CONTENTS

エッセイ

タッド・バッジ トップのコミュニケーション術
ルディ和子 ブランドに新しい命を与えるアイデアの宝庫
仁木一彦(監査法人トーマツ) 内部統制で何がどう変わるのか?
村瀬明道尼(月心寺) ありのままで生きなはれ
次原悦子(株式会社サニーサイドアップ) プロフェッショナルたちの財産
淡輪敬三 (ワトソン ワイアット株式会社) 優秀な大学生を二分する、パターン認識の罠
吉川英一 たった3年でハッピーリタイヤができる!
若田部昌澄 著者が語る……『改革の経済学』

連 載

川勝平太 比較経済史の方法について(2)
松井宏夫 ビジネスマンのための健康ラボ(3)【睡眠の質】
安土 敏 小説 「後継者」
佐和隆光 真の教養を阻害するこの国の教育システム
飯田泰之 佐藤雅美×飯田泰之 特別対談【後編】
池内ひろ美 会社を言い訳にするのはカッコ悪い
西村ヤスロウ 美人のもと(3)
田中秀征 時務を識る高杉晋作
武田双雲 瞬間の贅沢
編集後記

◎――――エッセイ

トップのコミュニケーション術

タッド・バッジ

L. Tadd. Budge.
東京スター銀行代表執行役頭取。1959年、米国生まれ。大学卒業後、ベイン・アンド・カンパニー日本法人入社。その後、シティバンク、GEを経て、2002年に東京スター銀行へ。2003年より現職。

 トップがすべきことで一番大事なこと、それは「コミュニケーション」だと思います。
 私は日本語が話せる外国人頭取なので、言葉によるコミュニケーションという点においては、他の日本で働く外国人よりも有利かもしれません。また、よく言われるのは「カリスマ性」があるか。ただ、本当の意味でトップに求められるコミュニケーション能力は、カリスマ性や言葉の遣い方のうまさよりも、「信頼関係を築くこと」ではないかと感じています。
 たしかに信頼関係を築くには、非常に時間がかかりますが、一度信頼関係ができるとコミュニケーションは速い。例えば難しい契約でも「すぐにやりましょう」と決まり、「後に細かい問題点が出たら、その場その場で解決していきましょう」という同意が得られたりします。ところが信頼関係がないと、一つの契約を結ぶのにも、弁護士を入れながら数ヵ月に及ぶことさえあります。
 スピード・オブ・ライト(speed of light)、光速という言葉がありますが、まさにスピード・オブ・トラスト(speed of trust)、信頼関係があれば、仕事もおのずとスピードが出てきます。
 また、信頼関係を築くためのコミュニケーションとして、私は「聞くこと」を重要視しています。
 いわゆるMBWA、マネジメント・バイ・ウォーキング・アラウンドで、各階を回って社員に「元気ですか?」「今何をしていますか」などと話しかけたり、時間が空くと突然支店に顔を出して、支店の人たちやお客様にも声をかけます。こういった「現場コミュニケーション」も非常に大事だと感じています。あと、社内のいろいろな部門の人たちを呼んで、サンドイッチを食べながら雑談をする「サブウェイランチ」も定期的に行っています。これらの場ではできるだけ多くの人の声を聞くことを心がけています。
 一方、ちょっとした情報を共有したり、私の人となりを知ってもらうために、その日お客様から伺ったお話や、自分の家族の出来事などを社内ブログで発信しています。
 従業員の満足度調査を行うと、「コミュニケーション不足」の問題が必ずトップに挙がるそうです。どれほど実行しても、一生懸命アクションプランを作ったとしても、また調査をすると、やはり「コミュニケーションが足りない」という問題が持ち上がるそうです。だから、トップがやりすぎだと思ってもまだ足りないのかもしれません。
 とはいえ「有言実行」という日本のことわざがありますが、実行を忘れると、信頼そのものが失われてしまいます。信頼がコミュニケーションの基盤なので、これでは本末転倒。「walk the talk(言行一致)」と肝に銘じています。

◎――――エッセイ

ブランドに新しい命を
与えるアイデアの宝庫

ルディ和子

Rudy Kazuko
マーケティング・コンサルティングや講演活動を主業務とするウィトン・アクトン社代表。日本ダイレクト・マーケティング学会理事。社団法人日本ダイレクト・メール協会常務理事。早稲田大学大学院商学研究科非常勤講師。

 個性的なブランドを創造することは、多くの企業にとっての究極的目標です。他商品から明確に差別化された強力なブランドを構築するのに成功すれば、他のマーケティング活動は特別なことをしなくてもそれに伴ってついてくる…と言っても過言ではありません。しかし、いまや、製品の特徴や機能、それが消費者にどういった便益を提供することができるかという観点で差別化することでは個性的ブランドをつくることはできないのです。これは、新製品の失敗率や製品ライフサイクルの短期化からみても明らかな事実です。
 消費者の些細な欲求さえも満たしてくれる多種多様な商品が氾濫する市場において、伝統的観点からの差別化はもはや効力を発揮しません。「五感刺激のブランド戦略」が提案するのは、これまでとはまったく異なるパラダイムに基づいたブランディングです。

●自動車メーカーは自動車のドアを閉めるときに高級車らしい荘重な音がするように、音響エンジニアや心理学者の助けを得て適格な音を開発します(聴覚に訴える)。
●コカコーラの曲線を描くクラシックな瓶は視覚だけでなく皮膚感覚にも訴えます。洋服においても、最近の調査では、消費者は外見(視覚)よりも手触りや肌触りといった感触に重きを置く傾向があることが明らかになっています(皮膚感覚に訴える)。
●シャツやブラウスを製造販売している小売店舗では、洗い立ての新鮮な木綿の匂いを店内に流し購買を促します(嗅覚に訴える)。

 このような興味深い実例が本書では次から次へと明らかにされます。しかも、こういった方法が効果を発揮していることが、世界規模での消費者調査によって証明されます。筆者のマーチン・リンストローム氏は著名なブランド調査会社と提携して、世界13か国において数千人の消費者を対象にしたフォーカスグループ調査や、日米英3大市場における定量調査を実施しました。その結果、訴求する感覚の数が多くなればなるほど、そのブランドはより強力なものとなり、より高いリピート購買を獲得することが証明されました。多くの感覚刺激を所有するブランドはどの国においても明瞭に差別化されたブランド・アイデンティティを所有し、そして、より高い価格をつけることに成功していることを明らかにしたのです。
 消費者行動が論理的思考よりも感情の影響を受ける傾向が高いことが最近の脳科学の発展で明らかになってきており、結果、消費者の感情をとらえることができるブランディングに注目が集まっています。感情は五感への刺激から生まれます。ブランドがもたらす感覚刺激はブランドのイメージやポジショニングに最適な感情を引き起こすようなタイプのものでなくてはいけません。
 本書においては、ソニー、コーク、ジレット、ボーダフォン、ディズニー、マクドナルドなどのグローバルブランドがどの感覚にどの程度アピールしているかが分析され、その結果として、どういった種類の感情が引き起こされているかまで調査分析されています。そして、各ブランドの感覚特徴をチェックして、どこが強いか、どこが弱いか、それをどう強化していくことがブランドの差別化に繋がるかが、ひと目でわかるように表現されています。ソニーとかパナソニックといった日本の家電ブランドが視覚と聴覚という伝統的な感覚への依存度が高く、その結果、他の新しい高級ブランドと比較して個性がなくなってきていることも明らかになります。
 では、適切な感情を引き起こす、なるべく多くの感覚刺激を提供できるブランドを構築するにはどうすればよいか? その方法についても、本書では、6段階のプロセスを通して紹介されます。自社の既存ブランドの現在の状況を分析したうえで、どの感覚とどの感覚を組み合わせるべきか、どの感覚をもっと強化すべきかを、著名ブランドの実例を挙げながら具体的に説明します。即、実行可能なブランディング手法が紹介されているのです。
 また、本書には、ブランディングの究極は宗教であるという主張の下に、ブランドと宗教とを比較対照している非常に興味深い章が登場します。五感への刺激を最大限利用する世界宗教からブランドは学ぶことが多々あります。顧客を信者に変え、顧客と感情的な絆で結ばれるブランドになるための10の条件を読むことは、多くの読者に貴重なひらめきを提供してくれることでしょう。
 筆者のマーチン・リンストローム氏は、大手広告代理店のCEOを経た後、ブランディングの世界的権威者として、ディズニー、ペプシ、アメリカンエキスプレス、メルセデズベンツ、マイクロソフト、ケロッグなどの一流企業に(ブランディングの古いルールを拒否した革新的なビジョンに基づく)アドバイスを提供しています。「五感刺激のブランド戦略」は、既存のブランド創造法はもはや役に立たないと悩む経営者やマーケターにとって、問題解決の救済書となってくれるはずです。


書籍

ルディ和子 著
●定価2520円(税込み)●4-478-50260-9 ●2344ページ

◎――――連載

歴史が教えるマネーの理論 第17回

●佐藤雅美×飯田泰之 特別対談…【後編】

江戸時代に見る、
景気と貨幣のメカニズム

飯田泰之

Iida Yasuyuki
一九七五年東京生まれ。駒澤大学経済学部専任講師。著書に『経済学思考の技術――論理・経済理論・データで考える』(ダイヤモンド社)、『昭和恐慌の研究』(共著・東洋経済新報社)などがある。

佐藤雅美

Masayoshi Satou
一九四一年兵庫県生まれ。早稲田大学法学部卒。一九八五年『大君の通貨』で第四回新田次郎賞を受賞。九四年『恵比寿屋喜兵衛手控え』で第一一〇回直木賞を受賞。

撮影/石郷友仁

●佐藤雅美×飯田泰之 特別対談…【前編】
江戸時代に学ぶ、
経済政策のあり方

本連載では、さまざまな国や時代の歴史を振り返ることで、経済理論を紐解くという試みを行ってきた。前号に引き続き、『大君の通貨』『開国』などの著者・小説家の佐藤雅美氏との対談を掲載。経済歴史小説家と経済学者から見た、江戸時代の経済政策、そして現在の日本経済や官僚たちの姿とは……。

日本は世界有数の金銀産出国だった

佐藤 江戸から少し時代をさかのぼりますが、戦国時代、日本は世界有数の産金銀国でした。金や銀を貿易の対価として膨大な、そしていろいろなものを輸入しました。それが景気を活性化させたに違いありません。でなければ、あれほど華々しい国内戦争を遂行することはできなかったはずです。景気が活性化して、時代は江戸になり、三代将軍徳川家光の時代まで金銀の浪費は続きます。やがて四代将軍家綱の時代に移り、気づいたら幕庫は空っぽだった……。

飯田 不思議ですね。元々日本は金銀が出る国で、それを使って何かを獲得するという考えが、戦国時代にはあったと思います。ところが、なぜかそれが江戸時代になってなくなってしまいます。それこそ新井白石ではありませんが、金銀とはそれ自体はそもそも使い道がないものですよね。食べることもできないし、当時の技術では、せいぜい装飾品にするくらい。それがすごく重要なもの、しかも「国内で保持しなければならない重要なものである」という考え方というのは、どこから生まれたのでしょうか。

佐藤 「国内で保持」というよりも、保持すらできなくなっていたというのが、当時の現状ではないでしょうか。家光の末期の頃までは膨大な量の金銀が海外へ流出していた。そこで、家綱の時代の途中から金銀の流出をいろいろな策を講じて食い止めるのですが、ちょうど同じ頃から通貨を供給するための金銀もなくなってしまいました。ところが元禄の時代に、運良く貿易の対価として大量の銅が採れ始めます。とはいえ銅も急速に産出量が衰え、次は海産物を対価として貿易を行うようになります。


飯田

政府間貿易が赤字の裏には……

佐藤 貿易といえば、面白い話があります。当時、対オランダ貿易というのはほとんど動いていなくて、対中貿易のほうが盛んでした。対中貿易で、重要な輸入品は薬品です。海産物をクスリと交換することによって日本人は健康を維持しており、対中貿易は膨大な量に達していました。
 対オランダ貿易というと、日本もオランダも赤字でした。双方ともに赤字。なのになぜ貿易が続いていたのだろうか、不思議ですよね。おそらく何か「目に見えない利益」があったんだろうと憶測する人もおります。

