経2003年08月号
CONTENTS

川勝平太
球域の文明史

高橋潤二郎
「知」に対する新たなニーズ

林 望
我慢することの美学


エッセイ
渡辺 治 金森重樹 青木 淳 野嶋 剛 黒木 亮 北山 忍 久恒啓一

連 載
小室直樹 清水 博 妹尾堅一郎 宮台真司 高橋義夫 佐和隆光

書店人が選ぶ一冊

編集後記
◎――――エッセイ

高橋潤二郎

Takahashi Junjiro
一九三六年生まれ。慶應義塾大学名誉教授、アカデミーヒルズ理事長。専攻は計量地理学、地域政策。著書に『都市の研究』『知的キャンパスのプラニング』などがある。

「知」に対する新たなニーズ!

 社会人の「知」に対する欲求が変わりつつある。それを先導しているのは、大企業に所属するエリートではない。組織に縛られず、組織と対等な立場で仕事をする自由な個人たちが主役なのだ。
 こうした人々は、いわば、知識とスキルとセンスを武器にビジネス社会を生き抜くアーティストである。プロジェクト単位で仕事の契約をし、それが終われば次のプロジェクトへ移動する――アメリカで「フリーエージェント」と呼ばれるこうした人々は、日本でも今後ますます増えていくだろう。職種としては、デザイナーやIT関連のプログラマー、オペレーターなどが多い。
 この層は、自己投資することにきわめて前向きである。自分のキャリアアップにつながり、スキルやセンスが磨け、ジョブ・オポチュニティを得られるとなれば、かなり高額なサービスにも出費を惜しまない。それはもはや自己啓発などではなく、知や学びに対する「新たな生理的欲求」とさえ言い得るものだ。
 当然、こうした新たな知へのニーズに応えるには、それにふさわしい「場」を創ることが不可欠となる。
 従来、社会人が知を会得する場は企業内研修が主であった。それは教師が生徒を教え導く「教育」の枠内にあり、学ぶ側は受け身になりがちだった。
 だがこれではフリーエージェントたちのニーズには応えられない。彼(女)らが求めているのは「自学自修」さらには「互学互修」ともいうべき学びのスタイルである。自らの意思で学びつつ、同じマインドを持つ人々と交流して触発し合いたいのだ。
 そのためには学びの場の環境も重要となる。充実したライブラリー、ネットワーク化されたコンピュータ、快適なファシリティといった文化財、情報財、雰囲気財的なものも大切になる。
 インターネットをはじめとする各種メディアの発達で、知識だけなら自宅や職場で独学できる時代になった。だが、その知識を持ち寄ってシナジーを生み出すには、フェイス・トゥ・フェイスの場がどうしても欠かせない。
 私も関わっている六本木ヒルズ内の「アカデミーヒルズ」は、こうした学びの場を目指してスタートした。これを一つのモデルケースとして、知の交流の場が次々に生まれてくることを願っている。

◎――――エッセイ

林 望

Hayashi Nozomu
ケンブリッジ大学客員教授、東京芸術大学助教授を歴任。著書は『イギリスはおいしい』『「芸術力」の磨きかた』など多数ある。

我慢することの美学

 『戦場にかける橋』という映画で、ビルマ戦線に於て日本軍の捕虜となった英軍兵士たちが鉄道敷設に酷使されるなか、一人毅然として之に従わず、そのために炎天下の懲罰房に曝されたりして半死半生の目にあわされる部隊長の将校がいたのを御記憶であろうか。一見すると、部下が働かされているのに自分は働かないという彼の姿はちょっと冷酷なように見える。イギリスの将校は傲慢なものだというふうに思った人もあったかもしれない。しかし、これはそう見ては分らない。
 考えてみると、反抗して拷問せられるよりは寧ろ一時誇りを捨てて敵に隷従したほうがまだしも楽である。だから、この将校は決して安逸を貪らんとして労働使役に従わないのではない。いかなる苦難をも凌いで一個の指揮官たるの矜持を失わぬことを部下に示したのである。そうしてそれによって、苦痛にあえぐ兵士たちもまた、イギリス人としての誇りを失う勿れと身をもって諭したということである。いやしくも人の上に立つ者は、いかなる苦難をも忍んでイギリス人としての誇りを内外に示さなくてはならぬ。それがイギリス的愛国心なのであって、しばしば偉大な探検家や軍人を産みだした所以でもある。
 かかる「やせ我慢」の思想は、彼等イギリス人の、とくに上流の人たちに通有のもので、それが、世界中のどんなに気候や人気の悪いところにもイギリスの植民地を切り開かしめた原動力であった。
 しかし、そういう思想は一朝一夕には出来がたい。やはり子供のころからの訓練がものを言う。そこで、イギリスの上流の子弟の通う伝統ある学校はどこも規律が厳しく(古くは貴族や上流階級の家では学校などには行かず厳格な家庭教師が教育に当ったのだが)、生徒達にはすべてに優先して、まず忍耐と自助の精神がたたき込まれた。それこそは彼等が上流であることの証しで、忍耐できる人間であることのなかに大きな誇りがあったのである。今でもパブリックスクールなどでは、非常に粗末な食事を食わせ、複式学級による厳格な規律のなかで生徒たちを教育しているのだが、それはひとえにこうした我慢忍耐の禁欲的精神を養うためであると彼等は言う。半分負け惜しみのようなところもあるが、現実にそれはそのような機能を果たしてもいる。そう思って『戦場にかける橋』や『北京の55日』などを見ると、そこに描かれるイギリス紳士の姿に、また違った意味が読み取れるにちがいない。
 そして、この精神が我が国の政治家や行政官にもっとも欠けている資質であろうと、どうしたって思わずにはいられないのである。

◎――――エッセイ

渡辺 治

Watanabe Osamu
一九四七年生まれ。一橋大学大学院社会学研究科教授。戦後日本を「企業社会」の視覚からとらえた社会分析、九〇年代以降の日本社会の構造変化を解明した論考は、多くの読者の関心を集める。著書に『企業支配と国家』『「豊かな社会」日本の構造』『憲法改正の争点』など多数。

グローバリゼーションと有事法制

 今国会で有事法制が成立をみた。小泉首相は有事法制の必要性を「備えあれば憂いなし」、万一日本が攻撃されたときに対処するための法制を整備したものであると説明し、また論議も、それを前提として議論しているが、これは有事法制のねらいをミスリードするものである。
 もし有事法制がそうしたものとすれば、それが戦後六〇年近く制定されなかったどころか小泉政権になるまでただの一度も国会に上程されたことすらなかったことは説明がつかない。北朝鮮の脅威が騒がれているが、脅威という点ではソ連・中国と対峙した冷戦下のほうがいまよりはるかに攻撃を受ける脅威は強かった。北朝鮮も、拉致や不審船を横行させたのは冷戦期であった。冷戦が終結したいまになって有事法制を制定するのは、別個の要因があると考えるほうが自然である。
 では、なぜいま有事法制か? 背景には、アメリカ帝国の要請と日本企業のグローバリゼーションがある。まずアメリカの要請とは何か。冷戦後アメリカは、ソ連・東欧の崩壊、中国の資本主義市場への参入によって歴史上はじまって以来の広大な自由市場を手に入れた。しかも、そうしたグローバル市場の警察官はアメリカ一国となった。しかし、いかにアメリカでも一国だけで担うのは負担が大きすぎる。そこで、アメリカはNATOと日本に対して軍事分担を求めた。自由な市場の恩恵を被っているからノーとはいえないはずだというわけである。
 それだけではない。八〇年代末から急速な海外展開をはじめた日本企業にとっても、その安全と特権を守るための軍事的プレゼンスは切実な要請となった。ところが日本の自前の軍事大国化には大きな障害があった。憲法の存在、国民の強い平和意識、アジア諸国の警戒である。そうした障害をよけながら軍事的貢献をする方途として採用されたのが、新ガイドライン体制であった。これは米軍のグローバルな軍事行動を日本が全面的に後方支援するというものである。
 しかし、この体制には致命的な限界があった。それは、米軍が戦闘作戦行動をする際にもっとも欲しい日本の民間企業や自治体の支援を義務づける規定がなかったことである。日本の輸送や修理、補給能力を動員しなければ北朝鮮攻撃は戦えない。この動員を確保するのが有事法制である。つまり有事立法とは、グローバル化した巨大企業優先の世界秩序を維持拡大するために日本がアメリカに追随して戦争をする態勢作りのための法律であって、決して他国の侵略から日本を守るための法律ではない。それは、日本がアメリカに追随しつつ再び殴る側の大国になる道である。

◎――――連載1
球域の文明史

川勝平太

Kawakatsu Heita
一九四八年生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科修了。英国オックスフォード大学大学院博士課程修了後、早稲田大学政治経済学部教授を経て、国際日本文化研究センター教授。著書に『日本文明と近代西洋』『文明の海へ』『文明の海洋史観』など

グローバル&ローカルの比較経済史

近代文明とは何か?

