と呼ばれる企業買収後の統合業務を行うことのできる人材ということが挙げられます。

自分が生み出している価値は、
報酬に見合ったものなのか?

 こうしたプロフェッショナル人材に求められるスキルは、経営に関する広範な知識はもとより、取締役会の運営を円滑に行い、労務問題を検討できるような法的な素養、企業数字をモニタリングできる財務・会計の知識といったものが要求されます。こうした能力を持った人材には、人材市場において非常な高値が付けられているのが現状です。
 このように日本の企業経営の現場は、いま変化の最中にあります。それを踏まえて、将来的にマネジメントに関わるであろう若年層(就職活動中の学生から30歳くらいまで)の方は、仕事をしていく中で、受動的に日々の業務に追われるのではなく、来るべき時に備えて、自分がどういう価値を創出できるのか、その価値は報酬に見合ったものなのかを意識することが、プロフェッショナルとしての第一歩になると私は考えています。

自分がバリューチェーンの
どこにいるかを客観的に捉えてみる

 業務の中で「気づき」を繰り返し、思考の「軸」を持って問題解決を行うクセを、社会人として早い段階で身に付けることができるか否かで、その後のキャリアに大きな差がつくことでしょう。
 現在のパラダイムシフトについていけない企業や、そのバリューチェーンの中に優位性を見出せない企業の価値が劣化していくのと同様に、仕事をする我々も、変化を読み、自分がバリューチェーンのどこにいるかを客観的に捉えることなくしては、自らのプロフェッショナルとしての価値を創出することはできません。
 本書においては、プロフェッショナルとしての初歩的なスキルと意識の持ち方、そして個々のプロフェッショナルが狭い領域に留まるのではなく、外部のプロフェッショナルと緩やかなネットワークを形成することによって、よりクリエイティブになり、価値の創出が可能になるというアジェンダを設定しております。
 若きプロフェッショナル志望者や次世代のリーダーたる方々に本書を手に取っていただければ、筆者にとって望外の幸せです。



プロ脳のつくり方

『プロ脳のつくり方
コンサルタントの思考スキルと仕事の「型」をインストールせよ!』
塩野 誠:著
●1575円(税5%)

◎――――連載

新連載 コトバの戦略的思考

第2回「ら抜き言葉」

梶井厚志

Kajii Atsushi
1963年生まれ。京都大学経済研究所教授。専攻はミクロ経済学、ゲーム理論。著書に『戦略的思考の技術』『故事成語でわかる経済学のキーワード』等がある

 文化庁には国語情報施策システムというWEBページがあり、そこには国語審議会や文化審議会の議事録や答申などが過去にさかのぼって記録されている。読んでいるとなかなか面白い。
 国語審議会は一九三四年に、国語に関するさまざまな問題を審議する場として設けられた。発足当時に議論された問題には、横書きの是非がある。戦前だから、横書きといっても右から左へ書く流儀と、現代のように左から右へ書く仕様が混在していて、これらと古来より引き継がれてきた縦書きとをいかに調和させるかということについて、当時は多様な見解があったのである。
 戦後も終戦直後の一九四五年一一月から会合がもたれ、常用漢字表や当用漢字表、現代送り仮名ルールの制定などが議題になった。省庁統廃合の関係で二〇〇一年からは文化審議会の国語分科会となり、現在に至っている。
 最近の審議会では言葉の乱れに関してさまざまな議論がされている。委員の意見が書きつづられている議事録は、これを眺めるだけでも面白いものである。

「ら抜き言葉」とは

 第二〇期国語審議会答申の語彙・語法等の問題という項目にある、「ら抜き言葉」に対する見解にはとても興味をそそられる。
「見ることができる」とか、「食べることができる」というような、その行動が可能であることを簡便に表現するためには、「見られる」あるいは「食べられる」といいなさいと学校では習う。しかし、これをさらに短く「見れる」あるいは「食べれる」のように、「ら」を抜いて表現するのを「ら抜き言葉」という。
 審議会によれば、「ら抜き言葉」は、話し言葉として昭和初期から現れて、戦後に増殖したものだそうだ。特に、北陸から中部にかけての地域及び北海道などでは「ら抜き言葉」が従来から多用されてきたそうである。私の身の回りでも「ら抜き」言葉を頻繁に耳にする。してみると、北陸・中部のら抜き言葉が、京都にも浸透してきているということであろうか。
 審議会によれば、現時点の共通語においては、ら抜き表現は誤りであるそうだ。すなわち、京都の言葉は共通語ではないということだろう。実際、この原稿を書いているマイクロソフトのワードでは、ら抜きが誤りであり再考修正をうながす緑の波線が「見れる」と「食べれる」の下側に現れている(注:私は横書きでこの原稿を書いている)。
 しかし、「ら抜き」が広い範囲で流行するからには、裏に何かの合理的な理由があるはずである。
 これに関して、審議会から興味深い見解が示されているので、少し引用しておく。

「ら抜き言葉」(例:「見れる」)を専ら可能の意味に用い、受身・自発・尊敬(「見られる」)と区別することは合理的であり、五段活用の動詞(例:「読む」)における可能動詞(「読める」)と同様に可能動詞形と認めようとする考え方や、「ら抜き言葉」の増加は可能表現の体系的な変化であり、話し言葉では認めてもよいのではないかという考え方もある。書き言葉においても分野によってはその使用例が報告されている。

 つまり、「ら」抜きを可能の意味に限定して用いるというルールが確立されるならば、意味をはっきりとさせて表現を厳密にする効果が期待できる。したがって、ら抜きの記述をするのはむしろ合理的ではないかというわけだ。
 このようなことを肴にしてつらつら考えてみると、そもそも「られる」という表現のほうがよりあいまいなのだから、意味を厳密にすべき論理的な文章を書くときには、むしろ積極的に避けるべき用法なのではないかという気もしてきた。つまり、話し言葉だけではなく、書き言葉においても「ら抜き」で書くほうが合理的なのではないか。そのような合理性を感じるからこそ、人は抵抗なく「ら抜き」で話すのではなかろうか。
 しかし、ここでいう合理性には少々注釈を付け加える必要がある。なぜなら、そもそも可能であることを誤解されないようにはっきりと表現したいのであれば「見ることができる」と表現すべきだし、尊敬の意味をはっきりさせたいのであれば「ご覧になる」と言うべきものだからだ。それらをともに「られる」で代用しようとすれば、意味があいまいになるのは当然のことだ。言い換えれば、「られる」を使うときには、周辺を多少ぼやかしてあいまいにしておきたいという意図をもって使うというのが戦略的には本筋なのだ。
 このあたりの事情に無頓着になり、時と場合を考えずになんでも安易に「られる」と表現してしまう癖がついたために、あえて「ら抜き」で意味を明確にする必要が生じてしまったのである。あいまいさを排除すべき論理的な文章においても、可能も尊敬も「られる」で表さざるを得ないとすれば、たしかに「ら抜き」は合理的であろうが、そもそもこの前提が合理的かどうかは実に怪しいものだ。

無駄を省く

「ら抜き」現象には次のような説明もできるだろう。「られる」というのは現代言葉で、古文では「らる」であった。つまり、「見られる」ではなく「見らる」であったのだ。ここから「ら」を抜くと「見る」になってしまい、それだと意味が異なるので、「見らる」からは「ら」を抜きようがない。すなわち、「見らる」の「ら」にはそこになければならない必然性があるため、「ら抜き」という発想も当然起こらないのである。
 一方、「見られる」だと「ら」あるいは「れ」を消去しても「見る」と同じにはならないから、速さと調子を重んじる現代語の感覚を持った人たちに、ここからどちらかの一音を消去してリズムを整えたいという感覚が起こっても不思議はない。つまり、「ら」が抜かれてしまうのは、そこになければならない必然性が乏しいからだという説明ができるだろう。経済学風にいえば、ここでは無駄を省く効率化が図られているのである。
 名詞に「る」がついて動詞化するという現象の裏側にも、似たような感覚があるのではなかろうか。たとえば、「愚痴る」とか「皮肉る」という表現を考えてみると、愚痴や皮肉をつかさどる「言う」という動作は、「愚痴」や「皮肉」という名詞の中にある程度含まれているから、あえて「言う」と動作の種類を限定しなくても、「する」という動作の一般形をくっつけておけば用が足りる。すなわち、「愚痴を言う」あるいは「皮肉を言う」の「を言う」の部分で付け加わる意味が「動作をする」という程度であるならば「る」を付けるだけで十分であり、わざわざ三音も費やすのは無駄だという感覚である。
 興味深いのは、いったんこの簡略法が受け入れられると、名詞を見ただけではそこで対象になる動作がはっきりとはしなくても「る」をつける動詞化が行われ、独自の意味を持ち始めることだ。「事故る」はこの種の例であろう。
 私の周辺では「さえずる」という表現が使用されるが、これは「囀る」という動詞ではなく、「さえずり」という名詞に「る」がついて動詞化され、さらに「り」が音便の関係で消去されて創られた隠語である。「さえずり」は私たちが行きつけにしている居酒屋の名前だ。