飯田 長崎での貿易の記録は、かなり詳細なものが残っていて、大学に写本があり私も原文を見ました。先生の小説を前にして原文を見るというのは興味深いものがありました。書き下し文があるのですが、それを読んでみても、いったい何のことやら意味が分かりませんでした。

佐藤 たしかに、何のことやら……ですよね。私はかつてじっくり何ヵ月もかけて長崎貿易について分析したことがありまして、ハハーンとやっと気がつきました。先ほど言ったように、政府間貿易は赤字。でも、商館員個人個人は個人の商品を持ってきて、商いをやっている。で、本人たちは大儲けしている。だから出島という、外国人からすれば屈辱的な島に閉じ込められての貿易が長く続いたんです。カラクリはこうです。長崎の連中は、決算書を作って江戸に送るのですが、これをとても読みにくく書く。江戸の役人はサラリーマンです。面倒なので読んだふりをして読まない。とてもじゃあないけれど読む気がしない。

飯田 何度読んでも意味不明な、政治家が読む気を起こさせない文章、ただし嘘は書いていないというのは今に通じるものがありますね。昔の人は決してバカではなかったということでしょう。同様に、江戸時代の人たちは、いろいろな経済政策を行った際にも、本人たちは分かってやっていたんだろうなと思いますが。

佐藤 それはちょっと違うと思いますね。学問をすればするほど、「現実」に目を向けようとしない。高級官僚は、目を向けようとしない。でも現場の人は目を向けざるを得ない。現場の人たちが場当たり的、継ぎ接ぎでやっているものですから財政の仕組みなどはものすごく遅れていました。

対処療法的な政策は、今も昔も同じ

飯田 現在でも、財政制度は異様なほど複雑なのですが、なぜこのように複雑になってしまったのかというと、よく分からない。たいていの国には財政原則があって、それに従って財政がデザインされているのですが、日本の場合は、なし崩し的に決まっていくという……。

佐藤 一本筋の通ったもの、原理原則というものがまったくない。問題が出てくるたびに対処療法するというやり方が、長くから続いていたからだと思います。
 司法がまさにそうですね。江戸時代の司法はものすごく発達していたのですが、本来なら発達した際にもっときちんと体系化されたものが出来上がっていてもいいのに、結局前例の継ぎ足し継ぎ足しできてしまっている。そうかといって、必ずしも不合理にはできあがっていない。自分たちの身の丈には合っている。

景気が良いとはけしからん?

飯田 新井白石の時代からインテリ層を中心に根づいた「貴穀賎金」は、倹約する政治家は真面目で、そうではない政治家はけしからんという考えにつながっているように思います。昭和恐慌の時代、浜口雄幸内閣(1929〜31年)は、きちんと倹約をして金の流出を食い止めなければならないと強く打ち出していて、政治家やインテリ層に大変人気がありました。一方の高橋是清(1921〜22年)内閣では財政出動によるインフレ政策を展開し、インテリには「いい加減だ」と不人気でした。ここまでくると、「景気が良い状態イコール異常な状態である。なぜなら、山師みたいな連中たちの羽振りが良くなるという。これはけしからん」。こういった「信念」に近いものを感じます。


佐藤

江戸の町には飲食店が6165軒もあった

佐藤 山師みたいな連中たちの羽振りが良くなるといえば、文政から天保にかけては、まさにそういう時代だったと思いますね。

飯田 文化・文政時代は外食も盛んだったみたいで。

佐藤 ええ、文化の時代には江戸の町に6165店の飲食店があったといいます。「五歩に一楼、十歩に一閣みな飲食店の店ならずということなし」と大田南畝はいってます。食べ物屋、水茶屋(喫茶店)が軒を連ねていたんですね。その頃の江戸の人口は100万人、うち町人人口は50万人の時代にです。

飯田 6165軒ですか。今よりも人口比でいうと多いのでは?

佐藤 多いと思います。裏通りに入るとテイクアウトの、お持ち帰りの総菜屋が軒を並べていました。あと蕎麦、テンプラなどの屋台。これらは6165軒の中には、カウントされていません。

飯田 いかに江戸の町が活気づいていたかを物語る数字ですね。(ハイパーインフレは除いた)インフレ状況下で景気が長期にわたって停滞するというのは歴史上ほとんど見たことがありません。

佐藤 やはり、それなりに消費があったんでしょうね。カネが回ったということでしょう。

飯田 経済理論的にいうと、インフレだといくら現金を持っていても目減りしていく一方なので、使うか貸すかになります。そうなると、カネが非常に回るようになる。反対にデフレだと、ツボに小判を貯めておくのが一番賢いとなってしまうので、カネはどんどん回らなくなります。

佐藤 デフレだと、そもそもカネを貸してくれという人も、いなくなるでしょう。

飯田 カネを貸したいという人はいるのに。


佐藤

田沼と松平の対照的な政策

飯田 清廉潔白の「良い政策」とその逆の「悪い政策」の対比でいうと、やはり新井白石と田沼意次の政策を思い出します。

佐藤 清廉潔白というより、どれだけ政府が介入するか、それとも自由放任でいくのかという違いではないでしょうか。政府が介入すると、息苦しくなって経済も縮こまってしまう。放任だと自由にやるため、経済は活発化します。

飯田 政府介入で失敗した例といえば……。

佐藤 典型的なのが、天保の改革(1841年〜)です。水野忠邦の改革は、とにかく節約節約で、まず消費経済を抹殺しました。例えば庶民生活の粛正と称して、岡場所(吉原以外の遊郭)を全部廃止したり、芝居小屋を江戸郊外(浅草)に追いやるなど。最も良くなかった政策が、株仲間の解散です。江戸時代の二大担保はというと土地と株。この2つの担保で金融が動いていたのに、半分の担保能力がゼロになってしまったわけです。当然、担保がなくなったらカネは貸せません。

飯田 消費が冷え切ったところに、今度はカネが回らなくなる。大デフレ、大不況に陥るのは当然ですね。

佐藤 で、その底冷えの経済を立ち直らせるため、どうやって株を再興させればいいのか。水野が失脚した後、遠山の金さんこと遠山金四郎景元が中心になって考えます。ぎくしゃくしながらも、ようやく動き始めた時に、思いがけなく安政の大地震が起こり、景気はまた一気に冷え込み、そこに幕末の騒動が始まりました。結局、江戸の経済は復活しないまま明治時代になってしまった。
 松平定信については、良い政策もやっておりますし、徳川吉宗は必死に財政再建に取り組んだ。ただ、こと経済に関しては、自分たちの思うような方向には動かなかったということです。

飯田 確かに、現在のような「商業に課税する」というシステムはありませんでした。となると、幕府にとって商業が栄えるということは、相対的に貧乏になるということでもあります。だったら商業にも薄く広く課税しようという方向にいくのかと思えば、「商業に課税できないのなら、商業などないほうがいい」という方向にいってしまうのが、今の時代から見ると面白い考え方です。

佐藤 田沼意次が鋭かったのは、商人、武家、寺社などあらゆる階層から「間口税」を取ってしまおう、それも全国的にやってしまおうと発想していた点です。あの時代背景で思いついたのですからたいしたものです。
 ところが、実施寸前に江戸で未曾有の大雨が降り、深川では2階の屋根までつかる、越ヶ谷や春日部や水戸あたりまで見渡せるという大洪水で、お金を取るどころか、旗本やご家人たちの救済にカネを使わなければならなくなってしまいました。すでに大坂では徴収を始めていたというのにです。ああいう大災害に見舞われなかったら、またその直後の政変に遭遇しなかったら全国民から税金を徴収するという制度が確立して、日本の歴史が大きく変わっていたかもしれませんね。


飯田

【次号は連載最終回です】

◎――――連載

球域の文明史 第28回

比較経済史の方法について(2)

川勝平太

Kawakatsu Heita 
一九四八年生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科修了。英国オックスフォード大学大学院博士課程修了後、早稲田大学政治経済学部教授を経て、国際日本文化研究センター教授。著書に『経済学入門シリーズ 経済史入門』『日本文明と近代西洋』『文明の海へ』『文明の海洋史観』など