 今号から始まる本連載では、「近代文明とは何か」について考察をめぐらしてみたい。その狙いは、近代文明の功罪に目配りしながら、それが抱える諸問題の由ってきたるところを解明し、特に日本の立場から、新しい文明の形成への道筋を探ることである。私の力量不足のために、テーマが大きいわりにささやかな試論の域を出ないであろうことを恐れているが、あらかじめご容赦願いたい。
 まず、なぜ「近代文明」なのか。二〇世紀は近代文明を「資本主義」論として論じるのが主流であった。西洋に出現した経済システムのことを、ウォーラーステインは「近代世界システム」と呼んだ。その名称は人口に膾炙(かいしゃ)している。「近代世界システム」のコンセプトには、資本主義という経済に限られた領域ではなく、資本主義を含めた全体像を把握しようとする姿勢がみられる。だが、ウォーラーステインが「近代世界システム」の名のもとに論じているのは、「資本主義的世界経済」である。彼は、近代世界システムを「文明」とも言い換えている。「近代文明」「近代世界システム」「資本主義」とはほとんど同義なのである。ここで、近代世界システムの語を用いずに、近代文明という普通名詞を用いるのは、「近代世界システム」論議に深入りしないためである。
 しかし、あえて資本主義論としないことには理由がある。「資本主義」はアンチテーゼとしての「社会主義」をどこかに意識せざるをえない用語である。だが、「資本主義対社会主義」というパラダイムそのものが色あせた。なぜ、色あせたのか。それは単に冷戦が終結したからではない。
 二〇世紀の日・米・欧の資本主義体制にもソ連・東欧の社会主義体制にも共通していた目的は、生産力を上げ大量生産を実現することであった。それは自ずから、大規模な技術を用いての自然への関与で環境を激変させるとともに、大量の廃棄物を撒き散らし公害を発生させた。その結果、二〇世紀末には両体制ともに、環境破壊という共通の深刻な問題を抱えることになった。「資本主義対社会主義」のパラダイムはいわば人間中心主義の立場である。そこに、従来の資本主義論ないし社会主義論の最大の陥穽(かんせい)があった。

従来の資本主義論の落とし穴

 環境問題がいかに多くの人々にとって切実な問題として意識されていたのかは、冷戦後の一九九二年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された国連環境開発会議の未曾有の大きさが示している。国連加盟国一七八カ国のうちなんと一七二カ国が代表を送り、一万七〇〇〇人もの参加者があった。二〇年前に同じ会議がストックホルムで開催されたときには、一三〇〇人の参加者であった。この数字も決して小さくはないが、さらのその一〇倍を超す人々が集まったところに、二〇年間で地球環境問題への意識がいかに強烈なものに育っていたかが分かるであろう。二〇世紀前半には国際連盟、二〇世紀半ばには国際連合が組織され、さまざまな国際会議が開催されたが、その規模において、リオ・デ・ジャネイロ会議は二〇世紀における最大の国際会議になったのである。それゆえ、この会議は今日では「地球サミット」の通称で知られている。これは、日本の首脳は参加しなかった(重要性に気づいていなかった)ことと併せて記憶されるべきことである。
 リオ・デ・ジャネイロの地球サミットは、人間社会を論じるのに「資本主義対社会主義」の時代が終わったこと、そして、地球全体を視野に入れた新しいパラダイムが必要とされていることを告げる会議でもあった。
 新しい時代を開くキー・コンセプトはもはや社会主義ではない。地球サミットでは、戦後の日本を特徴づけたような生産力を上げることを目的としてきた従来の「開発至上主義」に対して、「持続可能な発展」がスローガンとして掲げられた。これは、森林などの環境保全への意思表示である。実際、地球サミットの場で「環境と開発に関するリオ・デ・ジャネイロ宣言」「森林に関する原則声明」が採択され、また、地球温暖化防止条約、生物多様性条約が調印されたのである。これらの宣言・声明・条約の背景にある問題は、一九世紀に意識された資本主義の問題(貧富の格差)だけではない。資本主義は富をめぐる熾烈な競争によって貧富の格差をもたらす。それを克服するために社会主義という選択肢が提供されたのであり、社会主義によって分配の不平等を克服するというのが二〇世紀の最大の課題であったといえるだろう。

人間中心主義ではなく、地球的視野へ

 しかし、今日の問題は、もはや貧富の格差の次元にとどまらない。社会主義圏では失業者がいないという点で貧富の格差は克服したかに見えたが、権力の格差を解消できなかった。社会主義にはもはや未来を切り開く力はない。しかし、社会主義が克服しようとした資本主義が存続している以上、貧富の格差の問題は深刻である。それをも含め、人間社会のありかたを地球的視野のもとで改めて問い直す時代に入っている。
 「近代文明」については、もとより、さまざまな理解があり、その解明には各人各様の接近法がある。本連載では、私の専門である比較経済史から接近する。
 比較経済史といっても、ピンとこない人もいるだろう。自己紹介を兼ねて、簡単に専門歴を記しておきたい。私は早稲田大学政治経済学部で経済学(当時の用語では「マル経」「近経」)を自己流で修めた。自己流といったのは、決して気取りではない。当時は第二次安保闘争の最中であり、学生運動が吹き荒れてどの大学も学内は騒然とし、早大では校舎が学生に占拠されたり、学内が閉鎖されて入校できなかったりで、自学自修にならざるをえなかったのである。その後、同大学院経済学研究科で経済史を専攻し、学者という存在と初めて向き合った。日本経済史を正田健一郎教授に、西洋経済史を小松芳喬教授に、イギリスに留学してオックスフォード大学大学院の近代歴史学研究科でイギリス経済史をピーター・マサイアス教授に学んだ。教わった経済史は、西洋史的な時期区分でいうと「中世・近世・近代経済史」であるが、三人の学者の最大の関心はいずれも近代にあった。日本、西洋、イギリスの近代経済史を学ぶうちに、日本や西ヨーロッパ・アメリカに勃興した資本主義を理解するにはアジアの理解が不可欠であり、またアジアを理解するには西洋地域と日本の理解がこれまた不可欠であることを痛感するに至り、独自の領域としてアジア経済史という分野を開拓してきた。専門を「比較経済史」と称しているのはそのような学問歴による。

ローカルを知らずに、グローバルは語れない

 しかし、もう少し大胆にいうと「日本、西洋、アジアの諸地域を含む全体史(グローバル・ヒストリー)を視野に入れながら地域間の連関を探る以外に、日本と西ヨーロッパに近代文明が勃興してきた理由は解明できない」という考えをもっている。西洋であれ、日本であれ、アジアであれ、どの地域の歴史もグローバル・ヒストリーの一部だと考えている。グローバル(地球的)とローカル(地域的)とをあわせた「グローカル」という言葉が定着してきたので、その言葉を援用するならば、どの地域の研究も「グローカル・ヒストリー」でなければならない。学問としては「グローカロジー(Glocalogy )」でなければならないと考えるのである。「グローカロジー」は私の造語であるが、内容は字義のとおり「地球・地域学」、つづめて「球域学」である。球域(きゅういき)学としての比較経済史が私の立場である。このようになじみのない概念を並べると、かえって分かりにくいかもしれない。ともあれ、近代文明に接近する私の専門ないし立場が比較経済史であることを、あらかじめ断っておきたい。
 ところで、近代文明を論じるには、文明論的接近が正攻法であろう。日本には比較文明学会という組織があり、学会誌『比較文明』を発行したり(年一回)、外国の国際比較文明学会との交流もさかんである。近代文明を解明するには、地球的視野をもって、学際的・総合的に接近することが不可欠である。「学際的・総合的接近」とは近年の流行語である。新設の大学では名称に「総合」の二文字を入れるところが増えているほどだ。しかし、言うは易く、行うは難い。かりに経済史、政治史、社会史、文学史、美術史、自然科学史等々の専門家がそれぞれ近代文明についての歴史的理解を持ち寄っても、表面上は学際的だが、そう簡単に中身が有機的に総合されることはない。『比較文明』を通読しても、そもそも文明学とは学問として確立しているのかどうかさえ、怪しい。むしろ、学際的・総合的に現代の問題を解決するのに「文明」という総合性をもつテーマのもとに人々が集っているという事実にこそ関心を寄せるべきである。ちなみに、比較文明学会には、自然科学・社会科学・人文科学のすべての領域の専門家だけでなく、学者でない会員もいる。全体像を得たいという欲求は、もはや象牙の塔にこもった学者だけではなく、現実からの要請なのである。