ら抜き言葉の将来

 明らかに不要なものがあればそれは効率化のプロセスの中で淘汰されていくものだ。一方で、どれ一つをとっても完全に不要というわけではないが、全部揃える必要はないという場合には興味深いことが起こる。
 積み木崩しを思い浮かべてみよう。積み木や麻雀牌などブロック状のものを山型に高く積んでおいて、山頂を崩さずにどれだけ積み木を取り去ることができるかを競う遊びである。積み木を取り去ることができるなら、その積み木は山頂を維持するためには不要であったということだ。しかし、その積み木以外のものを取り去ることもできたはずで、異なる順番で取り去っていったならば、その積み木は最後まで残り必要不可欠なものになった可能性もある。
 山頂を維持するという目的のもとで、経済学でいう効率的な状態とは、どの積み木を取り去っても山が崩れるような状態を指す。要するにゲームが終わる一歩手前の状態だ。そのような状態は無数に考えられるから、一般に効率性という基準だけでは、山がどのような形になるかは決められない。それは、どの積み木がどの順序で取り去られるかに依存するのであり、その順序は半ば偶然によって決まるであろう。
 言葉についても同様なことが言えるのではないか。
「られる」を可能の意味に使う用法にしても、国語審議会創成期のころは、新しい言葉遣いを確立するために何かの必然性があったに違いない。しかし、いったん「られる」という形ができ上がると、そこから効率化が行われるのである。そして速さとリズムを重視する現代語には、可能の意味での「られる」は必ずしもそぐわない言葉遣いになっているのであろう。共通語においても不要となって使われなくなることも十分にありえるだろう。今から一〇〇年もすれば、可能を表す「ら入れ言葉」の是非をめぐって議論になるのかもしれない。
 しかし、「られる」ではなく「らる」から始まっていれば、まったく異なる効率化のプロセスが働いたであろう。そして、まったく異なる言葉遣いが生み出されていても不思議ではない。
 効率化のプロセスが、物事を必然的に、しかも一意に決めていくというのは、多くが陥りやすい誤解である。

◎――――連載

気になるキーワードを徹底研究
ビジネスマンのための健康ラボ 第21回

【骨格アライメント】

竹内有三(医療ジャーナリスト)

 アライメントとは「並び方」とか「配列」の意。車好きの方はホイール(車輪)を連想されるかもしれません。車のホイールにはサスペンションによってさまざまな方向に大小の角度がつけられており、これをホイール・アライメントと呼んでいます。この角度を適正に保つことで安定した走行が保てるわけです。
 実は私たち人間の骨格も同じ目的を持ってアライメントが備わっています。骨格は数多くの骨の連なりから成り、骨の一つ一つは関節と靱帯によって結合されています。骨格アライメントとは、この骨や関節の並び方のことです。 東京大学大学院の渡會公治助教授(スポーツ医学)は「悪い姿勢や歩き方などでこのアライメントが崩れてくると体幹がゆがみ、腰痛や股関節痛、ひざ痛のほか、内臓の働きにも影響して様々な障害があらわれてくる」と言います。
 特に注意したいのはスクワットをやる場合です。多くの筋肉を効率よく鍛えられるスクワットは「トレーニングの王様」とも言われ、もともとはアスリート専用のトレーニング法でしたが、昨今は一般の方にも下半身を鍛える手軽な健康法として人気を集めています。
 ひざを開いて腰を落とす――。一見単純に見えるスクワットにもいくつかのセオリーがあります。それを無視してやっていると、かえってひざや腰を痛めてしまいがちです。中でも大切なセオリーが、アライメントを正しく保って行うこと。腰を落とすときには股関節を起点にひざ関節、足首の関節を同じ方向に向けて曲げるようにしなくてはなりません。この感覚になれるため、渡會先生はご自身が考案した壁体操をすすめています。やり方は、壁の直角のコーナーにお尻が触れるくらいにして立ち、両足を開いて左右の壁につけます。そのまま足、ひざ、お尻が壁から離れないようにしながら、ひざが直角になるくらいまで腰を落とします。特に我流でスクワットを行っている方は、念のためにも一度トライしてみたらいかがでしょう。

●ご意見・ご感想はこちらまで…healthy@diamond.co.jp


イラスト

◎……監訳者が語る

『できない人ほど、データに頼る』

アンディ・ミリガン/ショーン・スミス:著
酒井光雄:監訳、西原徹朗/松田妹子:訳


できない人ほど、データに頼る

定価各1500円(税5%)

酒井光雄

Mitsuo Sakai
ブレインゲイト(株)代表取締役。1953年生まれ。学習院大学法学部法学科卒。企業の生命線であるマーケティングの本質を“ヒトの心をつかむサイエンス”と捉え、生活者の感受性を重視するスタンスで、企業のマーケティング戦略、ブランド戦略、事業戦略等のコンサルティングを行なっている。著書に、『コトラーを読む』(日本経済新聞出版社刊)『価値最大化のマーケティング』『パワー・ブランディング(監訳)』(ともにダイヤモンド社刊)『価格の決定権を持つ経営』(日本経営合理化協会刊)などがある。

顧客に“答えを聞く”時代は終わった

「ビジネスクラスを充実させた、新しく誕生する航空会社の名前を“処女航空”にしようと思います。あなたはどう思いますか?」というアンケート調査を受けたとしたら、あなたは何と答えるでしょうか? おそらく「ふざけた名前だ!」「この企業は何を考えているのだ?」と多くの人は否定的に考えるはずです。しかし現実に、ヴァージンアトランティック航空は誕生して高い評価を得ていますし、企業名を決める際に調査などしていません。
 私は長年、マーケティングのコンサルティング会社の代表として、数多くの企業を支援してきましたが、かねてよりある疑問を感じていました。それは、企業規模が大きくなるほど調査を重視し、調査しなければ仕事が前に進まず、経営の判断や決断が下されないことです。私は調査の重要性と必要性は、十分に理解しています。また、男性は論理的に考えることを好むので、調査データから意思決定を下したい気持ちもわかります。しかし二〇世紀のように、顧客に尋ねれば答えが得られた時と違い、現在は生活者すら自分の欲求を口にできない時代です。そして、調査して市場性があるとわかった時には、すでに他の企業がその市場に進出しているケースがよくあります。
 これだけ調査手法が高度化しているにもかかわらず、調査に基づいて行なう新規事業や新製品の成功率はまったく向上していません。これは日本だけでなく、先進国で共通した問題です。調査データ(調査でわかるのは、過去だけです)に基づいて経営判断が行なわれたからといって、企業の経営がすべてうまくいくわけでもありません。
 また、マーケティングを必要とする消費財や耐久消費財の大部分では、購入や利用の決定権は女性が握っていますが、社内のマーケティング部門に女性社員を増やしたからといってビジネスが必ず成功するとは限りません。社会における女性の重要性と必要性を理解したうえで、この点にも疑問を感じていました。

できる人ほど、調査に頼っていない

 そうした中で、出合ったのが本書です。本書の中では、
○ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、リチャード・ブランソンなど世の中を大きく変えたビジネスを考え出した人たちは、フォーカスグループ調査や統計からではなく、世の中を見て、「何か変えられるな」と感じ、どうすればいいかを考え、行動したこと
○ジョセフ・キャドバリーによるチョコレートバーやマクドナルドの誕生、ヒューレット・パッカードやプロクター&ギャンブルにしても調査や統計から、画期的なアイデアを生み出したわけではないこと
○調査手法がここまで高度化したにもかかわらず、過去二〇年で新商品の失敗率は八〇パーセントと、二〇年前とまったく変わっていないこと
○多くの企業幹部は、なぜ、また何を、どのように調査するかは認識せず、経営判断のリスクを回避するために「調査は行なったのか?」という質問ばかりするようになったこと
○調査をすればするほど、顧客との間に距離が生じ、顧客がどう思うかは重視されず、調査の結果で物ごとが判断されるようになったこと
○リスクを嫌い、確実性と結果を追い求めた結果、リスクを避けるために、企業家は調査に頼らずにはいられなかったこと
 こうした衝撃的な事実が述べられ、読み手を引きつけます。
 そして読み進めるうちに、成功した企業の経営者たちは、調査データではなく、独自の視点でビジネスをいかに考え出したかが紹介されていきます。
 しかも事例としては、日本にも上陸したてのクリスピー・クリーム・ドーナツ、三つ星レストランのゴードン・ラムゼイ(コンラッド東京にあります)、ヴァージンアトランティック航空から、ジェットブルー航空、プログレッシブ保険、テスコ、コブラビール、バンヤンツリーをはじめ、日本ではまだ知られていない成功企業まで盛りだくさんです。

誰も知らなかった驚くべき真実

 顧客起点の経営とマーケティングの重要性は、以前から指摘されていますが、著者はこれを理解するには「見て、感じて、考えて、実行する」ことだと解説しています。
そして、
○訴えられる医師と、そうでない医師の違い
○卓越した能力を発揮するシステムエンジニアや弁護士などに共通する特性
○女性たちが、洗濯物の汚れが落ちたかどうかを確かめるために、その匂いを嗅ぐという、調査では浮上しなかった事実
○あまりに不味いサンドイッチやピザに嫌気がさして、起業に踏みきって巨大企業に成長した例など、読み進めるうちに私の疑問が晴れていくことに気づきました。卓越した観察眼を発揮し、顧客の立場で考えて独自の企画力を発揮し、実現に向けて行動を起こした人と企業には、成功がもたらされることが紹介されていたからです。