 今回は「ヨーロッパのアジアへのキャッチアップ」というここ数回のテーマに即して、分化・相似・相異という先に紹介した比較経済史の三つのキー・コンセプトを援用しながら、インドを軸にして解説し、読者の理解を得たい。
 先に結論めいたことをいうと、広く、インドは東洋文明と西洋文明の両方のふるさと、あるいは、東西の両方の文明が融合するのがインドである、といってよいところがある。インドには、インド固有の全体性が東西両方向に分化していく力と、すでに東西に分かれて別個に存在した部分同士がインドで融合・統合されて全体性を回復する力とがある。インドという「場」には全体性を志向するベクトルが働くのである。たとえば、ギリシャ系の美術の影響が濃厚な仏教美術として名高いガンダーラ美術は、西の文化と東の文化の融合の好例であろう。
 日本は極東にあるが、日本人は仏教文化のふるさととしてインドとの文化的一体感をどこかにもっている。では、極西にあるヨーロッパの人々がインド文化に共感していないかというと、そうではない。時代は下るが、一八世紀末、インドのカルカッタで、ユーラシア極西のイギリス人ウィリアム・ジョーンズがサンスクリット語とギリシャ語との著しい類似性を見出した。この発見でインドから西の諸言語の連関が解明され「インド・ヨーロッパ語族」という名称が生まれ、ヨーロッパ社会にもインドとの文化的一体感が醸成された。ベートーヴェンの『音楽ノート』(岩波文庫)にインド哲学書からの数多くの引用がみられるのは決して偶然ではないのである。
 ユーラシアの西方に起源するものがインドに流れ込み、ユーラシアの東方に起源するものもまた、インドに流れ込む。あるいは、インドに起源するものが分かれて、西方にも東方にも流れ出る。インドは東西文明を両有する地域性をもっているのである。しかし、インドに存在する文化は、東洋の文化とも西洋の文化とも異なり、多様ななかにも特有の全体的性格を保持するところに特色がある。そのことを、物産を例にとって説明してみよう。
 インドには、その食文化において、アジアの米の文化、ヨーロッパの麦の文化の両方の性格を見出せる。フランスの人文地理学者ブラーシュが古典的名著『人文地理学原理』(岩波文庫)で、アジアの米、ヨーロッパの小麦、アメリカのトウモロコシを「三大栄養手段」と述べたのはよく知られているだろう。また、ブローデルが『物質文明・経済・資本主義』(みすず書房)のなかで、ヨーロッパでは小麦、日本・中国では米、アメリカではトウモロコシが、それぞれの「日用の糧」であり、この「三種類の穀物が輝かしい盛運に恵まれた」のが一五〜一八世紀の特徴だと論じている。
 トウモロコシを主穀としたアメリカの食文化については、この際、ひとまずおいて、ユーラシアの二大穀物である米と小麦に話をしぼろう。
 インドはユーラシア大陸の中央南部に位置することによる地政学的位置から、「アジアの米」と「ヨーロッパの小麦」の両方の大産地であり消費地でもある。インド以西では小麦が好まれ、インド以東には米の食文化がひろがっている。小麦は西方のザグロス・イラン高原からインダス河流域に伝播し、米は揚子江流域から雲南・アッサムの山岳地帯を越えてガンジス河流域に伝播したとみられる。
 食文化の「物産複合」(――このコンセプトについては、いずれ改めて述べる)からみれば、ユーラシアには、小麦を物産複合の中心にしたユーラシア西部(インド以西)と、米を物産複合の中心にしたユーラシア東部(インド以東)の二つのタイプの社会があり、地理的に両者の中間にあるインド社会では、米と小麦とが互いに簡単に代替食になれるほど一体感のある物産複合をもっているのである。日本ではインド料理を「カレー」と総称しているが、このカレーを、インド人は、ライスとも食べるし、チャパティ(パン)とも食べる。日本でも、最近ではインドの食文化を知る人が増えたせいで、インドカレー専門店では、ライスだけでなくチャパティを出すようになり、好きな方を選べるようになったが、それはカレーの本場インドの模倣である。
 東西の文化の総合性・全体性については、食文化だけではない。衣料文化についても、類似のことがいえる。
 木綿は、数ある衣料のなかでも着心地のよさ、洗濯のしやすさ、染色や捺染の容易さなどの点で抜群の素材であり、「衣料の王様」の地位をもっている。王様というのも King Cotton とは言うが、絹や亜麻や麻についてはこのような呼び方はしないのである。衣料のキング「木綿」のふるさとがインドである。
 木綿の衣料文化はインドに起源をもち、そこから西方と東方との両方向に伝播していった。西方へは、八〜一一世紀にA・ワトソンのいわゆる「アラブ農業革命」がおこり、その一環として小アジア・中東地域に移植された。そこから、地中海沿岸に移植されていったのである。
 東方への伝播をみると、中国に綿作が伝わったのは元代の一三世紀、朝鮮半島に綿作の伝わったのは高麗末期の一四世紀、そして日本に綿作が伝播したのは、その一世紀後の戦国時代である。
 中世後期から近世にかけて、ヨーロッパでは、地中海産の綿糸が毛糸と交織されて「ファスチアン」織りの材料になった。東アジアでは純綿の織物になった。綿作が東西両方向へ伝播したのは、インドの木綿文化の分岐という点では相似ている。だが、西方では交織用に、東方では純綿用になるというように、相異なる織物に分かれたのである。
 インドの木綿文化の伝播は綿作レベルだけではなかった。完成品の綿布も伝播した。綿布は東西方向へ伝播したのであるが、インド木綿の西方への伝播は、ヨーロッパの歴史を変えるほどの深甚な影響を与えたのである。この点については、「木綿の西方伝播とイギリス産業革命」と題して『日本文明と近代西洋』(NHKブックス)や、最近では『経済史入門』(日経文庫)でも詳論したので、ここでは省かねばならないが、すこしだけ補足しておきたい。
 近世のヨーロッパ諸国が東インド会社を作って、さかんにアジアと交易していた頃、インドはムガール帝国の全盛時代であった。ムガール帝国は、一九世紀後半にイギリスの植民地になるまで、三〇〇年以上もインドを支配したイスラムの王朝である。トルコ系とされるバーブル(一四八二/八三〜一五三〇年)が、一五二六年にデリーの北西にあるパンジャブ地方の要地パーニーパットにおける戦争でロディー朝を倒し、デリーを首都として建国した。第三代アクバル大帝(一五四二〜一六〇五年)のとき、西はアラビア海から東はベンガル湾にいたる広大な領土を支配した。第六代アウランゼブ(一六一八〜一七〇七年)までが最盛期である。
 ムガール(Mughal)の名前がモンゴルに由来することからも知られるように、東アジアと深い縁がある。一方、西方のイスラムとも縁が深い。ムガールの始祖バーブルはイスラム教徒であった。インドにおけるイスラム王朝はムガール帝国が最初ではない。蒙古系のティムールが北インドに侵入して建国されたティムール朝(一三七〇〜一五〇六年)も、デリー周辺の勢力でしかなかったがサイイド朝(一四一四〜一四五一年)も、アフガンのロディーが北インドを支配したロディー朝(一四五一〜一五二六年)も、いずれもイスラム王朝であった。
 インドは多神教のヒンドゥー教の国として知られる。ムガール帝国も、それ以前の王朝も、一神教のイスラム教徒が支配勢力であった。つまり、インドでは、多神教のヒンドゥー教徒と一神教のイスラム教徒とが共存した時代が長いのである。マハトマ・ガンジー(一八六九〜一九四八年)が、最後は凶弾に倒れたとはいえ、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との融和に全身全霊を傾けてインド人の心をひとつにして独立への道を開いたことは、よく知られていよう。最終的にはガンジーの意図に反して、イスラム系のパキスタンと、ヒンドゥー系のインドとに分離独立することになったが、そうなる一九四七年まで、一神教と多神教の二つの宗教の民が生活空間を共有していたのである。日本では、ややもすれば一神教と多神教とは水と油のように対立的に論じられるが、インドにおいて両者が長く共存した歴史的事実を見失うべきではないだろう。
 さて、インドでは、綿花が栽培され、それが綿糸に加工され、綿布に織られていた。原料綿花、加工綿糸、製品綿布は、大きく二分される。
 インドで栽培されていた綿花には、いずれも短繊維ながら、繊維がきわめて細い綿花と、太い綿花があった。この品質の差が、綿糸―綿布の品質においては、太糸―厚地布という連関をもつ木綿と、細糸―薄地布の連関をもつ木綿とに分かれた。極細の短繊維綿花はインド大陸の南西部に分布し、極太の短繊維綿花は東北部に分布した。繊維の細い綿花から紡がれた細糸と、それから織られた薄地布は、都市産業としてムガール帝国の保護のもとで熟練工が製品にして支配者階級が用いた。
 この薄地布をインドに来たヨーロッパ人が自国に持ち帰り、上流階級のハートをとりこにしたのである。インド木綿をもっとも大量に輸入したのはイギリスである。インド・キャリコ、インド・モスリンとして愛用され、膨大な量のキャリコとモスリンがイギリスに舶載された。イギリスでは、その貿易赤字が国庫の流出として危機意識がもたれ、議会は輸入禁止法(一七〇〇年)、使用禁止法(一七二〇年)を導入した。その後、猛烈な勢いで、イギリス国内で、インド製キャリコ、モスリンの模倣品づくりが始まった。それができるようになるのにほぼ一世紀を要した。イギリスの模倣品がインド木綿と競争できる低価格でできるようになったのは、アメリカ大陸に自生していた繊維の細くて長い長繊維綿花が発見され、それを機械で大量に紡げるようになってからである。つまり、イギリス産業革命にはインドへのキャッチアップという性格が濃厚である。
 こうして、イギリスは原料綿花―半製品綿糸―完成品綿布のうち、綿糸―綿布の連関でインドと相似た連関をもつ、次のような木綿体系をつくりあげた。長繊維綿花―細糸―薄綿布
 一方、インドでは、繊維の太い綿花から紡がれた太糸と厚地布は輸出されず、農村の一般民衆が着用していた。ガンジーが国産愛用運動で自ら紡ぎ着用していたのは太糸と厚地布である。これはつぎのような連関をもつ木綿体系である。短繊維綿花―太糸―厚地布
 まさにこの連関をもっと徹底させた木綿体系が、中国→韓国→日本に渡来したのである。
 インドに起源をもつ木綿が、相似つつ、相異なるものへと分化しながら東西に伝播していったわけである。全体性を見失わず、分化・相似・相異のコンセプトを軸に分析していく方法の有効性がお分かりいただけたであろうか。

◎――――連載

ガンバレ!男たち 第22回

会社を言い訳にするのは
カッコ悪い

池内ひろ美

Ikeuchi Hiromi
1961年岡山県生まれ。一女を連れて離婚後、96年にみずからの体験をベースに『リストラ離婚』を著し話題となる。97年、夫婦・家族問題を考える「東京家族ラボ」を設立、主宰する。hiromi@ikeuchi.com
ブログ「池内ひろ美の考察の日々」を始めました。http://ikeuchihiromi.cocolog-nifty.com/
サイト「東京家族ラボ」 http://www.ikeuchi.com/

写真

  国税庁の民間給与実態統計調査によれば、昨年、民間企業に勤める人が受け取った一年間の平均給与は四三八万九〇〇〇円で、前年比五万一〇〇〇円減。七年連続でダウンしていたことがわかった。業種別では化学工業が五六二万円で八年連続のトップ。以下、金融保険・不動産業、金属機械工業と続いている。男女別では、男性が五四〇万九〇〇〇円、女性が二七三万六〇〇〇円。給与所得者数は四四五三万人で一三万一〇〇〇人の減。給与総額も二兆八五二九億円減少。

「こんなはずじゃなかったって、ここ数年、妻からずっと言われ続けて、もう嫌ですよ。確かに給料は上がらないしボーナスも減ってるから、年収はダウンしています。でも、それって私の責任じゃないんですよ。会社が儲からないのに給料が上がるわけないじゃないですか。はぁあ〜」
 ためいき混じりに嘆く男性は四〇代前半。大手商社に勤務するサラリーマンだ。けっこうな高給取りに思えるが、実際はそうでもない。もちろん、男性の平均給与五四一万円に比べれば高額だが、かつて、都市銀行や大手マスコミ各社と並び高給取りの代名詞だったころの面影はもはやない。
「おまけに、家族ぐるみのつきあいをしていた同期のヤツが転職して、年収が二倍以上にもなったんですよ。それもあって、うちの妻は大魔神みたいです。でも、そいつはIT系の投資ビジネスをやっていて、自分が育てたIT企業に社長として引き抜かれたわけですから。僕なんか、ずっと鉄鉱畑ですから、そんなおいしい話なんかないですよ」
 鉄鉱業界は中国絡みで儲かっているのではないか?
「うちの部署だけは儲かってますけど、会社全体でみると減収減益です。それに、うちの業界は金融とかIT業界みたいに、新しい企業が急成長してどうのこうの、という話はあまりないものなんですよ」
 彼はまた肩を落とし、深いためいきをつく。
 確かにサラリーマンの現状は厳しい。給与が下がっているだけでなく、同じ業界、同じ企業に所属していても給与格差がどんどん開いている。それが、本人の努力不足のせいであれば諦めるしかないが、どの部署にいたかなどの運に左右される部分が大きいのでは同情もしてしまう。自営業者であれば、不況の中でも儲かっている会社はあるのだから頑張ろうよと言えるが、サラリーマンではそうも言えない。
 昔から、儲かるか儲からないかは、本人の能力や努力よりも、儲かる仕事に就いているかどうかで決まるとも言われている。そんなわけで、儲からない業種や、儲からない会社に勤めているサラリーマンは本当に気の毒だとも思う。
 しかし、どんな状況にあっても、男は頑張って生きていかなければならないわけで、何をどう頑張るかを考えてほしい。儲け(金)は後からついてくる、とも言われることだ。
 サラリーマン男性に望むことは、企業人にしかできないことをやって欲しいということだ。それは業界を背負うということだ。所属する会社を背負っているうちはまだまだ甘い。商社であれば、日本の鉄鋼業界を背負っているのはオレだ、石油業界を背負っているのはオレだ、くらいの気概で仕事をやれば、そのうち業界でも一目置かれるようになるだろう。
 NHKドラマ『ザ・商社』(八〇年作品)のモデルになった商社マンのように、世界の石油業界と戦うことができるようになればカッコいい男になれるし、ドラマ中だが、夏目雅子さんのような美女に惚れられたりもするだろう。ぜんぜん関係ないが、大和田獏さんにワイドショーで初めてお会いしたとき私が思い出したのも同作品であり、良い印象を受けた。
 まぁ、同作品は、話が大きすぎて、事業が失敗し大手商社を潰してしまったのだが。巻き添えを食った社員とその家族にとってはシャレにならないが、それくらい大きなスケールの話をぶち上げられるのも、企業人だからこそだろう。
 企業人は、その企業が持つ看板と組織の力を使うことができる。ところが逆に会社を言い訳にする人がいる。ウチの会社はダメですよ、とためいきをつく。それほどダメな会社であれば辞めればいいのに、辞めない人にかぎって言い訳をする。それによってスポイルされてしまうのだが。
 不況で大変だとは思うが、ためいきつかず活路を見いだす努力をしてみよう。ためいきをついた数だけ幸せが逃げて行く、とも言われていますよ。

◎――――エッセイ

美人のもと 第3回

美人のもと

西村ヤスロウ

Nishimura Yasuro
1962年生まれ。株式会社博報堂 プランナー。趣味は人間観察。著書に『Are You Yellow Monkey?』『しぐさの解読 彼女はなぜフグになるのか』など。

*水

 ヒトが飲み物を立って飲む姿をよく見かけるようになった気がする。昔は立って飲み物を飲んでいなかったのか。そうではないが、飲む頻度は増えているように思う。水分補給の重要性をなんとなく感じているからだろうか。特に女性が外で水分を摂ることは増えているように思う。
 美人が透明な水を飲んでいる姿は、美しい。
 美人は水分が少なそうな印象がある。しかし、人間であるから、水分が欲しい。そして水を求める。水に辿り着き、飲む。この瞬間だ。美人がさらに美人になる。少しゆっくりとした速度で飲んでいく。たいていその飲み物を右手で持ち、左手は自由になる。その左手が重要。軽く握っている感じだ。軽いグー。別にグーにしなくてもいいのだが、グー。美しくかわいい。
 どこかにチカラを入れたいのか。でも、別に力む必要はない。いや、あるのだ。当たり前だが、飲む瞬間、ヒトは口を開ける。口を開けるとき、油断すると脱力してしまう。脱力を顔で表せと言われたら、たいていの人が口を開ける。しかし、脱力ではいけない。水の勢いに対して無頓着になる。そして何より、顔がだらしなくなる。どうやら「美人のもと」は口から逃げていくことが多いようだ。口を開けながらも油断していない姿が重要なのだ。それを支えるのがグーだ。
 さて、街に出てみよう。今日も女性が立って水分補給している。しかし、左手がパーな人が多い。しっかりしたパーではなく、弱々しいパー。水分補給と同時に「美人のもと」は減っていくことも知らずに。脱力している。パーさんがグー美人に勝っているのはじゃんけんだけだ。