地球的視野で人間社会を問う

 ともあれ、共同研究が必要であることは多くの学者に共通する認識である。日本の研究機関において、分野の異なる学者が共通のテーマをめぐって共同研究をする研究法が芽生えたのは京都大学の人文科学研究所であった。桑原武夫氏のリーダーシップのもとで同研究所の伝統にまで成長した。現在では、多くの大学や研究所で共同研究が取り入れられている。私の勤務する国際日本文化研究センターでは、すべての教授は共同研究を組織することが義務づけられている。とはいえ、統一性のある学際的・総合的接近はきわめて困難である。学際的・総合的研究とは、結局はひとりの人間が自らの専門を踏まえて、他の領域に目配りしながら行う以外にない、というのが目下の考えである。
 その自覚のもとに、グローカロジー(球域学)としての比較経済史を通して、近代文明の解明をしていきたい。これが私の立場である。これは社会科学批判につながるものであるが、それはなぜか、次号で説明したい。

◎――――連載22
小室直樹の経済思想ゼミナール

小室直樹

Komuro Naoki
1932年生まれ。京大理学部卒、阪大、東大院修了。ハーバード大、MIT、ミシガン大各大学院へ留学。著書に『ソビエト帝国の崩壊』など多数。


大塚久雄

Hisao Otsuka(1907〜1996 )

京都生まれ。東京大学教授、国際基督教大学教授。西洋経済史において「大塚史学」と呼ばれる独自の理論を築き、大きな影響を与えた。著書に『株式会社発生史論』『社会科学の方法』『社会科学における人間』『大塚久雄著作集』などがある。

ヴェーバーと資本主義の解明に人生をかける

「誤解の歴史」だったヴェーバー理論

 前回の経済思想ゼミナールでは高田保馬博士を取り上げた。経済学に勢力論を導入するなど数々の功績を遺しているが、やはり最大の業績は、ワルラス、ジェヴォンズ、メンガー、パレート、ヴィクセル、ベーム―バヴェルク等々、近代経済学の元祖ともいうべき学者たちの理論・学説を正しく読み解き、日本に近代経済学研究の礎を築いた点にある。
 だが晩年の高田博士は、こう告白している。「私には、どうしても学説が理解しきれない学者が二人いる。一人はケインズであり、もう一人はマックス・ヴェーバーである」
 ケインズ理論については、弟子の森嶋通夫教授が刻苦勉励して解明を果たした。その成果とケインズ解釈の真髄は著書『思想としての近代経済学』(岩波新書)にまとめられている通り。曰く、ケインズ理論のエッセンスは、それまで古典派が理論の前提としていた「セイの法則」を根本から否定したところにある――。難解を極め、そのため周囲の反感を買いもしたケインズ理論だが、森嶋教授やヒックス、サムエルソン、クラインらの努力によって、今では入門の徒にも理解できるほどわかりやすく、行き届いた解説の書が数々出版されている。
 ケインズの理論や主張は、偉い学者が寄り集って研究すれば何とか解説できた。が、ヴェーバーのほうはそうはいかない。どちらも天才であることは間違いないが、ヴェーバーの才はケインズのそれとは桁が違う。ケインズは「経済学」の天才だが、ヴェーバーは経済学のみならず、法学、政治学、社会学など社会科学全般のウルトラ大天才。その上、音楽社会学まで開発した。高田博士が「一生かかっても理解しきれない」と嘆いたのも無理はない。
 ヴェーバー解釈の歴史は「誤解の歴史」とも言われる。彼は生前から高く評価され、多くの人がヴェーバーの論著に触れた。だがヴェーバーの分析眼はあまりにも鋭く、深く、緻密で、そこから構築された壮大な理論を解読し、その真意と真価とを正しく評することができた人はいなかった。
 ウルトラ大天才は時として世人との煩雑さを避け、精神のバランスを保つために、精神病院で療養生活を送ることにしたが、そうした直後に書かれた論文が凄い。主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)もその一つ。大天才のマグマが絶頂に達したところから生まれた論著が、人々の理解を遥かに超えたものであったとしても何の不思議もない。累々たる挫折と誤解釈を築いた末、ようやくにしてその真意が正しく、かつ誰にでも理解できる形で解説されたのはヴェーバーがこの世を去った後であった。

ヴェーバーを理解した二人の学者

 ヴェーバーの論著を徹底的に読み抜き、その真価に光をあてたのはアメリカではタルコット・パーソンズ(一九〇二〜一九七九年)、日本では大塚久雄博士(一九〇七〜一九九六年)である。
 パーソンズと言えば、戦後のアメリカを代表する大社会学者。彼が来日した際に訪ねたのは東大の富永健一教授――当時の日本における社会学の第一人者であった。パーソンズの著書を訳して日本に紹介した実績もある富永博士だが、この時ばかりは「日本にはパーソンズに匹敵するような社会学者がいない。いったい、誰に会わせたらいいのか……」と弱り果てておられた。その時、私が推薦したのが経済社会学者の大塚久雄博士と、法社会学の権威・川島武宜博士である。この三者対談は予想通りの大成功。驚くほど話が弾み、三人とも満足して帰っていかれた。
 専門分野は違っても、パーソンズと大塚博士には「ヴェーバー」という共通言語があった。パーソンズが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の英訳を刊行したのは一九三〇年。その一年前に大塚博士も同書の和訳を出している(この時は梶山力氏との共訳となっているが、その後改訳と解説を加えて一九八九年に大塚訳として出版されている)。
 大塚博士はパーソンズの才能と業績を高く評価しているが、同時に対抗心もあったと見える。曰く、『プロテスタンティズム……』を正しく英訳し、英語圏に初めてヴェーバーを紹介したのはパーソンズの大きな業績の一つだが、彼は“本文”しか訳していない。私(大塚博士自身)は本文のみならず、脚注の一つひとつに至るまですべて訳した――と。
 実際のところ、ヴェーバーを根本から理解し、本文を正しく訳出するだけでも大変な業績であるが、大塚版は注釈に至るまで、もれなく完璧に訳している。巻末に付録された解説において博士自身も語っている通り、大天才ヴェーバーの論文――とくに『プロテスタンティズム……』には無数の注が添えられ、「本文と注といったいどちらが多いのか、ちょっと見当がつかない」ほど。これをすべて訳し尽くしたのは、そこにヴェーバー理解の重要なヒントが散りばめられているからである。
 もちろん、大塚博士は単にパーソンズを批判しただけではない。パーソンズは同じ単語を訳すにしても、その文脈とヴェーバーの意図に照らして、あえて異なる訳語をあてている。ヴェーバーは奔放自在に文章を書くから、同じ言葉を使っていても、実は使われる場所によって意味が異なるのだ。
 言葉の用法のみならず、ヴェーバーの論文は論理の組み立てや構成も独特である。例えば「資本主義」の何たるかを論じるにあたって、最初に「資本主義」の定義を述べない。多くのものを含蓄する複雑な用語や概念は、当然ながら登場する場面や文脈によって違う意味と機能を持つから、何も知らない人にいきなり定義などを語っても仕方がない。だからヴェーバーは、すべての講釈を終えた後に定義を下す、というスタイルで論を展開している。
 その意を汲んで的確に訳し分けたパーソンズも偉いが、それに気づいた大塚博士も偉い。今、我々がヴェーバーの偉業と学説を学ぶことができるのは、偏に大塚博士の才と努力のおかげ――といっても過言ではなかろう。

誰にでもわかる著作集を

 大塚博士の業績はヴェーバーを根本から理解し、徹底解説したところにある。博士の論著は『大塚久雄著作集』(全一三巻。一九六九〜一九八六年刊。岩波書店)にまとめられているので、今もその大業績を辿り、研究の成果を体系的に学ぶことができる。
 しかも、この全集を編む際、博士自らそのすべてを読み直し、全文にわたって書き直しを施している。何のために書き直すのかと聞くと、師は「誰が読んでもわかるように書き直している」と答えた。とてつもなく難しいテーマ・問題を論じつつ、難しいなりに誰でもわかるよう著されていることは特筆に値する。
 この全集には本人の相当な思い入れと自信があり、博士は生前「(この著作集は)私が後世に遺すすべてである。蔵書の類は売り払ってしまってもよろしい」とまで語っていた。普通の学者は自分が集めた本や資料などを自慢するものだが、「そんなものはどうでもいい」と。
 大塚博士のおかげで日本にもヴェーバー研究の道が拓かれたというのに、博士の遺志を継いでヴェーバーを全面的に研究する人がいないのはいかにも残念である。あまりにも壮大かつ難解であるがゆえに序の口を齧っただけで腰がひけてしまうこともあるだろうが、大塚博士が著した“誰にでもわかる”解説書があるから、それですべて理解できた気になってしまうのかもしれない。
 確かにヴェーバーの遺産は膨大であり、ケインズやマルクスを含め、他の学者とはスケールがまるで違う。ケインズ経済学、マルクス経済学とは言うが、ヴェーバーの場合は経済学のみならず、宗教社会学、法社会学や政治社会学においても画期的な業績を遺し、特に官僚論における洞察の深さ、鋭さは格別である。
 だが、その根底にあるもの――膨大な業績のエッセンスは「経済社会学」と「宗教社会学」に集約されている。マルクスとの比較で見るとわかりやすい。どちらも政治、経済、社会の有様など社会諸現象の相互連関について論じているが、マルクスがその根本に据えたのは「経済」構造。経済によって、その他の上部構造はすべて規定される――としたマルクスに対し、ヴェーバーは社会の基礎・根本に「経済」と「宗教」の存在を見いだし、ここから社会構造の本質に深く切り込んでいった。
 ヴェーバーの関心事の一つは、近代資本主義はいかにして生まれたか、というところにある。宗教社会学における大業績も、資本主義発生の究極的条件を解明する道筋の一つ。資本主義らしきもの(ヽヽ)(前期的資本)は古今東西至る所に存在したが、真の資本主義は世界の長い歴史の中でただ一度しか発生していない――このことを発見し、その背景に宗教があることを指摘したのがヴェーバーの業績の一つである。経済学の研究対象は「近代資本主義」以降の経済に限定されるが、そもそも資本主義とはいかなるもので、どこからいかにして発生したのかという本質的な問いを取り上げ、これに答え得た人は誰もいなかった。