本書を読むべきは、溜飲を下げたいヒト

 企業が編み出したビジネスモデルを高度化することが、いま、何よりも求められています。その答えを得るには、実務を通じて観察力を磨き、顧客の視点で世の中を見て疑問を感じ、そこで情報を集めてビジネスプランを創造し、実行することだと思います。これが世の中を変える力を発揮することだと、著者は指摘しています。
 本書は、専門的な知識を持たない人にもわかりやすく、平易な文体で書かれており、飽きることはありません。監訳にも、その点を特に重視しました。
 本書は、データに依存して仕事を進めることに振り回されている人はもちろんですが、データからしか判断できない上司や経営者に悩まされているビジネスパーソンや、そうした社員を持つ経営者の必読書だと思います。読後に、長年の溜飲が下がること請け合いです。

◎……編集者が語る

『一粒の人生論』

正しく上手に生きるヒント


一粒の人生論

船井幸雄:著
定価1260円(税5%)

「幸せの種」が見つかる珠玉の人生論

 船井幸雄先生に初めてお目にかかったのは、今から一三年前の一九九四年のことでした。当時から船井先生は「人生指南の達人」「自己啓発書の神様」と呼ばれ、出す本が次々にベストセラーになっていました。また、他の著者が書かれた本でも、船井先生が推薦文を寄稿すると、売上げが何倍にも跳ね上がると言われていたほどです。
 私は緊張した面持ちで船井総合研究所の会長室にお邪魔したのですが、船井先生はそんな私を包み込むような笑顔で迎えてくださいました。そして、ご自身の波乱万丈の経験から培った人生訓を飾らない言葉で話され、最後は私をエレベーターホールまで見送ってくださったのです。
 私は、船井先生の人柄に感銘を受けるとともに、先生の話を聞いて人生観が一変したように思いました。密度の濃い人生を過ごしてきた方の教えは、たとえ一言でも人を変える力を持っているものです。そうした船井流人生哲学のエッセンスを肌身離さず持ち歩ける大きさの書籍にまとめれば、多くの方々に、いつでもどこでも生きる勇気と希望を持っていただけるのではないか……と感じたことを今でも覚えています。
 この『一粒の人生論』は、当時から温めてきた編集者としてのこうした思いが形になったものです。
 普通の単行本よりも小さめのサイズの本のなかに、船井先生が最も伝えたい三四篇のメッセージを掲載しました。それらのメッセージのなかには、当時から変わらぬ本質的なものもあれば、その後の先生の幅広い活動のなかで進化したものも多く含まれています。
「世の中で起こることはすべて必然、必要」
「相手の生きざまを認めれば、認められる」
「与えるものが受け取るもの」
「過去を肯定すれば未来が開ける」
「生命をかけると潜在能力が花開く」
 などなど、正しく上手に生きるためのヒントが、船井先生ご自身の体験やエピソードをもとにわかりやすく紹介されています。人間関係が良くなる秘訣、プラス発想を身につけるポイント、上手に生きるルールとコツ、自分を高め続ける方法……などが実感をもって伝わってくるのではないでしょうか。
 題名を『一粒の人生論』としたのは、それぞれの短い文章のなかに「人生を豊かなものにする種がある」と考えたからです。本書をお読みいただければ、それぞれの種が皆様の心のなかできっと芽を出すことと思います。バッグや鞄に忍ばせて、いつでも何度でも読み返していただければ幸いです。
(編集担当 小川敦行)

◎――――エッセイ

ファミリー・ビジネスの時代だ

山田 修

Yamada Osamu
(株)トーラス社長。1949年生まれ、東京都出身。学習院大学修士(国文学)、サンダーバード国際経営大学院MBA、法政大学経営学部博士後期課程修了。六社を経営再建して、「再建請負経営者」(日本経済新聞)と評される。「『売れる仕組み』と『儲かる仕組み』の構築」が経営信条。著書に『実践!企業再生52週間プログラム』他多数。

不祥事は「同族会社だから」か?

 いつの時代にも会社経営にまつわる失敗譚あるいは不祥事は尽きない。
 最近の事例でも、パロマ工業、三洋電機、不二家などがあった。問題を起こしたこれらの企業では創業家が経営に関与していたので、「ここでも同族企業の弊害が」などと解説がなされてきた。読者側も「またか、やはり」と、問題のルート・コーズを「同族会社文脈」で理解したつもりになっていた。
 しかし、と筆者は考える。頻発したこれらの経営事案は本当に同族経営だからこそ問題が起こり、そうでなければ起こらなかったのだろうか。
「同族会社」という語感から一般的に想起されている企業ガバナンスの形態に近い経営学の用語としては「ファミリー・ビジネス」という言葉がある。近年この用語概念のもとに、経営学の中でも重要で先端的な分野として欧米各国で研究されてきた。そしてこの用語概念、そして近年の研究による新しい知見が認識されることが、まだ最も少ない先進国が実は日本なのである。
 世界中で始まっている「ファミリー・ビジネスの研究」が明らかにしてきている主要な点は三つある。
1.ファミリー・ビジネスは世界の企業群では圧倒的な多数を占めていること(つまり数の面)。
2.各国における経済活動でも圧倒的な優位にあること(つまり量の面)。
 そして重要なことなのであるが、
3.ファミリー・ビジネスの方が非ファミリー・ビジネスよりも経営指標を見るとずっと凌駕していること(つまり質の面)。
 まず、数のことであるが、殆ど全ての企業はファミリー・ビジネスとして始まる。例外は国有企業などが民営化されるような場合くらいだろう。それでは、ファミリー企業の多くが上場などされ、その過程で経営陣も資本もファミリーの手を離れ、パブリックに移行するかというと、実はそんなことは少数というか、例外と言うべきなのだ。上場され、数パーセントしか株式を保有しなくなった創業社長が依然としてオーナー扱いされている会社などは日本でも枚挙に暇がない。
 世界各国のGNPに対するファミリー・ビジネスの寄与率を考えると、華人系が支配する東アジアやアラブの中近東、そして中南米の各国では絶対的なものがあり、西側先進国でも押しなべて四〇〜六〇パーセント以上のGNPはファミリー・ビジネスによってもたらされている。スウェーデンに至っては、バレンベレー・ファミリーが差配する企業群が上場企業の実に四〇パーセント強を占めている。
 経営指標? 例えば、「創業家のメンバーが経営幹部または大株主として取締役会に加わっている」という定義で東証一部上場企業を見ると、「三年間資本収益率」でファミリー・ビジネスの方が非ファミリー・ビジネスの二倍の効率を示していた。米国S&P500社の中で比べてみても、「一〇年間売上高増加率」や「一〇年間利益増加率」で、非ファミリー・ビジネスのほぼ倍の良好数値を示している。
 これらの近年の研究により、「企業発展段階説」(A・D・チャンドラーが一九六〇〜七〇年代に提言)は完全に否定されたと言えるのである。そのことが知られていないわが国ではまだ「同族企業は一般企業に比べて劣り、未熟で不合理な存在」との認識が強い。現実はそうではなくて、ファミリー・ビジネスはそのままで大企業への階梯を歩み、ファミリー・ビジネスである限りで強みを発揮し続けているのだ。
 また「ファミリー・ビジネスの方が優れている」ということには当然、原因理由が存する。オーナー経営特有の意思決定の早さ、求心力や強い経営文化の醸成、長期的でぶれない取り組みなどである。創業社長の経営意欲は、大企業のサラリーマン社長のそれを遥かに凌いでいる。

絶対大多数を占める
ファミリー・ビジネスに目を向けよ

 私は新著『あなたの会社、誰に継がせますか? 売りますか?』でオーナー会社の承継問題に関連して、そのリアル・プロブレムであるファミリー・ビジネスの上述したような本質を分析、提言した。
 そもそも、日本における実質活動企業一六〇万社の九九・九パーセントは実はファミリー・ビジネスであり、創業一〇〇年超の会社が五万社以上ある「ファミリー・ビジネス王国」でさえある。経営を語るとき、この「絶対大多数の実情」に触れずして、どんな経営論も意味を持たないと、筆者は考える。今まで世上に溢れ返っていた経営論としては、その対象と前提としてA・D・チャンドラーが提起した「発展を遂げてファミリー・ビジネスを脱した大企業」を仮想したものではなかったか。そんな仮想大企業がそもそも幻想だったというと、それを前提とした経営論の実に多くが意義を見失ってしまうのだ。
 ファミリー・ビジネスについては今でも「不合理で未熟なワンマン経営」などと、その欠点のみがあげつらわれることが多い。しかし、実際は「美点の方が欠点を凌駕している」というのが実情だ。経営不祥事と指弾される会社も含めて、圧倒的な割合で存在するファミリー・ビジネスの実情と存在感を正しく認識すべき時が来ている。



あなたの会社、誰に継がせますか?売りますか?

『あなたの会社、誰に継がせますか?売りますか?』
山田 修:著
●1500円(税5%)

◎――――エッセイ

法律は考えるゲームです!