*あんかけ

 あんかけは正直だ。美人にやさしい。食べ物なのに反応する。食べ物というか、焼きそばや中華丼などにかかった付属品程度のものなのに。
 あんかけといえば、あのとろみである。とろみのためにがんばっている。そのとろみは永遠ではない。食べていると、徐々にドロドロがサラサラになっていく。血液なら歓迎させる現象であろうが、あんかけはドロドロしていてこそ、存在意義があるように思う。しかし、それは、はかない。
 あなたがもし、あんかけのはかなさをよく知っていたら危ない。
 美人はそのあんかけのはかなさを知らない。なぜなら、美人のあんかけはいつまでもドロドロ状態なのである。美人に食べられる「あん」はがんばる。
 ところが、美人のもとヒトケタさんのあんかけは実に短命だ。がんばらない。いつまでもドロドロしていようという意志がなくなるかのようにすぐにサラサラになってしまう。
 おい、あんかけ、ヒトを外見で判断するなよ。
 しかし、なぜあんかけのがんばりに個人差が出るのか。これは不思議である。先日、知人よりその理由を知らされた。どうやら、あんかけというか片栗粉は唾液に反応して、そのとろみを失っていくらしい。真実かどうかはよくわからないが、個人差が出る根拠になっている気がする。
 なるほど、美人は食べている時に箸やらスプーンやらに唾液をつけない傾向にあるようだ。美人の使った食器類はきれいだ。一方、とろみが短命なヒトは、食べる時にペロンペロン、ベロンベロンしている可能性が高い。それはよくない。箸やスプーンなどは食べ物ではない。そんなものに食欲を感じていてはいけない。やさしく扱おう。やつらをなめすぎると美人のもとが消えていく。
 やはり、口は要注意だ。「美人のもと」が出ていきやすい。食べている時が最も危険なのかもしれない。
 さて、今日はあんかけを味わってみよう。そして、そのとろみの寿命を意識しよう。美人のもとの量がわかるかもしれない。
 血液はサラサラに、あんかけはドロドロに。

◎――――エッセイ

内部統制で
何がどう変わるのか?

仁木一彦

Niki Kazuhiko
監査法人トーマツ エンタープライズ リスク サービス
公認会計士

新制度対応のための実践ノウハウ

 二〇〇八年三月、三〇〇〇社を超える上場企業に対して新しい制度が導入されます(※1)。いわゆる内部統制制度です(※2)。この原型といえる制度は、二〇〇二年に米国で成立したサーベンス・オクスリー法です。この米国制度に対応するため、多くの米国上場企業が多大な時間と労力をかけることとなりました。今後、同じことが日本の上場企業に求められることになります。
 新制度に対応できない企業は、「内部統制に問題のある企業」というレッテルを貼られ、最悪の場合、株価の下落を招いて買収のターゲットにされることも考えられます。上場企業にとって、新制度への対応はまさに死活問題といえます。
「新制度に対応するために何から始めたらよいのか?」。新制度への対応を命じられた上場企業の担当者は行動を開始しようとして、まずこの疑問にぶつかります。いままで経験したことのない制度の導入にあたって、当事者はいろいろな困難に遭遇すると考えられます。
 米国で上場している日本企業や米国企業の日本子会社といった一部の日本企業は上記のサーベンス・オクスリー法(四〇四条)が適用されるため、当該企業とその監査法人が、すでに貴重な経験をしてきました。我々筆者も過去二年間あまり、世界で最初に導入された内部統制制度対応のコンサルティングや監査法人として内部統制監査を実施することを通して多くの貴重な経験を積んできました。
 本書は、このような経験や事例に基づいた実践的なノウハウを伝えるものです。三〇〇〇社超の上場企業の担当者にわかりやすく読んでもらうため、専門的な説明に陥らないように様々な工夫をしています。日常的な視点から内部統制の問題点をチェックするための「チェックリスト」も作成し、企業の担当者が実務上で必ず遭遇するであろうポイントを「実務上の課題」としてまとめました。本書は、新制度の導入にあたり、戦々恐々としている企業担当者にとって、実務面での強力なサポートになると自負しています。

新制度が注目されるのは何故か
(1)制度導入の背景
〜粉飾決算問題への対策としての新制度〜

 米国では、エンロンやワールドコムの巨額粉飾事件を受け、サーベンス・オクスリー法が二〇〇二年に成立しました。この巨額粉飾事件だけでなく、米国では決算修正が続発し、財務報告に対する信頼が地に落ちました。企業に負担のかかる厳しい制度を導入したのは、企業の財務報告に対する信頼を回復し、経済の根幹をなす資本市場を守るという、米国政府の強い意思の表れといえます。
 日本でも同様に、西武鉄道やカネボウなどの一連の有価証券報告書の虚偽記載事件が発生しました。カネボウ事件では、旧経営陣及び公認会計士が逮捕される事態にまで及んでいます。これらをきっかけにして、わが国においても内部統制制度の検討が開始され、いよいよそれが導入されようとしているのです。

(2)制度の導入で変わる企業と監査法人の関係

 現在、粉飾決算問題に関連して監査法人と企業の関係についても議論が行なわれています。特定の公認会計士が同じ企業を何年も監査し続けることは癒着を招くという懸念があるためです。内部統制制度の導入は、このような関係にも影響を及ぼすものと考えられます。
 従来は、企業が決算を行なう際、監査法人に決算上の誤りを見つけてもらって、その結果を決算に反映しながら作業を進めるというようなことが当然のように行なわれてきました。新制度の導入によって、企業が自身の内部統制に基づいて適正な財務諸表を作成し監査を受ける、という本来の形を取り戻すことが期待されます。

(3)国際化への対応 
〜「会計ビックバン」の教訓〜

 内部統制制度は、すでにイギリス、フランス、韓国などでも制度化されています。これはもう国際的な潮流であり、日本だけが避けて通ることはできません。
 数年前、「会計ビックバン」といわれる会計制度の大改革が行なわれました。きっかけは、日本の会計制度が国際的な会計制度と比較して遅れていることにより、日本企業の財務報告への信頼度が低下したことでした。同じような信頼度の低下は、今後、企業の内部統制においても起こり得ることです。すでに制度が導入された米国の上場会社は、財務報告に係る内部統制のレベルアップを終え、次にコンプライアンスや業務の効率性の向上などの内部統制の強化を図ろうとしています。現時点で、明らかに日本の上場会社は、一周遅れになっているのです。

 このような、様々な側面から新制度の導入の必要性は叫ばれています。また、今後も続くであろう企業の不祥事のたびに新制度への社会的関心はさらに増していくと考えられます。本書は、そのような社会的ニーズにかなう一冊であると考えています。

※1:制度導入時期は新聞で二〇〇八年三月見込みと報道されてはいますが、金融庁から公式な発表は現在行なわれていません。
※2:「財務報告に係る内部統制の評価及び監査の基準」(二〇〇五年七月一三日公開草案公表)に基づく制度です。


書籍

久保惠一/杉山雅彦/仁木一彦/森谷博之 著
●定価2520円(税込み)●4-478-10018-7 ●216ページ

◎――――エッセイ

ありのままに生きなはれ

月心寺・村瀬明道尼

一九二四年、九人兄弟の五番目として愛知県に出生。九歳で仏門に入る。
一九六一年、月心寺に入山。三九歳で交通事故のため右半身不随となる。
天衣無縫な生き方と、精進料理が評判を呼びNHK朝の連続テレビ小説
「ほんまもん」(平成一三年)のモデルとなる。


村瀬明道尼

 定年後の人生が、実りある心豊かなものでありたい。あなたがもしそう願うなら、まず、腹を括ってしまうことです。花の時代は終わったと。現役とおさらばした人生は付録も付録、おまけなのだから、精一杯楽しく、自分自身を偽らず、ありのままに生きたらいい。
 そこでひとつ、私が薦めておきたいのは、自分史を書くことです。記憶を辿って綴ってみれば、自分がいかに奇跡的に生を受け、親の深い慈しみと人との交わりの中で生かされ、今があるか、そのありがたさがわかってきます。人に対して優しくなれます。長い人生には誰にもいえない汚点や恥のひとつや二つ、いやもっとあるかも知れん。己を省みることで、愛と感謝と喜びの種に変えなはれ。
 そして、明日もし目が覚めなくても後悔のないように、今日できることは今日する。贅沢はやめ、余計なものや見られて困るものは処分して、常に身辺を美しくする。心配いらん、死ぬのは一度。けれど必ずその日は来ます。
 白隠禅師は「衆生本来仏なり……」と説破されました(『座禅和讃』)。仏とは、仏像ではなくあなた自身だと。私も仏、あなたも仏、みんな仏。限りある尊い生命を大切に、不足をいわず朗らかに、歳を忘れて生きなはれ。この人との出会いも今日の日も、これが最後と真心を尽くしなはれ。もう花は咲かんけど、誇らしい実となって笑ってさいならいえたら、この次生まれ変わっても、きっとまた才能が花開いて、楽しいのと違うやろか。

(村瀬明道尼のお言葉は、小社創刊のシニア向け雑誌『楽風』で連載中です。構成=沖田真知子)


書

◎――――連載

気になるキーワードを徹底研究
ビジネスマンのための健康ラボ 第3回

【睡眠の質】

話し手 松井宏夫

Matsui Hiroo
取材協力
味の素株式会社 http://www.ajinomoto.co.jp/

「睡眠の質」をあげる食品も登場

 日本人の五人に一人が睡眠に問題を抱えているという。問題の第一は、熟睡感がないこと。眠りが浅くて、朝起きたときにぐっすり寝た感じがしないという不満を持つ人が多い。これは、「睡眠の質」が低下していることから起きる心身の不調感だ。
 夜にまとめて眠るようになった人間の睡眠には、一定のパターンが存在する。健康な人が眠りにつくと、深い眠りである「ノンレム睡眠」が現れる。ノンレム睡眠では、脳の温度が下がり、心拍も遅くなり、主に脳が休んでいる状態となる。その後?体は眠っているのに脳は起きている?
という「レム睡眠」に移行する。
 そしてノンレム睡眠とレム睡眠のセットをおよそ九〇分ほどのサイクルで繰り返し、目覚めが近づくにつれてレム睡眠が多くなっていく。また、寝入りばなには、ノンレム睡眠の中でも最も眠りが深い「徐波睡眠」が現れる。この睡眠パターンが崩れたり、深い眠りである徐波睡眠が現れなかったりすると、「睡眠の質」を低下させることになる。
 最近の研究では、アミノ酸「グリシン」が、「睡眠の質」と関連があることが分かってきた。グリシンはホタテなどの魚介類に多く含まれるアミノ酸で、人間の体内で作られる非必須アミノ酸の一つだ。睡眠に問題を抱える人に、就寝前にグリシンを摂取してもらったところ、朝の目覚めがよくなり、起床時の疲労感や日中の眠けが軽減。パソコンでの作業効率も向上した。睡眠中の脳波測定では、徐波睡眠に達するまでの時間が短縮し、睡眠パターンがより自然なものに近づくという結果が得られている。
 このグリシンの効果に着目した健康食品も開発されている。味の素から今夏発売された「グリナ」は、一回分でグリシンを三〇〇〇m含んでおり、睡眠に不満のある人たちに飲まれ始めているという。