卓越した歴史能力

 ヴェーバーの研究・分析は徹底を極めた。古代エジプト、アッシリア、ヘレニズム。古代ローマ、古代インドに古代中国。サラセン諸国、中世イタリア、中世南ドイツ――等々。大塚久雄博士がヴェーバーを理解できたのは、一つには博士自身が猛烈な歴史好きだったからであろう。
 大塚博士は歴史家としても大変な才能を持っていた。博士はかつて私に、小学校に入る前の幼少時代の愛読書は『通俗二十二史略』だったと言われた。ちなみに、夏代から宋代までの中国十八史に元、明、清の三代を加え、唐代を新旧二史に分けて詳述したのが『通俗二十二史略』。この膨大で大変難しい史書が面白くて仕方がなく、全部読み上げて大概のことは一度で頭に入ったというからすごい。このあたりはヴェーバーとよく似ている。
 通常、歴史が好きな人は数学が苦手(あるいは大嫌い)であることが多いが、大塚博士は数学が好きで、理論的思考にも長けていた。そんな博士がヴェーバーの発見と思想をどのように読み解いたかについては、次号で詳述することにしよう。

◎――――エッセイ

金森重樹

Kanamori Shigeki
金森合同法務事務所所長。一九七〇年生まれ。東大法学部卒。元サラ金取立てナンバーワンの弟・信二郎の特定調停の活動に賛同、特定調停連絡協議会(http://www.tokuchou.jp/)を立ち上げ、多重債務者の相談に応じている。弟と共著で『元サラ金取立てナンバーワンが書いた 自己破産せずに借金を返す法』を出版。

「自己破産二一万人超」のウラにあるもの

 サラ金各社は自己破産の急増により経営に影響が出るほど貸し倒れ処理費用が増加しています。二〇〇三年三月期連結決算では、消費者金融大手四社のうち、連結子会社の業績が好調だったアイフルを除いた、アコム、武富士、プロミスの三社が減益となっています。
 自己破産の増加の要因としては、もちろんリストラや賃金カット、倒産などの経済的な要因が一番の背景にあることは間違いありません。しかし自己破産急増の隠された理由には、実は弁護士が安易に自己破産を勧めすぎたということもあります。
 もともと、法曹界には競争原理というものがありませんでした。商売の世界で報酬が一律で、お客さんの依頼を断ってもいいというのはこの業界くらいでしょう。つい最近まで、広告自体が禁止されていたくらいです。
 後述する「特定調停」という多重債務者を安価で救済する新しい制度ができても、自己破産・任意整理のほうが儲かるからという理由で、特定調停についてはこれまで弁護士によるPRはあまりされてきませんでした。自己破産しないで済むケースでも自己破産を勧めるケースもありました。債務者が特定調停を自分でするようになると、自分たちが儲からないからです。
 この特定調停は平成一二年にできたばかりの新しい制度ですが、簡単に言えば、裁判所が弁護士などの法律家に代わって債権者との話し合いの場を設けて債務整理をしてくれる制度で、一社あたり七〇〇円もあれば債務整理が可能です。ところが、同じ作業を任意整理(裁判所を通さずに弁護士が債権者と交渉すること)にすると、大体一社あたり四万円かかります。一〇社あれば、四〇万円ですね。また、自己破産は弁護士が債権者と交渉する必要がなく、書類作成だけで四〇万円〜五〇万円程度の報酬をとることが可能です。
 ですから、弁護士が、特定調停より儲かる任意整理や自己破産をやりたいというのは致し方ない面もあります。
 しかし、規制緩和の流れの中で独り法曹会のみが価格破壊の流れから無縁であるということはもはや不可能になってきています。そこで、一般の方にも簡単に利用できる特定調停について広く知っていただくために、弟と共著で『元サラ金取立てナンバーワンが書いた 自己破産せずに借金を返す法』を執筆致しました。サラ金の内情を熟知している元取立屋の弟と、債務者を法的に守るノウハウを持つ私がタッグを組み、スグに役立つアドバイスを書きました。ぜひ、ご一読ください。

◎――――連載8
共存在社会とその原理

清水博

Shimizu Hiroshi
一九三二年生まれ。東京大学名誉教授、金沢工業大学「場の研究所」所長。
著書に『生命を捉えなおす』(中公新書)、『生命と場所』(NTT出版)など多数。

知の捻(ねじ)れ
――「主語的な知」と「述語的な知」の捻れ

 現在、文明のあり方が近代文明から地球文明へ大きく転換しようとしている。そうしたなか、人間の知のはたらきに明確な矛盾が現れてきた。それが今回説明する「知の捻(ねじ)れ」現象である。
 人間の知のはたらきに捻れが起きると、知的活動のエネルギーに矛盾が生じて散逸してしまう。そのため知のはたらきが先に進まなくなる。この捻れを克服できた活動しか、閉塞状態から抜け出すことはできないのである。
 では知の捻れとはどのような現象なのか。それは人間の「主語的な知」のはたらきと「述語的な知」のはたらきが捻れて両者がつながらなくなる状態を指す。
 主語的な知とは、学んで獲得される知のことで、名詞、制度、構造、シンボルといった形で受け入れた知識や概念に従い、情報に意味を付けて記憶したりハウツー的に操作したりするものだ。例えば「善いか悪いか」「美しいか汚いか」「得をするか損をするか」というように人間の行為を二項対立的概念に従って評価し、自己の行為に概念的な意味を付ける。また、さまざまな社会の出来事を概念的に理解するはたらきも持っている。主語的な知のはたらきの代表格が科学技術である。コンピュータのはたらきを1と0のシンボルで表現するのも主語的な知のはたらきによる。
 これに対して述語的な知は人間が学ばずして持っている知を指す。人が「在るために」に備えている知であり、意志や努力によってはたらきを鋭くすることはできても、持ったり捨てたりすることはできない。陽明学の核心は「致良知」すなわち「良知を致す」ことだが、良知とは孟子によれば「人の生まれながらにしてそなえた知能。考えなくてもわかる心の先天的なはたらき」(『広辞苑』より)であり、まさに述語的な知と同義である。芸術家や哲学者の創造的な直感力、ユング心理学の集団的無意識、仏教でいう仏性なども述語的な知のはたらきに含められよう。
 私は、述語的な知のはたらきの本質は「生命」だと考えている。そして述語的な知の代表は、人間の宗教心(自己の存在とは何かを知ろうとする心のはたらき)だと思う。それを強めることで自己が世界に在ることへの驚きと、さらに生き甲斐ある人生を送ることへの強い願望が生まれてくるのだ。
 主語的な知と述語的な知は本質的に異なるものだが、それぞれが勝手にはたらくわけではない。そうなれば人間は一つの人格を保てなくなり身心が分裂してしまう。二つの知がどのような関係のもとではたらくかは、人間の知の仕組みを知るうえで非常に重要なことだ。しかしこれに関しては、誰もが認める定説があるわけではない。心理学や精神医学のような科学的方法は主語的な知によってつくられているので、述語的な知のはたらきを解明する力を持っていない。
 したがってこの問題に対するアプローチは、現状では哲学的(形而上学的)なものにとどまっている。ここでは、現実生活という生臭い問題に応用するためにも、私の考える「場の理論」を紹介したい。この理論は、共存在の場における関係とはたらきの創出を即興劇をイメージして考えるため「即興劇の理論」とも呼ばれる。