吉田利宏

Yoshida Toshihiro
一九六三年神戸市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、衆議院法制局に入局。一五年にわたり法律案や修正案の作成に携わる。特殊法人等改革基本法案、祝日法や公職選挙法の改正案、情報公開法案の修正案などの作成に参画。現在、早稲田大学エクステンションセンター講師。資格試験や最新行政法に関する図書などの執筆、監修、講演活動を展開中。

「法律=暗記科目」という思いこみ

 法律を学習している人のなかには、「法律は暗記科目である」と思っている人がたくさんいます。法律学習とは、「○○に関する規定は第×条にある」とか、「第△条では〜という表現で規定されている」といったことを暗記するものだと思っているのです。
 もし、「法律は暗記科目である」と思っている人がいたら、その考え方はスッパリと捨ててしまってください。法律は、暗記するものではなく、考えるゲームなのですから。
 たとえば、好きな人ができて、少しずつお互いの距離が縮まっていく。そんなときの楽しさを思い起こしてください。好きな人の好みをあれこれ考えて先回りする楽しさ。あれこれ考えて選んだプレゼントを喜んでもらって、自分までホクホクと嬉しくなる。これって、恋する者の喜びですよね。
 実は、法律を理解するための読み解きも、これに似た楽しさと喜びを与えてくれるものなのです。よく、「恋愛は一種のゲームである」といいますが、法律の読み解きこそ、一種の楽しいゲームかもしれません。

法律学習の本当の楽しさとは?

 法律にはそれぞれに実現しようとする価値があります。
 たとえば、「雇用機会均等法」なら職業の場での男女の平等を図ることで、女性が十分に能力を発揮できる社会を実現しようとしていますし、「民法」なら人と人との基本的なルールを決めることで、自由を大切にしながらも公平で安定した活動ができる社会を支えています。
 そして、法律の読み解きとは、法律が実現しようとする価値から、それぞれの規定の意味を明らかにしていくことです。つまり、ある規定が法律のなかでどんな役割を果たすものなのか、その規定が守られることでどんなメリットがあって、そのことがその法律が実現しようとする価値とどう関係があるのかといったことを明らかにしていくのです。
 法律の規定の意味がわかれば、法律がその価値をどのように実現しようとしているのか、その手段がわかります。逆に、それぞれの規定の意味から「そこまでそのことを大事にしているのか」と法律が実現しようとする価値への理解が深まることもあります。
 法律を読むたびに法律への理解が深まる――。これこそが法律の読み解きの楽しさといえます。そして、この楽しい作業を繰り返していくうちに、リーガルマインドが養われるのです。
 しかし、何の準備もなく法律を読み解こうとするのは少々無理があります。何の準備もなく、難解な法律の条文を読もうとしても、その法律が実現しようとする価値に触れるどころか、そこに書かれていることの意味を理解することさえ大変な苦労を伴うはずです。
 実は、法律を読み解くには必要なものがあります。それは「法律のルールを理解すること」「自分の頭で考える習慣」、そして、「法律の読み解きのセンス(感覚)」の3つです。
 公務員生活のほとんどを衆議院法制局の立案スタッフとして過ごした私は、法律案の条文の作成や法律案の問題点の整理といった仕事を通して、こうした能力を身につけることができました。しかし、誰もが法制局の仕事を経験できるわけではありません。また、法律的な考え方や感覚が身につくほど、長く法律に接することもできないでしょう。
 しかし、大学の講義も専門書も、初心者のことは考えてくれません。法律を読み解くために必要な知識もなく、また、法律に向かう姿勢も教えられていないにもかかわらず、手加減なしの難しい条文や専門用語の壁にぶつかって、法律の学習をあきらめていく人たちがたくさんいました。
 また、なんとか頑張って学習した人も、専門用語や独特の言い回しを知っていることが法律を知っていることであるという錯覚に陥り、それ以上の学習に進めませんでした。

新弟子をいきなり土俵にあげても…

 いわば、いままでの法律学習は、相撲にたとえるなら、新弟子をいきなり土俵にあげるようなやり方だったのです。これではまともに相撲を取れるわけがありません。
 そんな状況のなかで、運よく、いろいろな障害を乗り越えて学習を進めることができた人だけが、法律が実現しようとする価値に触れ、法律学習のおもしろさにたどり着くことができたというありさまだったのです。
 もう、こんな学習方法はやめましょう。法律学習の前に、ちょっとした準備をすれば、誰もがもっと簡単に、法律が実現しようとする価値に触れ、法律学習のおもしろさを手に入れることができるのですから。
 もちろん、法律を読み解くための「理解・習慣・センス」は、ある程度の数の法律や条文を経験しないと、本当には身につけることはできません。同様に、法律的な考え方や感覚を、知識として授けることはできません。
 でも、法律的な考え方や感覚、法律を読み解くための「理解・習慣・センス」をできるだけ速く、簡単に身につけるための方法や考え方をお伝えすることはできます。
 私が法制局の仕事を通して得た経験が、みなさんのお役に立ち、1人でも多くの人が「法律がわかった!」と思ってくれることを願ってやみません。



元法制局キャリアが教える法律を読む技術・学ぶ技術

『元法制局キャリアが教える
法律を読む技術・学ぶ技術』
吉田利宏:著
●1785円(税5%)

◎――――連載

美人のもと 第21回

美人のもと

西村ヤスロウ

Nishimura Yasuro
1962年生まれ。株式会社博報堂 プランナー。趣味は人間観察。著書に『Are You Yellow Monkey?』『しぐさの解読 彼女はなぜフグになるのか』など。

*雨の日の装い

 雨が続くと、どうしても気持ちまで晴れない。やはり晴天は気持ちがいい。天気なんてどうでもいいという人もいるが、気にしたほうがいい。気温はもちろん、天候そのものに着るものも合わせたほうがいい。
 ちょっと暑い日なのに、厚着をしていて、しかも実際に汗をかいている。それなのに上着を脱ごうともしない。それでは見ている人を不快にしてしまう。
 とても寒いのに、無理して薄着をしている人を見るとこちらまで寒い気がしてくる。風邪をひくのではないかとか、内臓に悪いのではないいかとか、しなくていい心配をしてしまう。
 雨の日だということにも関わらず、裾が地面にするようなパンツをはき、結局、裾が汚れてしまっている人もよく見かける。
 雨の日に傘をさしながら自転車に乗っている人がいる。そういう人はやはり晴れ仕様の服装をしている。フラフラしながら自転車に乗り、しかも雨に濡れるとまずい服装なので、さらにフラフラしていく。迷惑だ。
 美人は雨の日に際立つ。さりげなく雨仕様ができている。靴選びがしっかりできていたり、防滴仕様の上着を選んでいたり。また、ただ水対策するのではなく、動きやすかったり、気持が晴れる色を選んだり、見ていて感心する。
 だから美人は雨の日に颯爽と動く。天候をきちんと受け入れて上手に付き合う。自分で気持ちを晴れにしていく。いつまでも空を見上げて、変わるわけもない天気の文句ばかり言うようなことはしない。
 どうしても自転車に乗る必要があるなら、しっかりと雨対策をして、ポンチョなどを使い、安全に乗っている。フラフラなしだ。
 さて、対策。まず朝起きて窓を開ける習慣をつける。その日の気候を素直に判断することから始める。気候と上手に付き合うのだ。そのためにも朝は余裕ある時間に起きることである。駅に駆け込む人に美人が少ないのはそういうことなのだろう。
 もうひとつ。いい傘を買おう。自分好みの傘を持とう。傘をさして気分がよくなるような。大切にしたくなる傘を持てば、当然、装いへの意識が高まる。そして不思議と傘を電車に忘れなくなる。
 美人の傘を見てみるといい。美人のもとが増える傘を持っている。

*爪

 最近きれいな爪の女性が増えた。たとえば一〇年前と比べてみると圧倒的にきれいになったと思う。しかも、ネイルアートは進化して、見ているだけでも楽しくなる。
「最近、爪行ってないの」という言葉をよく聞く。「爪行く」という言葉も定着している。爪のお手入れにお金をかけるのは楽しそうでもある。
 一方、パソコンの普及で、仕事でキーボードを打つ機会はかなり増えている。オフィスでは手入れした爪で起用にキーボードにむかう姿を見かける。独特の音が聞こえる。
 携帯電話でメールを打つのも実に起用にやっている。芸術的だ。
 おかげで爪を食べる人が減った。これはとてもいいことだ。かつては電車なので女性が爪を食べている姿をよく見かけた。できるなら見たくない風景である。
 さて、この爪のお手入れ。もちろんいいことだ。美人の爪はやはり美しい。だが、落とし穴がある。
 爪に夢中になることで他がおろそかになる傾向がある。要は爪しか気にしなくなるようになっていく危険性があるということだ。現に爪ががんばりすぎているように見える人は靴が汚いことが多い。そっちのほうが目立つのに。
 爪のアートがエスカレートしていくと、それだけが暴走していくパターンである。もともと男は女性の爪にあまり興味がない。もちろん清潔感があること、お手入れされていることは大事だが、暴走するとかえって引いてしまう。せっかくがんばったのにそれがアダになってしまうケースがあるのだ。
 さらに爪ばかり気にしているといつも爪を眺めていたりいじったりする。その姿は猫背になっていて、力が抜けすぎた顔になり、美人のもとがなくなっていく瞬間でもある。
 重要なことは全体のバランスだ。爪をいじるのはおもしろいので暴走しやすい。美人の爪はそのバランスが実によくできている。でしゃばらず、清潔感がある。色のバランスも美しい。もちろんTPOが意識してある。すべてはさりげないこと。そのさりげなさが美人のもとを増やすはずだ。