●ご意見・ご感想はこちらまで…healthy@diamond.co.jp


イラスト

◎――――エッセイ

プロフェッショナルたちの財産

次原悦子

Tsugihara Etsuko
東京都生まれ。株式会社サニーサイドアップ代表取締役社長。アスリート、アーチスト等のマネジメントやPR事業等をおこなう。

 サッカーの中田英寿や水泳の北島康介など、たくさんのスポーツ選手をはじめとしたプロたちのマネジメントを当社ではおこなっています。この仕事の喜びは、選手の一番いい時、例えばメダルをとったり大活躍した時、選手が輝いている瞬間に一緒にいられることです。
 一番つらいのは、選手の個人の努力ではどうしようもできない現実に直面した時です。例えば突然のケガであったり、年齢や体力的なものであったり。当たり前ですが、ケガをなかったことにするなどできませんし、何もしてあげられません。
 だからこそ、マネジメントにおいて選手たちが一番輝いている時に「次を見る」ということが重要だと感じています。現役で輝いていられる間に、CM出演でいくら稼げるかではなく、現役を終えた後に、選手自身のブランドをどう残してあげられるのか。競技内容やその時々の結果に左右されない将来的な財産、広い意味でのブランドをどう築いていくかということを、日々考えています。
 未来永劫右肩上がりなどありえません。スポーツ選手にはピークがあります。それまでにきちんとした、確立されたブランドがあればいい。いつか来るべきその時が来た、それまでに準備をしておけば決して怖くはない。そう思っています。
 選手たちは日々真剣勝負をしているので、先のことまで考えていません。当然です。プロだからこそ今に集中しています。なおのこと選手たちの次のキャリアに向けての準備、次のステージを見据えた上のマネジメントをしていかなければいけません。
 また、ここ数年では、選手の社会における影響力とその活かし方についても考えています。ビジネスとして肖像を企業に買ってもらう。それも一つの方法ですが、影響力を世の中にどう還元できるかということも大切だと思います。
 例えばハードルの為末大選手。彼は今回の衆議院選挙のニュースをきっかけに政治に関心を持ち、ある立候補者の選挙活動を見に行きました。そして現場を見て感じたことや、「投票に行こう」というメッセージをブログで発信し、多くの反響をいただいたのです。為末のメッセージが持つ影響力は、世界陸上で銅メダルをとったからかもしれません。それは否定できません。血と涙と汗の結晶がメダルならば、むしろそれを瞬間だけではなく、もっと大きな形で社会に還元していかないと、もったいないと思います。
 活躍する選手が増えていくことで、選手を通じて得たノウハウや人脈なども増えていきます。そういった「財産」を、他の選手とも共有していき、選手たちが社会にいい意味での影響力を与えていく存在になっていく。そのサポートができればと思っています。

◎――――エッセイ

優秀な大学生を二分する、
パターン認識の罠

淡輪敬三

Tannawa Keizo
ワトソン ワイアット株式会社代表取締役社長。一九七六年東京大学工学部航空学科卒、同大学院修士課程、スタンフォード大学大学院修士課程修了。NKK、マッキンゼーアンドカンパニーを経て、一九九七年より現職。

 多くの日本企業がようやく踊り場を脱し、新たな成長を構想し始めました。その結果、人材の新規採用を積極化する企業が増えています。大学生にとっては、ようやく就職「真冬の時代」が過ぎ去ったように感じられていることでしょう。しかし採用する企業から見たとき、極めて気がかりな傾向が最近顕著になっています。大学生の二極化です。
 二極化といっても、従来から指摘されてきた「大学全入時代」の二極化、つまり高等教育を受ける準備すらできていない層の拡大という問題ではありません。この問題も重要ですが、ここで指摘したいのはもう一方の二極化です。それは、東京大学に代表されるような、高偏差値大学に特徴的に見られる現象です。
 一流大学の就職希望者を採用側から見た場合、「ぜひとも欲しい人材群」と「全く魅力のない人材群」に大きく二分してしまうのです。そして残念ながら、前者はせいぜい全体の二〇%程度です。いかに成果を生み出す能力があるかを見極める、コンピテンシー採用を取り入れれば、この違いがより明確になります。
 この二つの層に分離してしまう元凶は何なのでしょうか。私は偏差値受験体制への過剰適応の結果と考えています。インターネットの出現で情報収集効率が飛躍的に向上したために、「何が就職に有利か」の情報共有が進み、それなりの就職準備をしている学生も多くなりました。
 いわゆる履歴書美人の「就活」参戦者は、NPO活動への参加、学生起業組織でのビジネス経験など、なるほどと思わせるストーリーを用意してきます。しかし、実際に何を考え、どのような行動を取ってきたのかを詳細に聞いていくと、中身が空っぽの場合が多いのです。深く「考える」という問題解決の基本的な部分が欠落してしまっているのです。なぜそう考えたのか、そのときに何を発見し次に何を考えどう行動したか、と聞いても何も魅力的な事実が出てこないのです。
 私は、このようなインタビューの間に各採用候補者の「頭の中の動き」をイメージしています。受験競争の中で、偏差値をあげる最も効果的な方法が、与えられたインプットから、素早くアウトプットとしての解答を引き出す一種の「パターン認識」を磨き上げることにあったのではないかという仮説を立てています。一種のパターンからでる応答しか答えられないのです。
「考える」回路が欠落してしまうと、新たな付加価値を生み出すような知的生産性や創造力が極めて低くなってしまいます。大学生の間に、この「パターン認識癖」をどれだけ早く「アンラーン」、つまりきれいさっぱり消し去ることができるかがまずは「勝負」です。

◎――――エッセイ

たった3年で
ハッピーリタイヤができる!<

吉川英一

Yoshikawa Eiichi
富山県出身。現役サラリーマンの個人投資家。ヤフー(ファイナンス)掲示板に「金持ちサラリーマン」のハンドルネームでコメントを載せ、連戦連勝のカリスマとして注目を集めている。著書に『年収360万円から資産1億3000万円を築く法』などがある。

 私は先日、いよいよ二五年間のサラリーマン生活に別れを告げる決心をしました。上司に退職届を提出し、とてもすっきりとした気持ちで毎日を過ごしています。
 振り返ってみれば、私のサラリーマン生活は最初から苦渋に満ちあふれていました。新卒で入った会社は、給料も安く残業が多くて最初の給料日で辞めてしまいましたし、その後入社した地元企業も同族会社で低賃金、三社目は給料遅配の後倒産、四社目は個人事業主に丁稚奉公のように使われ、五社目はリストラによる転籍と、ろくなことはありませんでした。
 いわゆる私は、サラリーマン社会では職を転々としている、いつまでたってもうだつの上がらない落ちこぼれサラリーマンでした。

株からアパートへの?スイング投資?

 しかし、私はサラリーマンという地位をフルに利用してファイナンスした結果、わずか三年あまりで自分の年収以上の収入を簡単に手に入れることができたのです。その方法は『年収360万円から資産1億3000万円を築く法』で詳しく説明させていただきました。サラリーマンが迅速かつ確実に資産を増やすには、やはり株と不動産しかないのです。
 株で自己資金を増やし、それを頭金としてアパートを取得する。これがもっとも効率のいい資産の増やし方なのです。当然、株から不動産に移行する際には三倍〜一〇倍ぐらいのレバレッジをかけることになります。これが資産をいっきに増やし、安定したキャッシュフローをもたらしてくれるのです。
 株からアパートへのスイング投資で、私の現在の年間家賃収入は一八〇〇万円ほどになりました。返済と経費を引いても半分以上が手元に残ります。
 そして今、リタイヤ前に新築アパート二棟一六室のプランが進行しています。なんと利回りは一五・七%。これがまもなく実現すれば、リタイヤ後の収入はさらに一〇〇〇万円増え、老後も見据えた安定収入が確保できるはずです。
 夢のような話だときっと疑われる方も多いと思います。確かに私も最初のアパートを取得するまではそう思っていました。三〇〇〇万円の借金を半分程度返すまでは二棟目なんてとても無理だと考えていました。
 ところが、アパートを取得したとたん、節税効果もあいまって、貯金とは別に年間四〇〇万円ぐらいのお金が貯まり出すのです。二棟目からはアパート経営をしているという実績と信用が評価され、銀行融資もどんどん甘くなっていきます。私の知る友人たちも年に一〜二棟ペースで増やしている人がほとんどです。つまり、サラリーマンがハッピーリタイヤするには三年もあれば充分可能なのです。疑い深い方も、まずは最初の一歩を踏み出してみてください。きっとお金が増える醍醐味を体感できることと思います。

リタイヤで自分の好きなことをしよう!

 あなたは毎日仕事を終えて家に帰ったとき「あー、今日も仕事が楽しかったし、最高の一日だったなぁ」と感じているでしょうか? たいがいの人は「あー、今日も最悪! つらいだけの一日だった
……」と奥さんに愚痴をこぼしながら、ビールを飲んでいるのではないですか?
 人生において一番不幸なのは、自分のいやなこと、嫌いなことをして毎日を生きることだと思います。ちょっと言い過ぎかもしませんが、最近私自身「獄中生活」や「奴隷労働」と変わらない生活を今まで続けてきたのではないかと思うようになりました。そして、経済的自由を獲得した今、一刻も早く、時間という本当の自由を手に入れたいと強く思うようになったのです。
 これからは自分のために自分の人生を好きなように生きようと決めました。もはや毎日眠い目をこすって早起きする必要もなくなりましたし、上司の機嫌をうかがいながら海外旅行の申請をする必要もなくなりました。さっそく沖縄と香港、サイパンの旅行も予約して、私のリタイヤ後の夢はふくらむばかりです……。
 海外のリゾートホテルで好きなときに起きて、プールサイドで読書をし、本を書いたりダイビングやジョギングをしたりと、考えただけでもわくわくしてしまいます。
 そして、自分の大好きな株式投資やアパート経営についての本やコンサルティングを通じて、個人投資家のみなさんにハッピーリタイヤのお手伝いをしていけたら自分にとって最高の幸せだと思っています。
 これからは、ようやくつかんだ自由な人生をわくわくしながら自分に正直に生きてみたいと思うのです。

◎……著者が語る

『改革の経済学』

書籍

若田部昌澄 著
●二三一〇円(税込み)●4-478-21059-4

改革を始めなければならない

 このたびの総選挙における小泉自民党の選挙スローガンは、「改革を止めるな。」だった。
 しかし、どのような改革を、なぜ止めてはならないのだろうか? そしてなぜ改革を実現するのは難しいのだろうか?
 今度上梓した私の本『改革の経済学』は、こうした疑問に答えようとしたものである。
 日本経済の必要とする改革とは何だろうか。それは、「先送りできない」といって闇雲に財政再建を断行することだろうか。いまや郵政官僚が積極的に支持している郵政民営化を進めることだろうか。それとも、景気が悪くても、ひたすら企業家活動を鼓舞し続けることだろうか。あるいは、得体の知れない「構造問題」をひたすら「改革」することだろうか。
 日本の年金や財政は確かに問題を抱えている。しかし、その実態は誇張されて伝えられている。そして、性急な再建路線は――すでに一九九七年にわれわれが経験しているように――失敗する可能性が高い。また、新規企業の開業率といった企業家活動も、経済全体の動きと無関係ではない。さらに、停滞にもかかわらず日本経済の潜在的な生産性が低くなったという証拠は少ない。
 改革を止めずに前進させるためには、何が必要なのだろうか。現在、日本の景気が回復基調にあることで、多くのことが変わってきた。国民が政府に期待する第一の要望は景気の回復であり、その次に来るのは年金をはじめとする社会保障制度改革である。今度の総選挙は、小泉内閣発足以来初めて、景気が上向く中で行われた選挙であることを忘れてはならない。
 この景気回復をもたらしたものは、小泉政権の「構造改革」ではなかった。それは、循環的要因もさりながら、アメリカを中心とする世界的な金融緩和に、為替介入を起点として日本がうまく追随したからである。
 改革を止めないために必要なのは、まずは、現在続いている景気回復の動きを頓挫させないことである。その意味で、現時点における改革最大の障害は、二つの「政策の失敗」の危険性、すなわち政府による性急な財政再建と、日銀による量的緩和解除である。
 それにしても、政府は一九九七年に、日銀は二〇〇〇年に、教訓を学ばなかったのだろうか? このことが、なぜ適切な政策を実現するのはかくも難しいのかという疑問に結びつく。この疑問が現在進行形であるところに、せっかく景気回復によって好転しはじめた日本経済の行く末に懸念を投げかける、一種のアキレス腱がある。
 改革を止めてはならない。しかし、必要なのは改革であって、「構造改革」ではない。そして、本当の改革を始めなければならない。