即興劇の理論

 かつて高度成長が始まる頃までの日本には村というコミュニティ(共存在の場)があり、そこでは人々が身体を使って働いていた。例えば、薗部澄の『失われた日本の風景』(河出書房新社)の写真などを見るとそれがわかる。こうした身体のはたらきとそれによって生まれた共存在の場とのあいだには、現在の情報化社会から失われてしまった何物かがある。私はこの喪失が人間の生命を損なうことになるという危機感すら持っている。それゆえ「共存在の場と身体のはたらき」に注目してきた。
 かつて私は、九州大学理学部教授として新しい講座を開く機会を与えられた。昭和四五年、まだ鉄道には最終期のSLが走り、村というコミュニティが完全には消えていない頃のことである。当時の私は「生きている状態」の解明を研究目的に掲げていたが、生物や人間に共通するこの普遍的な性質をどう解明するかが大きな問題であった。私自身は不安定性からの秩序生成が生命の本質だと直感して研究を進めようとしたが、当時このような考えをする人はほとんどいなかったため、さまざまな困難に遭遇した。
 そんなとき「理想生物」を念頭において生命を研究することの意義を湯川秀樹が説いていることを知った。それは、理想気体という存在しない気体の性質を理論的に研究したことが実在気体の熱力学的性質の発見を進めたように、理想生物の研究を理論的に進めることが生命の科学的解明に寄与するだろう、というものだった。私の考えはこの考えに共鳴するものであった。その後私が進めてきた、場と人間の生活の関係を「即興劇」として考える方法も、「理想モデル」を用いた場へのアプローチといえる。
 では即興劇理論の考え方を簡単に説明しよう。生活世界における人間や各種生物の生活を一般的(論理的)に表すと、それは場に集まった多数の役者が演じる即興劇と同じ型を持つと考えられる。これが生活を即興劇として理想化することの根拠である。もしも「生活という即興劇」が「ドラマが継続的に進行できる条件」(ドラマの進行条件)を満たせば、人間や生物はそれぞれの生活スタイルを維持しながら全体として発展的に生きていけることになる。国や会社がうまく経営されるのも、幸せな家庭生活が送れるのも、ドラマの進行条件が満たされていればこそである。
 それでは「ドラマの進行条件」とはどのようなものか。即興劇には、もともと与えられたシナリオはない。そこで役者自身が演技直前にシナリオをつくりながらドラマを続けることが必要になる。演技は目に見える明在的な自己表現だが、シナリオをつくる「事前の知」のはたらきがなければそれは実行できない。新しい活動に必要な新しいプランをつくるはたらきを直感的な創造の領域まで広げたものが、この事前の知である。
 ここから重要な結論が得られる。それは、事前の知がはたらかなければ生活を「即興劇」として柔軟に創出できない、ということだ。そうなると、新しい出来事を避け、機械のように型にはまった生活しかできなくなる。
 例えば、ロボットには事前の知のはたらきがなく、したがって即興劇ができない。ニュースなどを見ると、ロボットには人間同様の(場合によっては人間以上の)知能があるかのごとく紹介され、政府が説く「IT技術の重要性」の宣伝にも一役買っている。だが、実際は事前の知を持つ人間のほうがロボットに合わせた「即興劇」を無意識裡に演じ、その結果、ロボットに知能があるように見えてしまうのだ。

即興劇を進行させる条件

 次に即興劇論理の構造について説明しよう。何人かが一緒に即興劇をしようとすれば、参加者は「我々」の関係になって以心伝心の状態になる必要がある。疑心暗鬼の状態にある人々では一緒に即興劇はできない。そして、人と人の関係を「我々」に深めるには、どうしても述語的な知のはたらきが必要となる。
 主語的な知は人と人のあいだに差異のある関係をつくり出し、述語的な知は人と人の関係を深めて一つに統合するようにはたらく。そこで即興劇においては、まず述語的な知がはたらいて人々の気持ちをまとめ、次に主語的な知がはたらいて各自の役割を分担することが必要になる。この順序が逆になると、一緒に即興劇を実行することはできないのだ。また、述語的な知のはたらきを共有するためには、人々が基本的に対等な存在になることが重要である。権力者が組織をとり仕切ったり、参加者個々の縄張り意識が強かったりすると、知のはたらきに順序の逆転が起き、組織は即興性(生命力)を失って硬直化してしまう。
 人々が一緒に即興劇を始めるためには、参加者全員が互いの存在を認めあって状況的感情を共有しなければならない。そのために、まずは述語的な知を共有できる「出会いの場」が必要となる。ここで「場の共感(パトス)」が生まれることになる。場の共感(パトス)のはたらきの下でドラマの目的(進行方向)が共有されれば「出会いの精神」とでも言うべきものが生じ、関係者個々が目的に位置づけられた役割を実行する使命感を持つようになる。つまり、関係者が出会いの場という空間を共有し、その場において互いのあいだの間づくりをすることになるのだ。
 なぜ生活の型が即興劇と同じ型になるのだろうか。それは、人間が関係的動物だからである。互いのあいだにつくる関係に従って自己の対人感情が無意識のうちに変わる。このことが「劇」の上での役割をつくるのだ。関係者たちのあいだの関係は、出会いの場でそれぞれのあいだにつくられる間(ま)によって決まる。間(ま)に応じて相手ばかりではなく自己自身も変わる。そして間(ま)を認め合うことで、全体におけるそれぞれの役割を互いに認め合うのである。この間(ま)づくりは出会いの場に人々が集うことから生じる身体のはたらき(述語的な知のはたらき)によって起きるものである。
 これに対し、例えばインターネットは主語的な知のはたらきだけを伝える。そのため互いのあいだの間(ま)づくりができず、相手を変えようとするばかりで自己が変わることはない。つまりインターネットは「出会いの場」にはなりえないのである。
 出会いの場における間(ま)づくりが終わると、いよいよ舞台(創出の現場)の幕が上がる。これは自己の身体を使って演技をする実在の世界であり、関係者はそれぞれの役割を自覚して演技を創出していく。この創出では、出会いの場で形成された空間的関係が役者の身体のはたらきを通じて次々と表現されていく。先行する表現の創出によって舞台の状況が変化し、その影響を受けながら次の表現が行なわれる。こうして身心の内部の共時的関係が外部の継時的関係へと姿を変えていくのである。
 現実の舞台(現場)にはさまざまな出来事が現れるから、その状況変化に応じた表現を各自が創出しなければならない。したがってパトスのはたらきに加えてロゴス(論理)のはたらきも必要になる。
 そして一つの場面が終わって劇の幕間が訪れると、次には「事後の知」の出番となる。事後の知は、即興劇の結果を自己評価し反省するものだ。そしてその反省を次の事前の知に活用するのである。事後の知は、創出の結果を見てその原因を推定する主語的な知であり、結果から原因の連鎖を過去に向かってたどっていく。これは、現場から離れた主客分離の観点から現場を見る「認識と推論」という方法によって行なわれる。
 一般に、事前の知、演技の創出、事後の知、そしてまた事前の知と循環することが即興劇の継続的な進行条件である。経済活動を即興劇と見るならば、経済が継続的に発展する条件がこれにあたる。事前の知がはたらくのが「未来を思う場」、事後の知がはたらくのが「過去を振り返る場」、そしてその中間でドラマをつくるのが「現在の場」である。
 現在の場では、「消えてしまいたい」とか「穴があったら入りたい」という言葉があるように、人は自分自身の身体をどう取り扱うかという存在論的な立場に置かれる。これに対して過去を振り返る場では、存在の現場から離れた高いところ(認識の観点)から現場を見ている。現場の出来事を一つの評価軸の上に数値化して眺める行為は認識論の特徴である。
 弱者はほとんど常に存在論の立場に身を置いて、よりよく在りたいと願っているが、強者はほとんど常に認識論の立場から弱者を見ながら、より多くを持つことを考えている。この相違が、例えばイラク戦争におけるイラク民衆と多くのアメリカ人のあいだにあるような意識の捻(ねじ)れを生む。ドラマを出会いの場における弱者の立場からではなく、強者の立場における二項対立的観点から始めてしまえば、当然ドラマの進行に逆行することになり、進行条件は成り立たない。この現象こそが「知の捻(ねじ)れ」なのである。
 日本社会では官僚組織が強者の立場に立ち、弱者としての国民を見ている。さらに、この官僚組織を補強する立場に立つ政治家がおり、この強者に群がるご用学者がいる。こうして官と民とのあいだに深刻な知の捻れが生じている。
 なぜこのようなことになったのか。それはブッシュ米大統領が国連のはたらきを無視したように、日本人が出会いの場のはたらきを無駄と考える強者の価値観に縛られているからである。

◎――――連載8
知的技術本の古典を読む
『発想法』川喜田二郎(2)

妹尾堅一郎

Senoh Kenichiro
東京大学先端科学技術研究センター特任教授(知識創造マネジメント、知財ビジネス専門職育成ユニットプロジェクトリーダー)。研究領域は問題学・リスク論、コンセプトワーク論、ヴィジョン論、社会探索法他。著書に『考える力をつけるための「読む」技術』『研究計画書の考え方』など。