◎……編集者が語る

『中国が北朝鮮を呑みこむ日Death of God』

金辰明(キム・ジンミョン:著
白夏香(ペク・ヒャンハ:訳


中国が北朝鮮を呑みこむ

定価各1680円(税5%)

中国が北朝鮮を併合する日

 なぜ、日本は東アジアでつねに孤立してしまうのか?
 なぜ、韓国は日米の同盟国なのに、嫌米・嫌日ムードが非常に高いのか?
 なぜ、韓国は太陽政策を行い、中国は北朝鮮をこれほど支援するのか?
 昨今のきわめて日本に不利な状況が続く国際情勢は、さまざまな憶測が飛び交い、日本人に、大きな不安を引き起こしている。
*    *    *
 最近の、東アジアをめぐる国際情勢で、日本は、いつも劣勢に立たされている。北朝鮮問題だけでなく、従軍慰安婦問題や、竹島などの領土問題といった、歴史的に意見の分かれる議論では、常に後手後手に回り、たとえそれが根拠に基づかないものだとしても、着々と手を打ってくる中国や韓国に対し、日本はほとんど打つ手がないという状況だ。
 そのうえ、最後は、いつも「孤立」だ。このやり切れない流れは、いったい何なのか? 単に外務省や内閣が無能だからなのか?
 日本の現在の何をやっても孤立、という状況は、本当に日本の責任なのか?
 日本は、常に、悪い悪い、と言われるが、戦後、日本は中国や韓国が主張するほど、無責任だったのだろうか?
 もしかしたら……
 もしかすると……?
 これは、何かの陰謀ではないだろうか?
 最近の日本の、あまりにも最低な国際状況をみると、この不安も、あながち妄想とはいえないかもしれない。
*    *    *
 ご紹介するのは、弊社から5月に発売する新刊小説『中国が北朝鮮を呑みこむ日 Death of God』である。
 この小説は、2006年に韓国で出版され、大ベストセラーになった。
 著者の金辰明(キム・ジンミョン)は、「韓国の村上龍」といわれ、数十万部の大ヒットを連発する非常に有名なベストセラー作家である。
 韓国で本書が発売された当時、ちょうど村上龍氏の『半島を出よ』の韓国語版が出版された。
 ソウルの大型書店では、ベストセラーコーナーに、この『中国が北朝鮮を呑みこむ日 Death of God』と、『半島を出よ』が2冊並んでいる姿が、常によく見かけられたという。
 昨年、金辰明(キム・ジンミョン)は来日。村上龍氏と対談し、「北朝鮮問題」について熱く語り合った。
*    *    *
 本書は、北朝鮮情勢をめぐる中国・韓国・北朝鮮を中心にした、国際ミステリーだ。メインには登場しないものの、最終的なキーファクターとして、日本の存在が提示されてくる。
 ここに、先に述べた、日本人がいま感じる不安が、まさにどんぴしゃりで重なってくるのだ。
 戦慄を感じずに、本書を読み切ることは不可能だろう。
 本書は、単なる国際ミステリーではない。じつは、もっとも作品のテイストが似ているのは、ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』である。
 歴史に造詣の深い天才教授が、現代の定説をくつがえすほどの歴史的遺物の痕跡を追う。そこに、国際的陰謀が重なってきて、教授は窮地に立たされる。
 この『ダ・ヴィンチ・コード』で有名になったストーリーラインは、実はダン・ブラウンより前に、金辰明(キム・ジンミョン)が確立した、彼の十八番の作風であり、今回も決して期待を裏切らない。仰天の展開が次々と襲い、読者は、天才教授とともに、数千年前と現代とを結ぶミステリーに翻弄され、また、ともに大冒険をすることになる。
*    *    *
 本書は、2003年に、弊社が刊行した、同じ金辰明(キム・ジンミョン)原作による企業小説『バイ・コリア』の姉妹編とも言える作品だ。
『バイ・コリア』では、世界最大の電機メーカーになりつつあるサムソン電子をめぐる、アメリカCIAと韓国との経済戦争を描いた著者が、今回は、中国人民解放軍のエリートたちと、北朝鮮をめぐり、知的かつ、命がけの戦いを繰り広げる若き天才教授の活躍を描ききった。
*    *    *
 ここで、推理小説の原則に立ってみる。誰がいちばん得をするか? ということで北朝鮮情勢を考えてみると、日本の孤立、韓国の太陽政策、北朝鮮の金王朝の暴政など、すべてのファクターで最も得をしている国がある。
 そう、中国である。
 本書は、日本人がうすうす感じている中国への不安感を、見事に顕在化することに成功している。
 もちろん、これは小説である。
 しかし、著者の金辰明(キム・ジンミョン)は、事実を基に執筆した、と巻頭で述べている。また、本書に登場する多くの人名・組織は実在している。
 もしかすると、そう遠くない未来、北朝鮮で金王朝が倒れたとき、本書は、そのとき起こる事態を最も的確に予言していた本になるかもしれない。 (編集担当 渡辺考一)

◎――――連載

小説「後継者」第37回

第15章 決戦体制

安土 敏

Azuchi Satoshi
◆前回までのあらすじ
スーパー・フジシロの創業者社長・藤代浩二郎が、提携先の大手スーパー・プログレスを訪問した帰り、車中で謎の言葉を残し急逝した。その後プログレスは裏切り、フジシロは独自路線を貫くことを決める。しかしフジシロに敵対するかのようにプログレスの子会社アドバンスが目の前に宮里店を出店する。開店日が2月の悪天候だったこともあり、アドバンスの客入りは芳しくない。フジシロが流した偽情報にもまんまと嵌まってくれた。だれもが大喜びしているなか、浩介は冷静に言い放つ。「正攻法で勝たなければ」と。そこで、アドバンスの集客状況を詳しく、数字を追って調査する。宮里店との勝負で明らかに勝利したことを確認し、次のフジシロ中央店との戦いに勝利するために始動する。勝利の鍵は「ジャストインタイム」の売り場づくりだと、佐藤詠美はいう。しかし、浩介はその難しさを感じ取っている。場合によっては人件費の多大なムダになってしまう。フジシロは、浩介は、ジャストインタイムの実現に向け動き出す。