◎――――エッセイ

判断力と決断力 第2回

時務を識る高杉晋作

田中秀征

Tanaka Shusei
1940年生まれ。東京大学文学部、北海道大学法学部卒業。93年、新党さきがけを結成、代表代行。首相特別補佐、経済企画庁長官等を歴任。現在、福山大学教授。著書に『日本リベラルと石橋湛山』など多数ある。

政治家にとって不可欠な“判断力”と“決断力”。本連載は、この二つの能力の有無が運命を変えた事例を取り上げ、政治家に必要な資質を探る『判断力と決断力』〈二〇〇六年刊行予定〉の一部を先行してご紹介するものです。各回のつづきは同書に収録されます。

 明治維新は、流通経済の発達などの国内的要因や、西欧列強の進出などの対外的要因によって起こるべくして起こった“時代の必然”であった。当時の徳川の幕藩体制が、このような内外の急激な変化に対応する力を持ち合わせていなかったからだ。
 わが国はこのとき首尾よく内外の危機を乗り切って維新政府を樹立して独立を貫いたが、もう一つの不幸な道を辿る可能性もあった。すなわち、中国やインドのように列強に蹂躪されて他国の属国となり果てる道である。
 当時のわが国の経済力や軍事力からすると、むしろそうなる可能性のほうが高かったかもしれない。
 それなのになぜ日本は属国化の道を辿らず、維新回天の事業を成し遂げることができたのか。それには奇跡的とも言えるいくつかの理由がある。
 その一つは、たまたまその頃、列強がそれぞれ特殊な重大事情を抱えていたことだ。
 イギリスはアヘン戦争やインド支配、アメリカは南北戦争、ロシアはクリミア戦争で手一杯であった。フランスもナポレオン三世の統治が不安定な状態にあった。
 各国の特殊事情が同時期に重なり、一八五〇年代から六〇年代にかけて、西欧列強は“日本介入”に全力を投球する余裕がなかったのである。そうでなければ、日本は彼らによってズタズタに切り裂かれ、全く異なる不幸な歴史の展開を余儀なくされただろう。
 もう一つは、そのように比較的なぎの状態にあった客観情勢の中で、時代の大転換を推し進める主体的な力が国の内部から生まれたことである。
 いかに西欧列強が手を緩めていても、体制変革のための絶好の期間をなすところなくやりすごしたら、日本はやはり清国などと同じ悲惨な運命を辿ったに違いない。
 ところが、この時期に日本は多くの優れた人材を得た。そして彼らの力によって、日本はこの短い期間に政治や経済の体制を一気に建て直し、身仕度を整えたのである。
 必要なときに必要な人材を得た。そのことが危機一髪、日本を救ったのである。
「時務を識るは俊傑なり」というが、時務(時代の要請)のありかを識り、そのために生涯を投じた人たちの功績は類例のないものだ。

明治維新で最も重要な人物

 さて、キラ星のごとく輩出した幕末維新の群像は、リレー走者のようにバトンを引き継ぎ、それぞれがかけがえのない役割を果たした。しかし、「もしもこの人がいなかったら明治維新は実現したか」と問われ、一人だけ名前を挙げろと無理な注文を受けたら、誰を挙げるべきか。
 私はやはり最初に高杉晋作を挙げざるを得ない。それほど高杉は、決定的な局面で決定的な役割を果たした。
 高杉晋作の生涯をざっと辿ってみる。
 彼はアヘン戦争の前年、一八三九年に長州藩士の家に生まれ、久坂玄端らとともに吉田松陰の松下村塾で学ぶ。同六二年、機会を得て上海に渡航し海外事情を視察。帰国後は一時、尊王攘夷の運動に身を投じた。六三年、長州藩の外国船砲撃後の軍事体制強化に際し、身分を問わず兵士を募り、有名な“奇兵隊”を創設した。
 その翌年、幕府の第一次長州征討軍に降伏謝罪した長州藩政府(俗論党政府)に反発、政権奪還を決意して功山寺で挙兵。ついに俗論党(保守派)を倒して、高杉ら正義党の手に長州藩の政権を奪い返した。そして、長州の藩論を“尊王倒幕”で統一。対幕府戦への挙藩体制を築いた。
 その後、第二次の長州征討(四境戦争)に際し、最高軍事指導者として奇兵隊など諸隊を指揮、一五万の幕府軍を撃退。幕藩体制倒壊の突破口を開いた。
 しかし労咳(肺結核)に蝕ばまれ、翌年二七才の若さで病死。大政奉還はその死の半年後のこと。高杉晋作は大業を成し遂げ未明に散ったのである。
 高杉晋作は、同世代の志士たちと比べても並はずれた判断力と決断力を備えていたように見える。彼は当時の日本がどのような危機に瀕しているかを正しく理解していたし、したがって日本はどうしなければならないかを知っていた。そして、その中で、この自分が何をすべきかを心得ていた。要するに、時務を識っていたのである。
 ただ、彼は行動人であったから、正しい現状分析や展望をそのまま人に語ることを控えている。それを明言することが事業の妨げとなることを怖れたからだ。

上海渡航の衝撃

 高杉はかなり早い時期から“開国派”であったが、それも最終局面に至るまで公言していない。なぜなら、長州藩にも志士たちにも攘夷論は根強くあり、その攘夷派のエネルギーによってしか藩政を奪還し、征長軍を撃退することができなかったからである。それでも何度か開国派と疑われて生命の危機にさらされている。
 藩政奪還のために挙兵した頃、高杉ら正義党は、三重の敵に包囲されていた。
 まず、近くは幕府に従う長州の俗論党政府。そして、その外側には徳川幕府。さらにその外側には、日本支配をもくろむ西欧列強であった。
 当時、正義党が壊滅状態であったことを考えると、この圧倒的な包囲を覆す意志を固めていたのは、ほとんど高杉晋作一人であったと言ってよい。
 彼がいつ“開国派”に転じたかは明らかではない。一瞬のひらめきというより、次第にその方向に思想が形成されたのであろう。
 万延元年(一八六〇年)に、二二才の彼は“試撃行”と称し、剣術修行を兼ねて諸国を遊歴している。このとき笠間で加藤有隣、松代で佐久間象山、福井では横井小楠を訪ねて会談している。なかでも横井小楠の識見には敬服したらしく「有一無二の人」と最大級の評価をしている。
 おそらく、このとき横井の開国論に衝撃を受け目を覚ましたのであろう。横井は黒船の来航後、安政二年(一八五五年)に早やくも開国論に踏み切っていた。
“試撃行”の二年後、高杉は幕府の役人の従者として上海に渡航したが、そのときに横井の開国論の正しさに確信を持ったのであろう。「百聞は一見にしかず」のとおり、上海渡航による体験は、以後の高杉の思想と行動に決定的な影響を与えた。その後の彼の言動は“秘めたる開国派”という目で見ると実によく理解できる。
 彼は上海で、かつて隆盛をきわめた清国が、西欧列強に蹂躪されている屈辱的な光景を目の当たりにして強い衝撃を受けた。
 中国の国内にもかかわらず、イギリス人やフランス人が通ると中国人は道を譲っている。「華人と犬」が入ることを禁じている場所もある。長髪族の乱(太平天国の乱)の鎮圧のため、清朝政府は外国軍の力を借りている。
 上海港に停泊する外国艦隊の威容を見て、彼は腰に差した刀の無力さを痛感したのではないか。
「支那の事にあらざるなり」
 渡航日記に記されたこの一言が彼の心境のすべてを表現している。
 高杉の開国論と幕府の開国論は似て非なるものだ。
 幕府の開国は、外側から無理矢理窓をこじ開けられる清国流の開国。だが、高杉のそれは内部を強化して、自らの手によって内側から窓を開く開国である。同じ開国でも幕府の開国は、激しく外から戸を蹴る暴漢に恐れをなして家を明け渡すようなもの。これは清国の二の舞である。
 無謀な攘夷も幕府の開国と同じ結果を招く。力もないのに、こちらから先に手を挙げれば、待ってましたとばかり軍事介入の口実を与えることになるからだ。

指導者が代わらねば改革は実現しない

 高杉の判断力が卓越していたのは、改革は指導者が交代しなければ実現しないことをいち早く見抜いていたことだ。
 藩政改革は藩の体制が変わらなければできない。日本の国内改革も、幕府が退陣しなければ進展しない。旧体制が主導する改革は、見せかけの改革であり、むしろ旧体制の延命策に過ぎない。本能的にそれを見抜き、「必要なことは必ずする。不必要なことを決してしない」という行動哲学を貫いたから、高杉は時務を果たすことができたのである。
 高杉は、上海で圧倒的な軍事力の格差を知るとともに、同行した幕府官僚たちの言動から、幕府という組織の実態を鋭く観察している。
 幕府の役人たちはもっぱら出張手当の額ばかり話題にし、宿の部屋の取り合いに目の色を変えている。長髪族が襲ってくると聞けば、ただあたふたするばかりでその動きを探ろうともしない。
 幕府政権の内情がこのようなものであれば、もはや日本の将来を託することはできない。
 組織の末端の現象を観察してその全貌や本質を見抜く。一流の判断力を持つ人に共通する感性であろう。
 高杉は、時務を識らず保身に夢中な幕府官僚には、危機の時代を乗り切る意志も力もないことを思い知らされた。おそらく?倒幕?の志はこのときに芽生えたのに違いない。
 長髪族から逃げた幕府官僚と違って、高杉は近寄って観察して重要な示唆を受けた。
 長髪族の強さは雑草の強さであり志願兵の強さ、家柄や身分を問わず志で集まった軍の強さである。この体験は後に奇兵隊の創設につながっていく。

◎――――連載

小説 「後継者」第19回

第8章 カゲロウの本領(2)

安土 敏

Azuchi Satoshi
◆前回までのあらすじ
スーパー・フジシロの創業者社長・藤代浩二郎が、提携先の大手スーパー・プログレスを訪問した帰り、車中で謎の言葉を残し急逝した。プログレスの裏切りに続き、山田会長から持ち出されたプログレス傘下にフジシロが入るという提案。フジシロの役員たちは揺れる。臨時役員会議が開かれ、プログレス傘下に入るか否かについて話し合われた。専務の浩介は、土壇場で意見を覆し「経営者として、専務として、父の意思を継ぐ者として」独立路線を貫くことに浩介は決めた。その直後に、伯父の太一から呼びつけられる。足を運んだ伯父の元には守田社長がいた。伯父と守田社長にプログレスとの提携を再考するようにもとめられるのだが、太一は大衆路線で行くことを主張し、ついには伯父を口説き落とす。その夜、伯父から電話があり、守田社長はプログレスに取り込まれているから解任し、浩介に社長になるようにと言う。苦悩する浩介。フジシロは守っていけるのか。