データを意味づけていく
〜学習を進展させ、情報を生成させるプロセス〜

川喜田二郎(かわきた・じろう)
1920年三重県生まれ、理学博士。1943年、京都大学文学部地理学科卒業。大阪市立大学助教授、東京工業大学教授、筑波大学教授を経て、現在、KJ法本部川喜田研究所名誉顧問。1978年に秩父宮記念学術賞、マグサイサイ賞、経営技術開発賞受賞。「川喜田二郎著作集」(全13巻 別巻1)がある。

 一九六〇年代後半から七〇年代にかけて『発想法』で世に広まったKJ法はブームとなった。しかし、多くの賛同と共に、様々な誤解もまた生みだした。川喜田の意図したKJ法の本質とは何だろうか。
 私は、八〇年代後半に専門であるソフトシステムズ方法論(SSM)を研究しているときに、KJ法が“探索学習型”の方法論であり、それは“情報生成”を行なう仕掛けとして極めて優れていることに気づいた。そこで、今回は(狭義の)KJ法のステップを紹介しつつ、その意味について“学習と情報生成”の観点から考察することにしよう。

第一ステップ「ラベルづくり」

 KJ法には、狭義のKJ法(通常KJ法と呼ばれるもの)と広義のKJ法(さらに六ラウンドの蓄積を行なう)がある。狭義のKJ法(第一ラウンド)は、通常四つのステップから構成されている。

@ラベルづくり
A(ラベルの)グループ編成
B(A型)図解化
C(B型)叙述化(口頭/文章による表現)

 まず最初の「ラベルづくり」とは、“事実に関するデータ”を「ラベル」(六センチ程度の小さな紙片)に表現するステップである。ここで“データ”は必ずしも“事実”だけではない。現場を観察し、表現したものに加え、自分の関心、問題意識、意見といったものも記入していく。前者としてデータを求めることを「内部探検」、後者の場合を「外部探検」と川喜田は呼んでいる。「……『必要と思われる』事実報告や見解などを、できるだけ吐きだし、共同の財産として集積する」(p.67 )のである。このときは、ブレーンストーミングのように、言いたいこと、加えたいことを遠慮なくラベルに書けばよい。
 このラベルづくりでは、その行為自体に、自ずと学習効果が生じる効果がある。それは、(特に定性的な)データを集めるとき「客観的」であろうとすればするほど、実は自らの「客観性」を再検討せざるをえない、という点から生じる。まず、「関連する」「必要と思われる」データは、人の立場や関心によって異なるはずである。また、ある状況を表現するということは、ある観点(したがってある価値観)に基づいて叙述することに他ならない。計量的なデータでさえ、その選択と記述には何らかの価値観が反映されているものだ。ましてや定性的データは、純粋客観を標榜できない。そして、ラベルに記入されたものは、それを読む解釈者によって異なる意味を持つかもしれない。
 ここで、情報というものを“データ+意味”、つまり情報とはデータを意味づけたものとするならば、ラベルを作成するという行為自体が、実は情報生成を行なっていると言えるのである。

第二ステップ「ラベルのグループ編成」

 ここでは記入したラベルを集め、それをグルーピングしていく。集まった多くのラベルの中で、お互いに何か関連がありそうなもの同士をグループに編成する。二点の注意がいる。第一は、どのグループにも入らない「離れザル」は、そのこと自体に意味があるので、無理してグループに入れない、ということだ。グルーピングを続けているうちに、どこか上位の段階でグループに入るかもしれない。
 第二は、「大分け」(既に頭にある基準に沿ってラベルを分けていく)ことは絶対にしてはならない、という点である。必ず「小分け」から次第に大きなグループへ編成するべきなのだ。大分けをするということは、頭の中にある原理をもとに「……そのできあいのワクの中にたんに紙きれの資料をふるい分けて、はめこんでいるにすぎないのである(p.78 )」。
 つまり、KJ法とは、データを既存の枠組みで“分類”することではない。そうではなくて、データの親和性を基に、新たな分類軸を発見することなのである。この点は、非常に重要なので追って議論したい。
 もう一つ重要なことは「……『なぜ自分はここに五枚の紙片を集めたのか』ということを理性的に反問する」(p.74 )ことだ。そして「この五枚の内容を、一行見出しに圧縮して表現するとすれば、どういうことになるか」(p.75 )を検討するのである。具体的には、ラベルの集合に「表札」をつける。数枚のラベルの中身を要約するとどうなるか、できるだけ手短な言葉で表現できないか。表札を作ると、なぜ自分(達)はこれらのラベルを「親近感」があると感じたかが明確になるのである。
 さて、個人で行なうにせよ、チームで行なうにせよ、ここでは、二つの学習を通じて情報生成が行なわれる。
 第一、あるラベルを解釈し、他のラベルとグループ化するとき、それらの間にどのような親和性を見出すかがグループ化の基本である。これは前述したようにラベルの“分類”ではない。分類とは、既存の枠組みの中に配置することだ。よくKJ法の初心者がラベルを分類してしまうことがあるが、それはKJ法ではない。ラベルのグループ化とは、ラベル同士の親和性によって結びつけることである。正確には、ラベルに表現されたことに親和性があると解釈することによって違うラベルを結びつけることである。つまり、“創発性”を見出すことに他ならない(ただし、この場合、創発性は我々の解釈の表現であって、ラベルに内在する性質ではないことに注意しなければならない)。いずれにせよラベルの意味づけによって、情報生成が行なわれるのである。
 第二、特に何人かのチームでKJ法を使用する場合は、他人のラベルを読むことによって、状況に関する学習が進む。つまり、ラベルの表現を読むことを通じて、状況に関する他の解釈を学ぶことになるのである。議論をしながらグルーピングを進め、表札を作れば、同じラベルについて異なる解釈が可能である点を学べるわけだ。そして、新たな解釈の共有化ができる。このように解釈=データへの意味づけ=情報生成が進展するのである。

第三ステップ「(A型)図解化」

 このステップでは、ラベルのグループを、さらに大きなグループに編成しつつ、それらを空間配置するプロセス、つまり図解化していくステップである。これはグループ編成のときにはまだ判っていない“ラベルの関係性”を発見する段階であると言える。図解のメリットは「ひと目で全体構造がわかること」(p.86 )だ。そして、配置をすれば「これが落ち着きのよい理解のしかたである」(p.82 )ことが確認できる。
「落ち着き」があるとは、ラベルグループの説明が納得する形で展開されうるかということである。もし「話がつながらない」のであれば、それはグルーピングに何か問題があるのかもしれない。
 注意すべきは、この配置に“唯一の正解”はない、という点だ。主観的に配置されるのではあるが、かといって「……完全に主観に支配された不定形のものだということにはならないのである」(p.83 )。
 さて、この段階でも、二つの学習を通じて情報生成が行なわれる。第一に、より大きなグループを作るプロセスでは、第二ステップと同様に、グループがさらに“階層的”にくくられていく。このとき、より大きなグループについての表札が作成されるが、それは、より大きなグループの“創発性”を見出していることに他ならない。第二は、グループ間の関係をどうみるか、それ自体が解釈の結果であるという点だ。グループの関係がどのようなものであるか、その関連性を見出すということは、我々が解釈をしていることに他ならない。つまりデータを意味づけているわけだ。このように、図解のプロセス自体が、意味づけ=情報生成を進展させることになるのである。

第四ステップ「(B型)叙述化」

 このステップは、図解されたチャートを基に、文章(あるいは口頭)による叙述を行なうプロセスである。つまり、図解表現を文章表現に転換するわけである。文章化における基本的注意は「叙述と解釈とを区別すること」である。空間配置のどこから文章化すればよいか、その「手順」がポイントとなる。経験を積んでくると見えてくるとは言われているが、コツもある。第一は、「『図解上隣接的な近さにある情報の処理へと文章化を進めた方がよい』という原則」(p.97-98 )である。第二は、予想した手順に固執せず、途中で変更しても一向に構わないという原則である。なぜなら「……書くことによって理解が進歩し、こうして発展した事態の結果、その後のどちらに書き進んだらよいかということの予想が次々と啓発されるからである」。これは文章化という行為自体が、“学習”を進展させる、つまりデータを扱う側が「いっそう賢くなる」ことである。つまり、データを読む解釈行為というものは、「主体的変化」を生じさせるのである。
 叙述化プロセスの利点は何か。
 第一は、図解化で一見“わかったつもり”であったことであっても、文章化によって論理的整合性がなかったとか、経験的妥当性に欠けるといったことが露わになることがある、という点である。要するに、図解化と文章化は相互チェックの機能を持つものなのだ。図解では“関係がある”ことが判っていても、それがどのようなものかは必ずしも明示的でないかもしれない。反対に文章で読んでなるほどと思ったことも、図解化するとおかしな点が発見できたりする。「それゆえ図解化と文章とは、ひとしく関係認知の方法だといっても、その性質がちがうのである。このちがいゆえに、この両者は、互いに他方の欠陥を補強する力を持っているのである」(p.99 )。
 第二は、主観的解釈ができる点だ。こういった定性的な方法論においては解釈は積極的になされなければならない。解釈を客観的でないとか科学的でないと言って批判する人もいまだにいるようだが、解釈はデータへの意味づけである。注意しなければならないのは、解釈行為それ自体ではなく、「その解釈がデータの公明な叙述に基づいて行なわれたかということこそ、有害な解釈か否かを決するのである。解釈の根拠が不確かなら、そのとおり不確からしく解釈を表現することこそ大切なのである」(p.103 )。
 川喜田は、重要なのは、その解釈が「正しいか否か」ではなく、「その根拠が正直にデータに根ざした発想か否かなのである」(p.103 )と喝破する。