 アドバンスの開店から1ヶ月を経た3月半ばになると、宮里地区に於けるフジシロとの優劣は、だれの目にも明らかになってきた。いつ行っても、フジシロの店の客数のほうが多い。フジシロの全レジ10台が開いて2、3人ずつ客が並んでいるピーク時に、アドバンスでは、かろうじて4、5台のレジにひとりずつ客がいるというほどの開きがある。週末や祝日ともなるとその差が開く。
 小売店は客の数が多いと活気づく。
 特にセルフサービス販売の場合は、客が多く、売れる店では、商品の流れが早くなり、売り場にある商品の平均的な鮮度・品質が自然によくなる。
 客数が少ないと売り場に出した商品がなかなか売れず、いわば澱みが生じて、売り場全体の鮮度・品質が悪くなるのである。
 そればかりでない。閉店時に売れ残った商品は廃棄処分にするしかないから、損を少なくするためには、夕方のかなり早い時刻から値下げしても売り切らねばならない。結果として、夕方の売り場に品切れが多くなり、それが夕方の来店客を減らすことにつながり、ますます売れなくなるから、それが品切れをさらに増やす原因になる。こうして、客数の少なさから始まった悪循環の果てに、本来なら夕食のための買物のピークになるはずの時間帯に、売り場がひどく寂れる。アドバンスはまさにそういう状態になりつつあった。
 勝負あったとプログレスの人々が感じた、まさにそのとき、アドバンスが巻き返しのための強烈な対抗策を打ち出してきた。
 3月21日の春分の日を期して、新聞にいつもの特売チラシとは違う、B2判のチラシが折り込まれた。スーパーマーケットが折り込むチラシのなかでは最大級である。
 アドバンスのB2チラシには、醤油、食用油、砂糖、小麦粉、インスタントラーメン、インスタントコーヒー、マヨネーズ、ドレッシング、ハム、ソーセージなど加工食品を中心としてナショナルブランドが勢揃いしていた。どれも日替わり(特売期間5日のうちの1日だけの価格)の超安値で、それが5日間毎日、入れ替わる。「お一人様一個限り」という制限付きは、アドバンスの仕入れ価格も下回っていることを意味している。当然フジシロの仕入れ価格より下だ。
 そのうえ、特売の4日目、5日目には、鶏卵の大玉10個入り1パックを、これも「お一人様一個限り」とは言え、何と48円で売る。フジシロでは、特売の目玉商品でも1パック128円で、それでさえ原価すれすれだからアドバンスの価格はその半値以下である。大出血サービスと言えよう。
 翌22日の午後、フジシロの会議室に営業関係者が集まった。中央店におけるジャストインタイム方式採用についての打ち合わせのための臨時営業会議だったが、会議が始まる前にこの強化チラシのことが話題になった。
「こいつは強烈だ。まいったなあ」販売促進担当取締役で、アドバンスに去った花崎のあとグロサリーの担当にもなった間宮取締役が、泣きそうな声を発した。「こんな無茶をやられては困る」
「親会社のプログレスのバイイングパワーを利用して強引な交渉をやった結果でしょうが、業界秩序もなにもない、これが大手スーパーのやることでしょうかねえ」
 早川営業企画部長が吐き捨てるように言った。
「つい先ほど、報告がありましたが」と店舗担当の安井常務が言った。「今日もアドバンスのほうに客が入っているようです。若干多めという程度のようですが」
「昨日はどうだった?」と浩介が尋ねた。
「特売初日でしたから、アドバンスのほうが混んでました。40対60か、それ以上に差がありました。オープンの初日より客が入っていたと思います。でも、多くの客がアドバンスで目玉商品を買ったあと、フジシロに流れてきていたようです」
「青果も、ものすごい値段ですが、私は、全品、価格を合わせるよう指示を出しておきました」と言ったのは、生鮮担当の狭山取締役である。「粗利が思いやられますけど」
「やはり徹底的に価格を合わせて戦うしかないでしょうねえ」と間宮が言い、会議室のなかは重苦しい雰囲気に包まれた。
「粗利段階で、大きなマイナスになりますねえ」
「待て。そうカッカするな」と浩介が口を挟んだ。「相手が超特価を打ち出してきた商品については、我々は仕入れ原価まで値下げして応戦しよう。でも原価を切ってまで付き合う必要はない。そんなことをやれば、敵のペースに嵌まるだけだ」
「しかし、それでは、相手に勢いがついてしまいませんか」と間宮が言った。
「そんなことはない。心配するな」と浩介は言った。「アドバンスの生鮮作業場はひどく手狭で十分な鮮度管理もできないし、商品補充も間に合わない。いくら頑張っても、いい生鮮食品を提供し続けることには無理がある。超特価に釣られてアドバンスに行った客も、それ以外の商品を求めるためにはフジシロに来てくれる」浩介は、ちょっと沈黙したあと「相手が無茶をしているときには、仮にそれが成功しそうに見えたとしても、焦ってはならない。相手には、かならずミスが出る。無理にはミスがつきものだ」と続けた。皆は黙って聞いていたが、ごく一部の人、例えば重成は、浩介がゴルフの試合をイメージしているのだなと感じた。
「そうです。心配は要りません。出てきた結果を見て慌てるのはアドバンスのほうです」と言い出したのは、佐藤詠美である。彼女はジャストインタイム方式を指導するために、この会議に招かれていた。「どんなに頑張っても、アドバンスのいまのやり方は1〜2ヶ月程度しか続きません。無茶な特売の結果として出てくるひどい粗利益(場合によったらマイナスの粗利益にさえなりかねません)が計算されたとき、彼らは戦略転換を迫られます。早ければ4月中に粗利益が計算されるでしょうから、そのときに、アドバンスの社内は愕然とするでしょう」
 このところ影を潜めていた詠美スマイルが出た。
「有利な仕入れ条件を獲得したに違いないと、皆さんは感じられるかもしれませんが、そういうことはありません。バイイングパワーによる値引き額は、世間一般に信じられているほど大きなものではありません。一部の品目で我が社より若干安いものがあるかもしれませんが、我々が原価まで下げたときに、その値段より圧倒的に安いと客に感じさせることができるというほどの、例えばフジシロの仕入れ価格より1割以上安いというような差はないはずです。今回のチラシに出ている極端な低価格商品は、アドバンスでも、すべて大きく原価切れしていると考えられます。従って、社長のご方針どおり我々が仕入れ原価まで下げるのが一番上手な対応です。アドバンスも原価を切らないようにしたら、その価格は『生鮮食品の弱さをカバーしても客を引きつけるほどの安さ』にはなりません。つまり、アドバンスは超特価の魅力を維持するために大きな原価切れを続けざるを得なくなり、粗利益段階での赤字が溜まっていきます。アドバンスは、ほんの僅かの期間しか、それに耐えられないはずです」
 浩介が大きく頷いた。
「宮里店の戦いでは、我々はすでに勝っている。相手は焦って無理をしているだけだ。細心の注意で見守ることは必要だが、過度に気にすることない。我々は、いま中央店の競合対策を考えよう」
 その言葉が、この論議の終結宣言となった。



「中央店では、生鮮食品の作業をジャストインタイム方式で行うことによって、プログレスに差をつけましょう。ジャストインタイム方式にするための絶対必要な条件は、あらかじめ時間帯別の作業内容と作業量を予測して、そのために必要な人手を準備することです。これは言葉で言うほど簡単ではありません。その手順を簡単に説明しましょう」
 詠美が説明している。
「まず、青果、鮮魚、精肉、総菜の部門別に、すべての作業の流れについて『フジシロのやり方』を定めます。『作業方法と作業の流れの標準化』と言ってもいいでしょう。そして、第2に、鮮魚の例をとれば、『切り身を作る』というような分け方で、作業をいくつかのくくりに分けて、その作業が一定時間(たとえば1時間)に、どれだけの数量(具体的にはパック数)を作り出せるかを測定します。こうして計算された数値は、『正しく作業を行うことによって合理的に作ることが期待される値』であり、言い換えれば『無理しないで製造可能な数量』です」
 詠美は、理解を確認するために皆の顔を眺めたが、メンバーは、皆、怖い目をして食い入るように聞いている。
「3番目に、中央店で、曜日ごとに、開店前、午前中、午後の前半、午後の後半、夜間の各時間帯別に、先ほどのくくりで、それぞれどんな量の作業が行われているか、実際の製造量を測定します。曜日によって、また、時間帯によって売れる商品の違いを大雑把に掴んでおくのです。以上のデータがあれば、あとは具体的な日の売上高を予測すれば、その日、時間帯別に必要とされる人手が計算できることになります」
 一人ひとりの息の音が聞こえるような静けさである。詠美は続けた。
「このように標準作業方法を定め、その生産性を測定して作業管理するやり方は、約1世紀前に、アメリカのフレデリック・テイラーが編み出したもので、後にインダストリアル・エンジニアリング、いわゆるIEというマネジメントの分野に発展しました。今日、産業界でIEを使わない工場はひとつもないと言っていいでしょう。一種の食品加工工場でもあるスーパーマーケットの後方作業場でも、当然、この考え方を使うべきなのですが、スーパーマーケットの場合には、加工必要量が時間単位で変動するために、一般の製造業よりはるかにむずかしいのです。製造業の場合は、せいぜい日単位の変動です」
 会議メンバー全員が、このことについてよく理解できた。特売チラシの魅力如何によって、その日の客数がかなり変動する。競合店のチラシの影響もある。その日にどんな商材が市場に出回るかも客数に影響を与える。さらに大きな問題は天候だ。例えば、午後3時に夕立がくれば、その瞬間に、本来もっとも混み合う店内はガラガラになる。しかも、夕立が短時間で終われば、買物を控えようとしていた客がどっと押し寄せてきて、店内は客でごった返すことになる。スーパーマーケットはその客の要望にも応えなければならない。
 こういう事情があるから、スーパーマーケットでは製造計画など立てようもないので、これまでは朝作り溜めした商品を、1日かけて徐々に売っていくというようなやり方だったのだ。
「時間単位で売上高が変動するスーパーマーケットの作業に、IEの考え方を適用するためにはいくつかの工夫が必要です。まず曜日ごとの売上高指数を正確に算出し、天気予報を細かく読んで、翌日の売上高の動きを予測する。これは当然のことです。しかし、それだけでは日中に起こる突然の変化、例えば天気の急変には対応できませんので、あらかじめ用意した人手と作業とを過不足なく一致させるためにはふたつの工夫が要ります」
 詠美は、白板に、大きく“1.”と書いた。
「ひとつは、売上高の多寡と関係なく発生する作業、例えば作業場の清掃というような作業(これを固定作業と言います。それに対して、売上高に応じて変動する作業を変動作業と呼びます)を緩衝帯として用いることによって、柔軟な対応ができるようになります。具体的に言えば、急な客数減によって用意した人手が余るような場合には、『かならずやらなければならない作業で、売上高に関係ない作業』にその人手を向ける。そうすることによって、ムダな遊び時間を作らないことです」
“1.”の後に『人手が余ったら、固定作業をさせる』と書いた。
「もうひとつは、従業員の側の柔軟性で、中央店で働く社員全員が、複数部門の基礎作業をこなせるようにするのです。そのことによって、夕方の来店客が急に増えた場合、生鮮食品の作業に、例えばグロサリー部門(加工食品や日用雑貨)の社員をつけることができるようになるのです。中央店では、店で働くすべての人に自部門以外、最低1部門の基礎作業をこなせるように教育したらいいでしょう」
 詠美は、“2.”の後に、『全社員に複数部門の基礎作業をマスターさせる』と書いた。深い沈黙が会議室内を支配した。全員、それがいかにむずかしいことであるかを感じたのである。
 ややあって、浩介が「分かった。しかし、それを実際にやるのは大変なことだ」と言った。それが合図になって、一同ががやがやと話し始めた。「できるかなあ」「理屈どおりに行けばなあ」などという言葉が飛び交った。
「先生、そういうやり方をしているスーパーマーケットがどこかにあるのですか」と浩介が尋ねた。
「生鮮食品の取り扱いが日本よりはるかに簡単なアメリカのスーパーマーケットでは、古くから似たようなことをやっていました。それが日本に紹介されたのもずいぶん前のことですから、日本のどこかで、それに近いことをやっている企業もあるかもしれません。しかし、お亡くなりになった浩二郎社長は、ぜひ我が社で先鞭をつけたいと言っておられました。日本のスーパーマーケット技術の最先端であることは間違いないでしょう」
 会議室のなかを、さわやかな風が通り抜けたような感じがした。先代社長の遺志であるということと日本の最先端を行くという意識が、人々の心を動かしたようだ。
「やろう。何としても、やろう。中央店をモデルにしてジャストインタイム方式を開発しよう」と浩介が高揚した調子で言った。「いつか先生から、止まった球を打つからゴルフはむずかしいのだが、スーパーマーケットには同じようなむずかしさがある、という話を聞いた。私は、このごろ、その意味がようやく分かってきたところだったが、いまの話はその極めつけだ。つまり、いいリズムでスイングしたクラブヘッドが、まさにスイートスポットで球をピシッととらえる、そういうことだ。揺るぎのない強い球が打ち出される」
「まあ、そういうことでしょうか」
 詠美が同意しつつ、可笑しげな笑顔になった。それを見て会議室のなかが和んだ。
「プログレスの上町店が開店する時点で、中央店にジャストインタイム方式を実現させるとすると、非常に急がなければなりませんね」と重成が言った。
「そうだ。後3ヶ月ぐらいしかない。それでできるか」と浩介が皆を見回した。
「やらなければなりません」とか、「そうしましょう」との声が出た。
「それでは」と議事進行係の間宮が言い出したが、声は自信がなさそうで、目が詠美に止まり、それから迷うように重成へと移った。間宮は、論理的に込み入った話を苦手としている。重成が、「大丈夫です。まかせてください」というように目配せした。