3

 臨時役員会の翌朝、浩介は、8時にオフィスに入った。
 もともと出勤時刻は早い。と言っても、仕事熱心なわけではない。最低週2回はゴルフに行くので、自然、早起きが習慣となり、毎朝6時前には目が覚める。朝食をとった後、少し胃を休めて、打球音が近所迷惑にならない午前7時になると、庭の隅にある鳥カゴ式の練習場でボールを打ち始める。一籠50球を打った後、芝生に移ってアプローチを練習。それでも8時には間がある。軽くシャワーを浴びて出勤してオフィスに入るのが8時半。これがいつものパターンだ。
 しかし、今朝は、その練習をしなかった。そういう気分にならなかったのだ。
 昨夜は眠れなかった。「あくまでひとり」という父浩二郎からの啓示を受けて、プログレスとの提携を拒否することを宣言した臨時役員会のこと。伯父の太一宅で知らされた守田社長の意外な姿。そして、夜、太一からかかってきた電話の内容。それらが頭のなかを果てしなくめぐっている。ようやくウトウトしても、すぐ目が覚める。あまり眠っていないのに、不思議に頭がくっきり冴えてしまうので、起きあがって焼酎のオンザロックを飲んでベッドに潜り込む。それを2度やった。朝、目覚めたときにもアルコールが残っていた。ゴルフの練習どころではない。かと言って、ほかにすることもないから、朝食もそこそこにして、会社にやってきた。
 専務室のデスクに向かってぼんやりと考え事をしている。太一伯父は、今日、守田社長にどのように話すのか。それを告げられた守田は、どういう反応をするのか。あっさり辞任を承諾するだろうか。大人しい男だから騒ぎ立てるようなことはないだろうが、ただ黙って引き下がるとも思われない。浩介のところにやってきて、山田の手先などとは濡れ衣だと文句をつけられたら、答えようがない。証拠も何もないのに、強引に退任を迫るのだから、何とも説明がつかない。いかにオーナーと雇われ経営者の関係だとはいえ、守田は浩介にとっては父浩二郎の学生時代の友人であり、目上なのだ。ほぼ同世代に属する太一伯父のように、要するに辞めてもらうのだ、と簡単に割り切ることはできない。
 それに、プログレスの山田会長に、提携拒絶の話をどう伝えたらいいのか。解任する守田にその役目を期待できないのだから、浩介が山田に会って伝えるしかない。これは、ひどく気の重い仕事だ。
 考えあぐねて、浩介は、デスクのうえの経済新聞を手に取った。最終面に載っている連載小説を読む。生々しい性描写で中高年ビジネスマンに話題の作品で、連載が開始されて以来、日々、浩介も引きつけられるようにして読んでいたのだが、その小説にさえ、今日は気が入らない。パラパラとページを繰ってみると、ダイエー再建に関する囲み記事が載っていた。一応目を通すが、これも頭に入ってこない。
 突然、電話のベルが鳴った。
 驚いて受話器を取りながら、時計を見ると、ちょうど午前9時だ。この時刻を計ったようだ。太一伯父だと直感したのだが、意外にも、相手はプログレスの山田会長だった。
「お早うございます」
 受話器のなかの声は、ゆったりと穏やかだった。 慌てて、挨拶を返す。
「お忙しいと思いますが、できるだけ早くお会いしたい。今日、午前中はいかがでしょうか。都合をつけていただけないでしょうか」
 丁寧な口調だが、断固としている。浩介の拒絶を許さない雰囲気である。
「はあ」
 午前中は、社内の報告会が予定されている。だが、この際、そんなことは問題ではない。それに、浩介にとっても、山田会長に提携拒絶の話をするのに、ちょうどいい機会だとも思う。
「ぜひ、ふたり、水入らずでお話をしたいのです」
 山田は、都心のホテルの名を挙げた。
「10時半にロビーでお待ちします」
「はい。伺います」
 まいったな。
 浩介は、呟いた。何となく先手を取られている気がする。ゴルフのマッチプレーだって、先手を取って攻めていくほうが有利なのだ。だから、時には、ドライバーショットの落としどころをわざと相手より手前にして、2打目のアプローチ・ショットを先に打ち、ピンそばに寄せて圧力を掛けたりする。

4

 手回しよく、山田は、ホテルのスイートルームを予約していた。
 部屋をとってそこで話をするという発想がなかったので、浩介は意外な感じを受けたが、部屋に入ってみて納得した。ドアを入ったところに、応接セットがあり、その隣に、10人ほどが座れるテーブルもある。ここなら、だれにも邪魔されずに落ち着いて話ができる。
 海外への招待旅行などでスイートに泊めてもらったことがあるが、東京でそんな部屋に泊まったことがない。こういう使い方もあったのか。浩介は物珍しい気持ちで、室内を見回し、それから窓の外に広がる皇居の緑に目をやった。
「まあ、どうぞ、お掛けください。コーヒーでいいですか」
 山田は言い、部屋まで案内してきたホテルの客室係に注文を告げた。
「いや、なかなか大変なことになっているんですよ」
 山田は、ソファに座るやいなや、口を開いた。
「イトーヨーカ堂グループの再編が、日本の流通業に大きな変革を迫りそうです」
「はあ」
 浩介は、曖昧な返事をするしか方法がない。よく分かっていないという自覚がある。総務部の広報担当から、イトーヨーカ堂の組織改革を伝える新聞記事のスクラップが回覧されてきていたが、それにどういう意味があるかは、深くは考えていなかった。
「これは、要するに、イトーヨーカ堂グループの量販力が飛躍的に高まるということなんです」
 イトーヨーカ堂グループの企業群全体が再編成されて、株式会社セブン&アイ・ホールディングスという持ち株会社に統合される。従来イトーヨーカ堂の子会社だったセブン・イレブンと、イトーヨーカ堂がいわば同列になって、その上に持ち株会社ができる形だ。セブンイレブン、イトーヨーカドーのほかに、デニーズ、ファミールなどのレストランチェーン、ヨークベニマル、ヨークマートなどの食品スーパー(スーパーマーケット)、ロビンソン百貨店、メリーアンなどの専門店、これらの小売業がひとつの持い株会社のもとに置かれる。
 浩介がピンと来ない顔をしていたので、山田は解説した。
「コンビニとスーパーでは、納入単位の違い、特売の有無、納品サイクルの差など、細かい点で非常に異なるので、メーカーや問屋は、それぞれに対しての納入条件を細かく変えていたのですが、今後はセブン&アイでは、そういうことを認めないはずです。なぜなら、それがこの統合の目的だからです。すべての業態に対して同じ条件を要求する。これは大変なことです。メーカーや問屋は、結局、押し切られてしまうでしょう」
「押し切られると、どうなるのですか」
 事の成り行き上というか、話の趨勢に従って、浩介は尋ねた。
「イトーヨーカドー、セブンイレブン、ヨークマート、ヨークベニマルなどの力が、グループ全体として、飛躍的に強くなるということです。いままではGMS、食品スーパー、コンビニと業態別にばらばらだった力がひとつに結集されて、メーカー、問屋に対する強烈な圧力になる。当然、他のGMSは黙っているわけにはいかない。GMS各社は、それぞれに食品スーパーやコンビニを持っている。競争上不利になるのを見過ごすわけにはいかないから、すべてのGMSが自社系列のコンビニや食品スーパーと一緒になって、メーカーや問屋に同じことを要求するようになるでしょう」
 山田が静かな口調でここまで言ったとき、部屋にノックが聞こえたので、山田はドアに急いだ。客室係がコーヒーを持ってきた。
「ありがとう」
 山田が言い、伝票にサインする。
 その間、話題が途切れ、浩介は山田の言葉を反芻していた。
「いや、失礼。要するに、流通業界は、一層寡占化が進むことにならざるを得ないということです」
 浩介は黙っていた。話の赴くところ、プログレスとの提携が絶対に必要だという結論に持って行かれてしまうという予感があった。どうやって、反論しようかと頭のなかで思いめぐらすのだが、空回りしているような感じで、いい知恵が浮かばない。
「強者はますます強く、弱者はますます弱くなり、結局、業界全体が列強数社の傘下に繰り込まれざるを得なくなります」
 山田は、浩介の顔をじっと見つめた。
「日本のスーパーマーケット、つまり食品スーパーは、それぞれの企業努力でよくやってきました。食品中心で生き残るには、ローカルなマーケットをしっかりと固める必要がある。だから生鮮食品を重視して、その管理のノウハウと仕組み作りに企業の生命を賭けた。生鮮食品に関しては、フジシロさんのようなよい食品スーパーに、我々GMSは、到底敵わない。しかし、一方で、生鮮食品にエネルギーをとられすぎた結果、食品スーパー各社は、規模を拡大できませんでした。それが、GMS、コンビニと、売上高の規模が桁ひとつ違うという結果になっているのです」
 山田の目は、優しい光を湛えたまま、浩介の目をとらえて放さなかった。
「いま、その規模の差が決定的な意味を持つようになりました。食品スーパー専業の経営者たちは、長年の間、最後に物を言うのは、地域の占拠率だと思ってきました。食品スーパーなら地域一番のシェアだから負けないというのが、その論理でした。ところが、それが違っていたのです。GMSとコンビニ、それに、GMSグループの食品スーパーが手を組むことにより、ほとんどの地域で、GMS系の圧倒的優位が確立するのです。つまり、量の力が、生鮮食品の管理ノウハウを圧倒してしまうということが明らかになってきたのです」
 山田は、目を閉じ、しばしの沈黙の後、首をゆっくりと振るようにしながら言った。
「まことにつらいことを申し上げねばなりません。フジシロは単独では生き残れません」
「それは、山田会長のお考えです」
 浩介は、そう言ったが、声が震えているのを自覚した。
 山田は、しばらく沈黙した後、強い声になった。
「あなたは何も分かっていない。日本の各地の食品スーパーがどんどん再編成されつつある。今年になってからでも、北陸のユースが岐阜県のバローの傘下に入った。これはあなたもご存じのとおりだ。さらに、私が持っている極秘情報では、新潟県では原信とナルスとが統合される」
 最後の話に、浩介はショックを受けた。原信は成績優秀な上場企業であり、ナルスは規模こそ小さいがこれも好業績の企業として知られている。浩介自身、両社のトップとは親しくしている。まさかとは思うが、山田が嘘を言っているとは思えない。
「これらの提携がこれまでの提携と違うのは、傘下に入る企業も破綻したわけではないということです。つまり私の考えは、GMS寄りの勝手な考えではない。食品スーパーの経営者たちも、心ある人たちは同じように考えているのです。いや、しかもだ。日本の流通業だけではない。外資のことも考えねばならない。あなた方は口を開けばカルフールが日本で失敗して撤退した、ウォルマートがうまくいっていない、だから外資には日本の市場は攻略できないと言うが、それは外資の本当の恐ろしさを知らないからだ。彼らは変わる。状況に合わせて変化する能力を持ち、それを支える資本力を持っている。結局は量の力で圧倒するのです」
 山田の話にはだんだん熱がこもってきた。
「そして、総合商社の動きも見逃せない」
 山田は、丸紅がマルエツと東武ストアを傘下に収め、住友商事が西友、マミーマートに続いて、関西スーパーにも資本参加したことを述べた。
「それも、量を集めるためです」と山田は浩介を睨むような目になった。「いい加減に目を覚ましなさい。決定的瞬間というものがあるのです。そのときを逃したら、二度と再び同じチャンスは戻ってこない。いま、あなたとフジシロは、そういう瞬間に立っています。あなたの胸のなかには、ひとりでいる自由、独立している誇り、そういうことが去来しているでしょう。でも、それが、ひどく偏狭な近視眼的な見方だったとしたら、どうでしょう。そのひとりのトップの誤った意思決定によって、大勢の人々の人生が左右されるのですぞ。具体的には、フジシロさんに働いているすべての社員たちのことですが、そうした人々のことを考えてあげなさい」
 山田の目が潤んで見えた。声も湿った。
「フジシロの社員たちが気の毒だ。いかにオーナー経営者であると言っても、あなたに彼らを路頭に迷わせる権利はない。しかも、あなた自身についてだって、見当はずれな心配をしているのですよ。あなたは、それも理解できていない。いいですか。プログレスがフジシロに資本参加させてもらうのは、フジシロが好業績の食品スーパーだからなのですぞ。だから、私はフジシロの現在の経営者たちに退けと言っているわけではないのです。もしその気があるのなら、あなたに社長になってもらってもいい。守田さんには会長をやってもらいましょう。あの人には会長のほうがお似合いだ。他の役員たちはいまのままでいい。ただ、プログレスの資本のもとで全体の量をまとめないと、この時代、もう生き残れないと、私はそう言っているのです。一体、どこがまずいのですか。さあ、藤代専務、考え直してください。そして、この提携に賛成してください」
 浩介の体のなかを激しい突風が吹き抜けた。強い後悔のようなものが、腹のなかから突き上げてきた。
「ああ」と浩介はうめいた。俺にはできないのだという思いで胸がいっぱいになった。
「さあ、一緒にやりましょう」と山田が握手の手を差し伸べた。
 そのときだった。浩介の背広ポケットからモーツァルトのアイネクライネナハトムジーク第1楽章の明るい冒頭部分が聞こえてきた。携帯電話の呼び出し音だった。
 浩介が電話を取り出すのを、山田は不快そうに見つめていた。
(つづく)