 以上のように、四ステップを一ラウンドとする狭義のKJ法の意味は、学習と情報生成を進展させることである。それを川喜田は「データがわれわれに語りかけてくる」(p.104 )と表現した。この言葉は後に「混沌をして語らしめる」という名言となる。KJ法はそのとき、単なるデータをまとめる知的生産の技法ではなく、野外科学の方法論として意味を持つことになる。次回以降は、KJ法の方法論的特徴をさらに検討していくことにしよう。

◎――――連載4
M式社会学入門

宮台真司

Miyadai Shinji
一九五九年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。現在、東京都立大学人文学部社会学科助教授。著書に『権力の予期理論』『終わりなき日常を生きろ』『自由な新世紀・不自由なあなた』など。

「秩序」とは何か

 社会学の基礎概念を説明する連載も、第四回を迎えました。前回は「システムとは何か」を説明しました。システムとは、一定の環境の下で、複数の要素が互いに他の要素の同一性のための前提を供給し合うところに成立するループ(の網)のことでした。
 こうした概念化によって、環境に開かれることで内部的に閉じたシステム、あるいは、環境に開かれることで上方ならびに下方に開かれたシステム、さらには、システムの全体的作動があって初めて同一性を維持できる部品、といった観念が与えられました。
 この種のシステム概念は、ロボットと違って「一度バラして組み立て直すと元通り動く」ということのない生物有機体を記述する目的で、七〇年代以降に洗練されました。以前のシステム概念は、太陽系を要素間の均衡として記述するような、質点力学的な枠組みでした。
 古い機械論的な枠組みを均衡システム理論、新しい有機体論的な枠組を定常システム理論と言います。前者は、初期状態の設定以降は外部とエネルギーや物質の出入りがなくなる孤立系の状態を、フィードバックを通じた無限波及の結果として記述するものでした。
 後者は、対流や流体の渦のように、外部とエネルギーや物質の出入りがある中で相互依存する要素からなる全体の同一性が保たれるような、非孤立系の秩序を記述します。前者を採用する経済学と違って、社会学は後者すなわち定常システム理論を採用するのでした。
 さて、秩序を「無限波及の落ち着き先」という観念と互換的に用いる(ゆえに秩序概念に固有の負荷がない)均衡システム理論と違い、定常システム理論では今まで無定義で使ってきた秩序概念自体が問題化します。そこでは統計熱力学的な秩序概念が用いられます。
 前回予告したように、定常システム概念と統計熱力学的な秩序概念を同時に理解して初めて、七〇年代以降の社会学が、定常システム理論に依拠することの認識利得を、正しく理解することができます。そこで今回は「秩序とは何か」をわかりやすくお話しいたします。

場合の数の多寡としての秩序

 統計熱力学では、秩序とは相対的にエントロピーの低い状態です。エントロピーとは、与えられたマクロ状態に含まれる、ミクロ状態の違いによって区別された場合の数の、多い(マクロ状態の生起確率が高い)/少ない(生起確率が低い)を表します。
 エントロピーが高いとは、マクロ状態に含まれる、ミクロ状態の違いで区別された場合の数が多いことで、エルゴード性(ミクロ状態の均等な生起)を前提にすれば生起確率が相対的に高く、ゆえに自由エネルギーが相対的に散逸した(仕事ができない)状態です。
 最単純モデルでわかりやすく説明しましょう。今、白玉二つと黒玉二つの計四つを、縦横二つずつ計四つ入る正方形の枠内に並べます(図1)。



このとき「左側に黒だけ、右側に白だけが並んだ状態」「ランダムに並んだ状態」といったものをマクロ状態と言います。
 ちなみに白玉黒玉の玉数がもっと多ければ、「ランダムに並んだ状態」は遠くから見て(たいてい)灰色に見えます。さて「左側に黒だけ、右側に白だけが並ぶ状態」と「ランダムに並んだ状態」とでは、どちらのマクロ状態のほうが秩序立っているでしょうか。
 そこで、ミクロ状態の違いによって区別された場合の数をカウントしてみることにしましょう。白玉二つを1番玉・2番玉として互いに区別し、黒玉二つを3番玉・4番玉として互いに区別します。これをランダムに並べる場合の数は、4の階乗で24通りとなります。
 ところが、左半分に黒玉が、右半分に白玉が並ぶ場合の数は、2の階乗を自乗して4通りです(図2)。すなわち「左に黒、右に白」と「ランダム」というマクロ状態を比べると、ミクロ状態によって区別される場合の数は、前者は4通り、後者は24通りとなります。



 したがってマクロ状態の生起確率を比べると、「左に黒、右に白」は「ランダム」の24分の4、すなわち6分の1の確率で生起することがわかります。このとき、場合の数の多い(生起確率の高い)「ランダム」というマクロ状態はエントロピーが相対的に高いと言えます。
 逆に言うと、場合の数の少ない「左に黒、右に白」というマクロ状態はエントロピーが相対的に低いのです。この状態を「相対的に秩序立っている」と言います。ちなみに「左に黒、右に白」と「左に白、右に黒」との間には相対的に秩序の度合に違いはありません。

システムの内部的作動による秩序維持

 こうした統計熱力学的な秩序概念と、前回紹介した定常システム概念とがどう結びつくのかを概略説明します。定常システムとは、複数の要素が互いに他の要素の同一性のための前提を供給し合うところに成立するループでした。AとB、二つの要素で考えてみます。



 Aの変域が a1,a2,…,an、Bの変域が b1,b2,…,bm だとします。AとBの値の組合せはn×m通り。ところで今、Aがa1のとき次時点でBがb2となり、Bがb2のとき次時点でAがa2となり、Aがa2のとき次時点でBがb1となり、Bがb1のときAがa1となるとします(図3)。
 そうすると、任意の時点でのAとBの値の組は(a1,b2)(a2,b2)(a2,b1)(a1,b1)の4通りとなり、1時点でとりうる場合の数を比較すると、ループが存在しない場合の(n×m)分の4の状態しか現実化できない、つまり場合の数が少ないことがわかります。
 時間的に見ると(a1,b2)→(a2,b2)→(a2,b1)→(a1,b1)→(a1,b2)→…と4通りの状態を循環的に遷移するので、エルゴード仮説の下では任意の連続4時点間で(n×m)4分の4の生起確率で、秩序すなわち確率論的にありそうもない状態が現実化しています。
 かくして定常システムは要素間の交互的条件づけという内部メカニズムの永続的作動で、確率論的にありそうもない状態を維持します。これを「内部的作動による秩序維持」と言います。初期状態が決める無限波及的均衡に注目する均衡システム理論にはない概念です。
 言い換えれば、定常システム(以下システムという)の内部的作動は、確率論的にありそうもない状態を、ありそうな状態から区別して永続的に維持するという課題を負っていることになります。この課題を「システム境界の維持」ないし「境界維持」と言います。
 したがって、システムとは、「内部的作動によって境界維持を行う何ものか」だと言えます。境界維持とは、確率論的にありそうもない状態を、ありそうな状態から区別して維持することですが、これを記述するために、複雑性ならびに複合性という概念が用いられます。