3

 この後3ヶ月の間に、フジシロ社内で起こったことは、それを詳しく描けば、それ自体がひとつの長い物語になるほどのものだった。大勢の人々が、献身的な努力を重ねて、組織的に奮闘したのである。
 人々は、詠美が説明したことのなかで、もっとも時間のかかるふたつのことから取り組み始めた。
 第1は、中央店に働く全員を対象に他部門の作業を習得させるための教育である。
 第2は、作業の流れの標準化である。
 まったく経験のない部門の基礎的な作業を、一応使いものになるレベルに習得させるためにはどれだけの日数がかかるか、具体的な作業、例えば丸魚を3枚におろすなど、ひとつひとつを列挙して検討してみると、6週間あれば1部門の基礎作業が習得できるということが分かった。この結論に達するまでに半日を要した。
「プログレスの開店までに、1部門を習得させるのが精一杯だなあ」と総務人事担当常務の小笠原が残念がったが、時間的にそれしかできないので、全員、自部門以外の1部門を研修することになった。
「そうは言うけれど、中央店の全員が6週間も店を離れたら、中央店はどうやって運営するんですか」という、きわめてもっともな疑問が出された。
「全店から応援を出します」と言ったのは、店舗担当常務の安井である。「選りすぐった店長、副店長とチーフを選び、プロジェクトチームにして、中央店の運営に当たらせます。この精鋭チームには、その間に中央店の全部を、ゼロから点検させプログレスを迎え撃つ支度をさせるとともに、作業の流れの標準化にも取り組ませます。商品部の助けを借りながら、ある程度の形ができたときに、実習してきたメンバーが戻ってきて参加するでしょう。その人々に、中央店の作業場を使って約1週間かけて新しいやり方を教えます。これが、いわば引き継ぎです」
 作業の流れの標準化そのものもなかなか大変だった。
 もともと包丁をどう使うとか、切り身をどう切るというような純粋に技術的なレベルではフジシロ流のやり方は確立している。その点、フジシロはもともと日本でも先進的なスーパーマーケットなのである。問題は、冷凍庫や冷蔵庫に保管されている原料を取り出して作業台に運んでくるやり方や加工途中の商品をどのように運搬し、最終的な製品(最終的なパックの状態)に仕上げるかなどという「工程の標準化」であった。その上手下手が、作業効率に大きく影響するのだ。さらに、生産性を測定する段階になると、「ひとくくりの作業」』とは、どこからどこまでを指すのかなどを明確に規定する必要があるのだが、それが、思いがけずむずかしいのだった。ジャストインタイムとは、すなわち、作業場には作り溜めした製品在庫をおかないということだから、肉でも魚でも、やり始めた作業を最後まで全部やっているわけにはいかない。途中で作業を中止するのだが、それを作業員たちに納得させることは一仕事だった。
 大学の仕事の合間を縫って、詠美は、ほとんど毎日のように現場にやってきて、毎晩、遅くまでプロジェクトの進行状態を見ていた。その姿勢には、何か執念のようなものが感じられた。浩介も、詠美の執念がのりうつったかのように、ジャストインタイムに強い関心を示し、会社の帰りには、かならず中央店に立ち寄り、遅くまで作業場内を見回った。休日にも中央店にやってくる浩介が、シーズンだというのに、ほとんどゴルフ場に行っていないことに、ある日、重成は気づいた。
「大変だ。芝虫ではなくなった。身体でも壊さなければいいが」と彼はいつもの彼らしい冗談を言い、それを聞いて笑った人々は、浩介がいよいよ本気になったと感じた。こうして、プログレス上町店が開店した6月初旬には、ジャストインタイムの仕組みが、ほぼ出来上がったのである。

◎――――連載

連載エッセイ ハードヘッド&ソフトハート 第65回

基礎科学の軽視が国を滅ぼす

佐和隆光

Sawa Takamitsu
1942年生まれ。立命館大学政策科学研究科教授および京都大学経済研究所特任教授。専攻は計量経済学、環境経済学。著書に『市場主義の終焉』等。

科学オリンピックで不振をかこつ日本

 去る四月一一日、NHK総合テレビの番組「クローズアップ現代」で、中高生の「国際科学オリンピック」が取り上げられていた。これは、数学、物理、化学、生物学、情報学といった理数系の科目別に、参加各国の選手たちの平均点で順位を付けるコンテストである。
 二〇〇六年に行われた国際科学オリンピックの戦績を見ると、すべての科目で中国は第一位に輝いている。韓国もまた、すべての科目で三位以内に入っている。日本は最高で七位(数学と化学)と、中韓両国に比べるとだんぜん劣っている。中国、韓国、ベトナムなどは、理数系の英才の育成を「国策」と考えており、国際科学オリンピックに出場する英才には、経済的支援を含めて、さまざまな特権を与えることが制度化されている。
 かつては日本でも「所得倍増計画」(一九六〇年)において、科学技術の振興が謳われ、国立大学の工学部の学生定員数を急増させたことがある。一例を挙げれば、世間では「(実学ならざる)虚学の殿堂」のように思われている京都大学では、工学部の肥大化がとりわけ顕著であり、現在、学生定員の三四%を工学部が占めている。要するに、京大の新入生の三人に一人が工学部生なのである。
 所得倍増計画に先立つ一九五六年度「経済白書」には、戦後復興というバネ仕掛けで発展してきた日本経済に、技術革新(イノベーション)と近代化(トランスフォーメーション)という二つのバネ仕掛けを新たにしつらえなければならない、と書かれていた。要するに、技術革新の必要性に応えて、工学部の学生定員を増やし、研究費をも増やしたのだが、理数系の英才を選りすぐって育てるという方策は採られなかった。
 一九五八年七月に始まる高度成長期、日本経済の破竹の急成長を支えたのは、大学工学部のみならず、工業高校を卒業したエンジニアたちだった。画期的な発明というよりも、改良型の技術、小型化の技術、省電力化技術などにおいて、日本のエンジニアは長けていた。ともあれ、日本がこれほどまで豊かな国になったのは、六〇年代から七〇年代にかけてのエンジニアたちの奮闘のおかげである。その経緯を描いたのが、NHKの人気番組「プロジェクトX」だった。
 実際、私が大学を受験した一九六一年前後には、工学部特に電子工学科や建築工学科などが大学入試の最難関だった。優秀な人材がエンジニアになったからこそ、日本は世界屈指の豊かな国になれたのである。いまの中国や韓国も同じような状況にある。
 ソニーの創業者である井深大氏は、「さほど遠くない将来、会社の社長はもとより、省庁の幹部、国会議員の大部分もまた、理工系学部の卒業生によって占められるようになるであろう」と言っていた。日本の場合、現実はそのようにはならなかったが、旧ソ連、中国の政治家には、理工系学部の卒業生が圧倒的に多い。旧ソ連では、ゴルバチョフ以外の共産党書記長は、すべてエンジニア上がりだった。中国の江沢民前国家主席、胡錦濤国家主席、温家宝首相らもエンジニア上がりである。おそらく、社会主義国では、国家発展のために工業生産を重視しており、ためにエンジニアの社会的地位が高かったのであろう。