◎――――連載

●連載エッセイ ハードヘッド&ソフトハート 第47回

真の教養を阻害する
この国の教育システム

佐和隆光

Sawa Takamitsu
一九四二年生まれ。京都大学経済研究所所長。専攻は計量経済学、環境経済学。著書に『市場主義の終焉』等。

知性主義の横溢していた旧制高校

 東京大学を唯一の例外として、日本の大学の入学試験は学部別に行われる。大部分の大学の工学部では、さらに細分化され、学科別に入試が行われる。つまり、一八歳という年齢で、将来の職業の選択肢を大きく絞り込まざるを得ないのである。このことの是非について、また日本の教育制度のはらむ問題点について考えてみよう。
 戦前の旧制高校では、文科と理科、そして外国語の種別に応じて甲(英語)、乙(独語)、丙(仏語)に分かれていたが、文科から理科へ、理科から文科への転科は自由自在だったそうである。小学校は六年、中学校は五年だったから、旧制高校に入学するのは一七歳が普通だったけれども、小学校を五年ですませ、中学校を四年で修了することが許されていたため、最も若い高校新入生は一五歳だった。
 旧制高校では、インテレクチャリズム(知性主義)が横溢しており、寮生活のなか、知的な読書や議論を通じて、自らの教養を磨き上げることに重きが置かれていた。言い換えれば、「知的」であることが、高校生としての「格好良さ」の証だったのである。
 丹波篠山の民謡の歌詞に「デカンショデカンショで半年暮らす、あとの半年寝て暮らす」とあるが、デカンショ節の元歌は旧制一高の寮歌だったそうである。すなわち、デカンショとは、デカルト、カント、ショーペンハウエルの三人の哲学者の頭文字を並べたものである。
 学生は三年間の旧制高校を終えたのち、帝国大学の学部へと進学するのだが、旧制高校生の人数と旧帝国大学の学生数とのあいだには、ほとんど開きがなかったため、高校を卒業しさえすれば、間違いなく、どこかの帝国大学に入学することができた。入試の倍率が一を超える学部は数少なかったそうである。
 ともあれ、一九四九年の学制改革までの日本では、旧制高校で高い教養をはぐくむと同時に、自らの将来の進路について熟考する余裕が与えられていた。官僚を天職と心得る者は、無論、東京大学の法学部(倍率は五倍くらいだったそうである)を第一志望としたし、文学部や理学部(ほとんどが無試験だった)の志望者のほとんどが研究者を目指していた。なお、大学の在学期間は三年であった。

新制大学のはらむ矛盾

 ところが、戦後の学制改革により、六・三・三・四制となり、旧制の中学校の在学期間に当たる部分は六年に延長され、新制中学と新制高校に三年ずつが割り振られた。かつての旧制高校と大学の在学期間に当たる部分は、足して二を引いた四年を新制大学の在学期間とした。
 新制の学校制度は、ほぼアメリカの学制を真似たものではあるが、いわゆる「飛び級」を認めていないという点、そして大学入学時に専門を決める(東京大学のみが例外)という点で、アメリカの学制とは似て非なるものとなった。とはいえ、入学時に専門を決めたからといって、入学してすぐに専門科目を学ぶわけではなく、四年間を教養課程の二年と専門課程の二年に分けるという独特の方式が採用された。
 教養課程では、名目上、専門基礎科目と教養科目を履修するものとされていた。自然科学、社会科学、人文科学の科目群から、それぞれ三科目ずつ選択すること、そして第二外国語として独語、仏語、露語、中国語のいずれかを選択することが義務づけられていた。とはいえ、専門課程への進学の条件は「義務」を果たす(単位を取得する)ことのみであり、会社や官庁に就職する際にも、専門科目の成績は一応の参考とはされるものの、教養科目の成績はほとんど不問に付されることとなった。
 新制大学の教養課程は、旧制高校を大学に併合したものと理解されていた。だが、入学試験時に専門分野を「先決め」するからには、また、教養課程での成績が合・不合(単位の取得)のいかんのみに関わるからには、日本の大学の教養課程は旧制高校の代わりというには程遠く、もともと勉学のインセンティブを殺ぐ仕組みになっており、知性主義的色彩も次第に薄れていった。

文系と理系の入試の差異化

 その後、規制緩和の流れの一環として、教養課程で第二外国語を必修とする「規制」、また、自然科学、社会科学、人文科学のそれぞれから三科目を必修にするという「規制」も、いつの間にか緩和されてしまった。しかも、一九七九年の共通一次試験導入を画して、文系と理系とで、二次試験の入試科目が大きく差異化された。ある時期までは、理系・文系を問わず、理科二科目、社会科二科目が、そして国語、英語、数学I、II、IIIが入試の必須科目であった。しかし共通一次試験の導入以来、文系学部の二次試験科目からは理科が省かれ、理系の二次試験科目からは社会科が省かれるようになった。
 そうこうするうち、教育問題の専門家のあいだで、大学生の学力低下が話題とされるようになった。経済学者の西村和雄氏が、入試科目に数学が含まれていない私立大学の経済学部の学生に二次方程式を解かせてみたところ、解くことのできた(いわゆる「解の公式」を記憶していた)学生の比率は一〇%に満たなかったそうである。
 これを嘆かわしいことだと考えるか否かは、人によってまちまちである。無論「嘆かわしい限りのこと」だと考える西村氏は、文部科学省の「ゆとり教育」を痛烈に批判し、大学入試の科目を増やすことを提唱する。
 しかし、考えてみれば、どんな職業に就くにせよ、二次方程式の解を数値的に求める必要に遭遇する可能性はまず絶無といってよいだろう。私たちは、日常生活において、一次方程式はしょっちゅう解いている。一〇〇〇円で一個一二〇円のリンゴをいくつ買えるのかという一次方程式(正確には一次不等式)を、買い物のたびに解いている。しかし、少なくとも私自身は、日常生活において「解の公式」を使わないといけない場面に出くわしたことがないし、今後とも出くわすことはあるまい。

子どもの学力と大人の科学力

 日本の大学の特色の一つは、学部学生に、かなり高度な専門教育を授けるという点にある。そうしたことが可能な理由の一つは、高校での教育水準が高いことにある。日本の高校生の数学と理科の知識水準は、世界で一、二を争うほどの高いレベルにある。そのため、理系の学部の新入生は、いきなり高水準の専門教育を学ぶことができる。
 ところが、問題なのは次の点である。小中高校の理科の授業のレベルが高く、国際的にも学力が一、二を争うにもかかわらず、三〇歳前後の大人の科学力を比較した調査結果によると、OECD一五カ国中で日本は一四位(最下位はポルトガル)というありさまだったのだ。
 要するに、受験勉強で覚えた理科の知識は、高校を卒業してから一〇年もたつと、きれいさっぱり忘れ去られてしまうのである。というよりも、受験勉強用の理科の知識をいくら詰め込んでも、自然への関心や科学的思考はほとんど身につかないのである。もともと教育の目的は「知の涵養」にほかならない。にもかかわらず、せっかくの詰め込み教育が、大人になってからの知という果実に実らないのだとすれば、いったい何のための教育なのかと問われなければなるまい。

読解力の乏しい日本人

 国語の読解力の水準で見ると、日本は先進国のなかでは普通以下のレベルにある。基本的な読解力を高める教育がなされていないのだ。たとえば、私の著書から引用された一文が大学入試に出題されることがしばしばあるが、五者択一の設問などで、もっともらしい選択肢が複数個あり、著者である私にさえどれが正解かの見極めがつかない。たかだか二〇〇〇字程度の文章を読ませて、出題者の恣意的な解釈のもとにつくられたこんな問題をいくら解いてみても、読解力の訓練にはならない。中学生や高校生にもっと本を読ませることこそが、読解力を鍛えるための唯一無二の訓練法なのだ。
 その昔、私が高校生だったころには、大学進学率が一〇%にも満たなかった。女子は高卒か短大卒で十分とされ、そもそも大学を受験する女子は例外的でしかなかった。また男子生徒の半数は、家庭が貧困なため、大学進学をあきらめざるを得なかった。だから大学入試はやさしく、高校生が日本文学や世界文学を読むのは当たり前だった。マルクスやエンゲルスに挑戦する高校生もいた。大学の数学を独学でマスターする剛の者も少なくなかった。要するに、受験勉強に割く時間は少なくてすんだのである。
 入試問題に関していえば、英語も国語と同様である。アメリカ人ですら正解できないような英文法の問題を出題してみたり、単語力を試してみたりといった具合で、英語の長文を読み書きする基礎能力を試すような問題は少ない。いったい何パーセントの大学生が「ジャパンタイムズ」をすらすら読めるのだろうか。
 某有名国立大学法人の某研究科の大学院生に、英語で論文を書く訓練を施すために、研究費を使ってその分野の専門家ではない日本人の女性講師を雇っているとの話を聞き、私は開いた口がふさがらなかった。英語の論文を書く力は、英語の論文を数多く読みさえすれば、おのずと身につくはずである。このことは、有名大学の大学院生ですらが、英文の論文を読まなくなったことを物語って余りある。
 社会科においても、高校の日本史や世界史の授業は、人物、出来事、年代を記憶させることに終始し、歴史的思考や歴史的因果関係(法則)などをいっさい取り扱わない。また、長文の読解や作文、そしてディベートの訓練などは、小中高校はもとより、大学においてすら、ほとんど行われていない。大学受験のためには無益だからである。日本人の読解力や表現力の乏しさは、学校教育における訓練の欠如のせいだとしかいいようがあるまい。高校の理科の授業では、時間がもったいないという理由で、実験に時間をかけないようにするそうだ。「実験のない理科なんて」といぶかしく思うのは私のみではあるまい。
 高校での教育が大学受験という目的に徹しているがために、社会人にとっての必要な能力――ディベート力、読解力、論理的思考力、情報の収集力と分析力、自然環境への関心等々――を身につけさせるという、最も肝心なことがおざなりにされているのである。少子化で大学入試がやさしくなったのだから、その分、右に挙げたような「力」を身につけさせるよう、小中高校、そして大学での授業の力点を、受験力ではなく、本当の「力」を鍛えることに移行させるべきである。

◎――――連載

瞬間の贅沢 第9回

武田双雲

Takeda Souun
1975年熊本県生まれ。書道家。
http://www.fudemojiya.com/futaba-mori/souun.htm


書籍



大志を抱き
日々コツコツ。
すべてを大志で埋め尽くす。

◎――――編集後記

編集室より………

▼八月下旬の一〇日間、インド取材に行ってきました。南インドはデカン高原に位置する「バンガロール」という都市で、米国のシリコンバレーを猛追するIT・ソフトウェア産業の一大拠点です。
「バンガロールのおかげで、シリコンバレーには失業者があふれている」とすら評される成長力は、なるほど凄まじい。現地では二日に一社の割合で外資系のIT企業が進出。この一〇年間で人口は一〇倍の七〇〇万人を超え、交通渋滞は東京よりひどい有様です。
 裏を返せば、それだけ街には活気がある。取材したビジネスマン、政府関係者にも、将来の成長を疑わない自信が漲っている。日本がかつてくぐり抜けてきた「時代の空気」は、高度成長期に生まれ育った私にとって、どこか懐かしく羨ましくもありました。
 インドの急成長を目の当たりにすると、否応なく中国との比較を意識してしまいます。一〇年前に取材に訪れた上海にも、同じように「時代の空気」を強烈に感じたことを、昨日のことのように思い出します。しかし、中国人とのビジネスは一筋縄ではいかない。契約は守らないし、なにより根底には反日感情がある。かたやインドには歴とした民主主義が定着しており、日本が独立運動を支援した歴史もあって極めて友好的です。にも関わらず、インドにおける日本企業の存在感は薄い。盲目的に中国傾斜を深める「リスク」を痛感させられた取材行でした。
 ところで先日、週刊ダイヤモンド編集部からチャネルマーケティング部に異動となりました。入社してから一八年間、雑誌づくりしか知らなかった私にとって、営業の仕事はインドなんぞは問題にならない「活気」と「新たな発見」に満ちています。書店・販売会社の皆さま、今後、なにとぞよろしくお願いいたします。 (藤井)

お知らせ………

▼景気回復が著しいと、世間では言われていますが、多くの人が実感を伴っていないのではないでしょうか。それもそのはず、民間企業に勤める人の給与所得はこの7年連続減少しています。さらに、今後は定率減税の廃止、来年には消費税値上げが濃厚…と、どんどん手取り額が減っていく話ばかりが聞こえてきます。脅かしてしまいましたが、このような現実に立ち向かうには、いろいろなライフシーンでの「お金の仕組み」を知っていることがいちばん。そこで役立つのが弊社より発売中の「お金入門」別冊です。例えば、住宅購入で助成金のあるのは都内では港区や新宿区。病気の時は健康保険をフル活用すれば1カ月8万円内で済む、車の購入時には環境対応車で19万円の補助など。ほとんどの助成金などは自分で申請しないともらえません。ほかにも役立つ情報があるので、ぜひ書店で手にとってみてください。 (木村)

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