二年間しか続かなかった日本の英才教育

 中韓両国がやり、戦後の日本がやらなかったことのひとつに、理数系の英才教育がある。
 だがじつは日本でも、第二次世界大戦末期から戦後の二年間、理数系の英才教育を、そして優秀な科学者や技術者を養成することを目指して、「特別科学学級」というものが設けられことがあるのだ。特別科学学級の創設法案は、一九四四年九月九日、衆議院議員の永井柳太郎が「戦時穎才教育機関設置ニ関スル建議案」として第八五回帝国議会に提出し、同年九月一一日に即刻可決された。
 これを受け、同年一二月二六日には、東京高等師範学校、広島高等師範学校、金沢高等師範学校、東京女子高等師範学校の四校に特別科学研究班を設置するとの文部次官通牒が出された。そして、右記各校の附属小中学校に特別科学学級が開設されたのである。一クラスの定員は三〇名以下で、全国の国民学校の四〜六年生と旧制中学校の一〜三年生のなかから理数系の科目に格別に秀でた生徒を選抜し、四五年一月から授業が開始された。さらに同年四月には、湯川秀樹教授らの要請を受けて、京大にも特別科学研究班が設置され、京都府立第一中学と京都師範学校附属国民学校に特別科学学級が開設された。
 数学、物理学、化学などの理数系科目に加えて、英語・国語・漢文・歴史に至るまで、授業内容の幅はきわめて広く、かつレベルはきわめて高かった。授業を担当したのは、特別科学研究班が据えられた各師範学校や大学の教官であった。私の知る京都大学名誉教授は、湯川秀樹博士に直接物理学を教わったそうである。こうして、文字どおりの英才教育の場がしつらえられたのである。
 しかし、戦後になって、特別科学学級は「差別的で民主主義に反する」との批判を受け、一九四六年一一月に廃止されることが決まり、四七年三月をもって、わずか二年余の幕を閉じた。
 特別科学学級に在籍した者の多くは東京大学や京都大学に進んだという。私の知る限り、京都大学名誉教授の川那部浩哉(生態学)、同西川(示+葦)一(電気工学)、同菊池晴彦(脳外科学)、元衆議院議員の鈴木淑夫、政治学者の河合秀和、映画監督の故伊丹十三、日本画家の上村淳之、小説家の筒井康隆らが特別科学学級の生徒だった。文科系に進んだ者も意外と多かったようだ

研究職を敬遠する英才たち

 こうした経緯も相俟って、戦後の日本では、科学技術振興のために英才教育をという発想は生まれなかった。半面、大学進学率の上昇に伴い受験戦争が激化した。
 その大学の入試問題は、思考力を試すというよりも、記憶力を試す傾きが余りにも勝ちすぎている。たとえば、数学の試験にしても、問題を見た瞬間に「解き方を知っている」者の勝ちといった具合である。限られた時間内にすべての問題を解こうとすれば、試験場で考えている暇はない。中高一貫の私立の進学校では、高校二年までにすべての受験科目の学習を終えるから、高校三年の一年間は予備校に通うようなものであり、数学や理科の問題を覚えるための周到な教育を一年間かけてみっちり授かる。そのため、私立の進学校生は大学入試において圧倒的に有利なポジションにある。
 だが、記憶力本位の受験勉強にいくら秀でていても、科学オリンピックの勝者になれないことは、もとより言うまでもあるまい。受験勉強で覚えたことはすぐに忘れるし、数学の問題の解法をいくら覚えても、論理的な思考力の鍛錬にはならないからだ。
 受験勉強を巡るもうひとつの問題は、いわゆる偏差値なるもののもたらす弊害である。偏差値と論理的思考力とは、ほとんど無相関に等しいことも事実だが、それ以上に深刻なのは、偏差値の高い大学の学部に何人入学させるかが、高校の評価の決め手とされることだ。結果、高校は有名国立大学法人の医学部合格者数を競うようになってしまう。
 しかし英才を求めているのは数学、物理、化学、生物学、基礎医学などの分野であって、数多の英才たちが臨床医になるのは、どう考えても、もったいない話である。とはいえ、臨床医が物理学者や数学者よりも生涯所得が高いことは紛れもない事実である。また臨床医は、能力不足で落ちこぼれるリスクも低い。
 先のNHK番組によると、国際科学オリンピックの選手に選ばれた英才たちのうち、研究職に就いた者の比率はわずか三〇%、金融関係と医者がそれぞれ二〇%とのことである。
 医者はともかく、なぜ金融業に就職する者が多いのか。その理由は二つある、ひとつは、金融関連会社の給与が製造業に比べて高いこと。もうひとつは、金融業界が大学で数学や数理工学を専攻した者を大量採用するようになったことである。証券会社、銀行、保険会社が、新金融商品を開発するには、金融工学の専門的知識の持ち主を抱えておく必要がある。金融工学のABCを学ぶには、経済学部の卒業生の手には負えないほどの高等数学の知識が求められるのである。

高い給与と低いリスクを

 英才たちを、科学や技術の世界に引きつけようとするならば、学者(大学教授)の給与を引き上げること、そして企業が研究職の給与を引き上げることが不可欠である。
 また、一定のポスト数を用意することも必要である。日本の学術行政の現状を見ると、大学院の博士課程の教育を重視するという方針を一方において打ち出しながら、他方において、大学教員のポストの数を減らすという矛盾した政策を同時に進行させつつある。大学院の博士後期課程に進学し、数学、物理学、化学、生物学などの基礎科学の研究者を目指しても、研究職にありつけない可能性(リスク)が高いため、また研究職の給与はけっして高くないため、大学進学時に医学部を選んだり、理学部の博士前期課程を終えて証券会社や銀行に就職したりする者が増加傾向にあるのだ。
 のみならず、わが国の学術行政が、大学での基礎研究を軽視し、すぐに実用化されそうな研究開発を重視する傾向がとみに強まりつつあることも、基礎科学の研究者への志願者をディスカレッジしている。すぐさま実用化されるような研究は、民間企業の研究所に任せておけばよい。国が振興の対象とするのは、基礎研究に限るほうが望ましい、と私は考える。
 また、基礎研究にはそれほどお金がかからないから、余ったお金で大学の教員数を増やすべきである。任期制のPD(博士号取得後)研究員の数を増やすのもいいが、専任の教員として、落ち着いて研究に励めるポストを増やすべきだと考える。
 純粋数学、理論物理学、歴史学、哲学など、すぐには役に立たない虚学の研究者を育てることが、この国の経済と文化を成熟化させるために、必要にして不可欠である。にもかかわらず、三年前に国立大学が法人化されて以来、どれだけ外部資金を取ってくるかが学者の評価の決め手とされるようになり、右に列挙したような無用の虚学が、大学キャンパスの片隅に追いやられつつある。
 基礎科学の軽視は、結局のところ、応用研究の不振を招き、日本の産業の国際競争力をも衰えさせ、この国の品格をも劣化させること請け合いである。

◎――――連載

瞬間の贅沢24

武田双雲

Takeda Souun
1975年熊本県生まれ。書道家。http://www.souun.net/
5年間に書きためた書と詩が一冊になりました。『たのしか』好評発売中(詩には英・中国語訳つき)

出すもんではなく

元々備わっているもの

元の状態に戻すこと

元気。


双雲

◎――――編集後記

編集室より………

 40代も中盤を迎え、体型の「劣化」が無視できなくなりました。ここ数年のウエストの成長ぶりには目を見張るものがあり、履けなくなったズボンがどんどん増えていく始末。少しでも運動しなくてはと思い、自転車で東京競馬場に行ってきました。自宅からは1時間強の道程。それなりにアップダウンもあるので楽ではありませんでしたが、競馬場はもちろんのこと沿道にも緑が多く、薫風の中を自転車で駆け抜けるのは爽快でした。
 ところで、競馬で5月といえばダービーをはじめ、GIと呼ばれる最高レベルのレースが毎週のようにあり…と昨年までなら迷うことなく書けたのですが、今年からは、必ずしもそうは言えなくなりました。レースの格の表示をグローバルスタンダードに則って行わなければならなくなり、GIと表示できるレースは、国際基準のGIの条件を満たしているレースに限られることになったからです。しかし、スポーツ新聞をはじめ国内のメディアには、従来どおりGIと表記されるようなので、国際的な公式表示と国内向け表示の2種類があることになります。いまのご時勢に、この紛らわしい表示はどうかとは思いますが、おそらく一時的な措置なのでしょう。
 この件が今後どう処理されるのかはわかりませんが、自分の周囲を見渡してみると、「その場しのぎ」のはずだったのに、そのまま残っているものが多々あるような気がします。真っ先に思い浮かんだのが、「履けなくなった」ズボンをとりあえず架けてある「使えなくなった」ヒーター。ヒーターは処分するとして、ズボンは捨てるべきか、また履けるように頑張って痩せるべきか? 迷っていると、また放置してしまう危険性大です。
 4月から営業局宣伝部に異動し、本誌の編集人を務めさせていただくことになりました。今後ともよろしくお願いいたします。(比留間)

お知らせ………

▼読者の方から「乱丁・落丁」について、お叱りのご連絡をいただくことがあります。「乱丁」とはページの順序が入れ違ってしまうこと、「落丁」とはページの一部が脱落してしまうことです。いずれも製本の過程、主に手作業の工程で生じやすい事故とは言え、それを流通させてしまうことは出版社のミスであると反省させられます。読者の皆さんにご迷惑をおかけし、さらには「買った本はすぐに読みたい」という当然の欲求にも水を差すことになってしまいます。小社では、このようなケースに対しては、可能な限り迅速な対応を心がけており、該当商品に在庫がある場合にはご連絡をいただいてから通常2日以内(土・日を除く)に交換品を発送しております。お買い上げいただいた書籍・雑誌に「乱丁・落丁」等の不具合がございましたら、電話 03‐5778‐7240まで、お手数ですがご一報ください。(河口)

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