複雑性と複合性、そして認識利得

 与えられたマクロ状態に含まれる、ミクロ状態によって区別された場合の数を「複雑性」と呼びます。エントロピーとほぼ互換的な概念です。秩序とは、先に紹介したように、この場合の数が少ないがゆえに生起確率が低い(相対的にありそうもない)状態です。だから、秩序とは「複雑性の低い」状態です。
 したがって、システムと環境との間には「複雑性の落差」があります。環境は無秩序なので「複雑性が高い」。この概念を使えば、システムとは、「内部的作動によって内外の複雑性の落差を維持する(あるいは内部複雑性を低いままに留める)何ものか」だと言えます。
 おわかりのように、複雑性概念は日常的語感とは正反対です。例えば、生物が高等に進化するほどシステムの「内部構造が込み入って」きますが、そうなるほどマクロ状態の生起確率が低くなる(ありそうもなくなる)ので「複雑性が低い」ということになります。
 日常的語感では、システムの内部構造が込み入ってくることをこそ複雑だと言いたくなります。ちなみにシステム理論では、内部構造が込み入っている度合を「複合性」と呼びます。つまり、日常的に言う意味での複雑性は、システム理論で言う複合性のことなのです。
 もう少し専門的に言うと、複合性とは、システムの記述に必要な情報量のことです。複合性の高いシステムほど複雑性が低い。すなわち、記述により大きな情報量が要求されるシステムほど、マクロ状態に含まれる場合の数が少なく、生起確率が低いということです。
 論理学や集合論の言葉を使うならば、複雑性は「外延的な規定」であるのに対し、複合性は「内包的な規定」です。ちなみに、「2,4,6,8」といった要素列挙を、集合の外延的な規定と言い、「8以下の正の偶数」といった属性記述を、集合の内包的な規定と言います。
 かくして、定常システム概念と統計熱力学的秩序概念を併せて理解することで初めて、最近の社会システム理論の文献を読むと頻出する諸概念、すなわち複雑性・複合性・内部的作動・内外差異(内外の複雑性の落差)・境界維持などの派生概念を理解できるのです。
 その結果、部分の同一性を全体が与えるという前回紹介した認識以外にも、定常システム理論の多大な認識利得が見えてきます。一口でいえば「内部的作動による内外差異の維持存続」というスキームに集約される、時間的なダイナミズムへの注目可能性なのです。
 すなわち、システムの定常性とは、無限波及的均衡に達すれば得られるものではなく、複雑性の内外落差を維持するという永続的な課題に答えるべく内部的作動を永続させる、あるいは内部的作動を永続させるべく複雑性の内外落差を永続させるという、ありそうもない動的メカニズムの中で、辛うじて浮かび上がってくるものだということなのです。

◎――――エッセイ

青木 淳

Aoki Jun
東京大学工学部卒業後、建築家、マッキンゼー・アンド・カンパニーのシニア・コンサルタントとして活躍。一九九一年より、フランスのバンカシュアランス専門企業カーディフ(BNPパリバグループ)の日本代表を務める。

「儲ける」ことは悪いことなのか

 絶望的になるのがこの国の規制緩和です。鳴り物入りでスタートした政府の総合規制改革会議も、病院、学校、老人ホーム、農業などへの民間企業参入は遅々として進みません。
 政治家は一様に、「大事な○△を、儲けを考えるような人たちに任せていいのですか」と叫びます。○△は学校などの公共事業体すべてです。この殺し文句がマスコミすら黙らせるのは、「儲けることは悪いこと」という潜在意識がこの国に蔓延しているからです。
 元建築家の私自身が情けない思いをするのも、建築家たちが「利益」という言葉に過剰な拒否反応を示す時です。実際、彼らがつくるものには、立派すぎる音楽ホールや美術館など、採算を度外視したものも少なくありません。初期投資はともかく、運営費用すら稼げないものもあります。これで本当に長続きするのでしょうか。
 利益や採算性を考えないものには、本当の意味での「顧客の発想」、つまり「バリュー(提供価値)の発想」が欠けています。「儲ける」ためには、とにかく顧客にお金を出してもらわねばなりません。
 それには価格に見合ったバリューが必要です。「ぼったくり」は顧客を失います。「バリュー」と「プライス」(価格)のバランスは、民間企業にとって生命線なのです。そのバランスを意識せずに、事業が長続きするわけがありません。
 病院、学校、農業、文化施設の運営などはすべて、継続することに意味がある「事業」です。右にあるものを左に動かして瞬時に莫大な儲けを得るビジネスとは違います。なんらかのバリューを提供し顧客の満足を得て、対価をいただき、さらに必要な再投資が可能になって、初めて継続的に運営できる。それが、「バリュー・クリエーションのサイクル」、つまり「事業体」の使命なのです。
 そこには本来、公共か民間かの違いはありません。どちらにも事業を継続する再投資の原資は必要です。仮に、顧客がその原資をすべて負担できない場合には、誰がどう分担するかを考えねばなりません。そういう意味では採算性は不可欠なのです。「採算性(=儲け)すら考えない」予算消化主義の公的事業体こそ「大事な○△を任せられない」と言ってもいいくらいです。
 「儲け」という言葉にアレルギーがある方は、「再投資原資」や「採算性」という言葉に換えて、取り組まれている課題を議論していただきたい。「儲け」の一語で思考停止に陥っている余裕は、もはやこの国にはないのですから。

▼青木淳さんの新刊が九月に小社より刊行予定です。

◎――――エッセイ
書店人が選ぶ1冊

中村義則(芳林堂書店池袋店)


『若者のリアル』
波頭 亮・著
日本実業出版社・刊/定価一四〇〇円

 「若者」に対する不満というのは、いつの時代にもあるものだ。現代でもいわゆる「若者本」が数多く出版されている。その中で、なんとなく手にとったのがこの一冊である。
 これまでの「若者本」では、その行動やライフスタイルに違和感を持ちながらも、最終的に社会や大人にその責任があるなどというような、いわば若者擁護論になる傾向が強かった。確かに、社会(大人)にもその責任の一端はあるだろう。ただ、その「彼らは何も悪くない」というような結論だけでいいものか釈然としない感じも受けていた。
 モダニズムが世の中を支配していた時代が過ぎ去り、夢のある未来がかすんできた現代において、「イマ」を「ラク」に生きる若者が現れてしまったのは当然だとも言える。しかし、そんな「自由」と「エゴ」を取り違えた彼らが、やがてはこの国を崩壊させることに繋がるだろうと著者は警鐘を鳴らし、それを回避する手だてを探る。
 本書は、若者に対する批判の書であるとともに、これからの日本社会を担う彼らにむけてエールを贈っているようにも感じた。
 ぜひとも、若者世代にお奨めしたい。

◎――――エッセイ

黒木 亮

Kuroki Ryo
一九五七年生まれ。都市銀行、ロンドンの投資銀行、総合商社英国現法を経て、作家となる。二〇〇〇年、デビュー作『トップ・レフト』がベストセラーとなり、国際的視野を持った経済小説家として一躍注目を浴びる。その他の著書に『アジアの隼』『虚栄の黒船〜小説エンロン』がある。

太平洋に浮かぶ木の葉

 先日、東京に二週間ほど滞在し、「週刊ダイヤモンド」で九月から連載する小説の取材をした。一九八〇年代半ばに邦銀を辞め、米系投資銀行に移籍した日本人が歩んだ道のりを辿りながら、投資銀行を描きたいと考えている。舞台はニューヨーク、ロンドン、モスクワ、東京。今回東京では外資系投資銀行勤務の経験がある日本人金融マンたちを取材した。彼らのほとんどが大手邦銀の出身である。
 日本で外資系金融機関が普通の就職先と認知されるようになったのはここ四、五年にすぎない。それ以前の時代に終身雇用制の繭を破って飛び立った人たちは様々な事情やドラマ、心の葛藤を抱えていた。多くの人が転職直後の心境を「太平洋に浮かぶ木の葉のような気持ちだった。必死で漕ぎ続けるしかないと思った」と語った。とりわけ一九八〇年代に外資に移った人たちにはそういう悲壮感が強い。
 今回会った和製投資銀行マンの中にNさんがいる。私とは二十年以上前に社外の語学研修で知り合った人である。一流の国立大学を出て一流の都銀に勤務していたが一九八〇年代半ばに外資に移った。転職の原因は「第三次オンライン化」である。当時金融自由化や業務分野拡大に対応するため邦銀各行はコンピューターとは縁もゆかりもない行員を大量にシステム部門に投入し始めていた。Nさんも突然そうした部署に異動させられ、何ヶ月にもわたって真夜中まで意にそぐわない仕事をさせられ、ついに我慢の限界に達したのだった。その頃別の都銀の支店に勤務していた私自身も海外勤務の希望が叶えられず転職を考えていたので、ある秋の日の夕方、銀行の自転車を漕いで神田にあったNさんが転職した英国系証券会社のオフィスを見学に行った。Nさんは大きなトレーディング・デスクにすわり、ロンドン本社と連絡を取りながら、「あっ、どうも、Nですぅ〜」といいながら機関投資家に電話をして米国債などを売っていた。その会社は東京ではまだ駐在員事務所だったので、ビルの何階かにあった小さなオフィスに社員は数人しかいなかった。窓の外の街は暮れなずみ、時おり頭上のモニター・スクリーンを眺めながら蛍光灯の光の下で顧客に電話をするNさんの姿は、まさに太平洋に浮かぶ木の葉のように頼りなげだった。
 それから半年くらいして仕事で大手町にある米系投資銀行の東京支店を訪問すると、受付のところにNさんがぽつねんと座っていた。勤務していた英国系証券会社が日本を撤退することになり、失業したので面接を受けに来たという。つい一年前までは大手都銀のエリート行員だったのが一転して失業者である。私は少なからず衝撃を受けた。ほどなくしてNさんはデリバティブで鳴らしていた別の大手米銀に就職した。そこで彼は運を掴んだ。デリバティブ・ブームの波に乗り、人柄の良さと営業センスを遺憾なく発揮して機関投資家相手に収益数億円単位のディールを連発するようになったのだ。
 ファーストクラスでロンドンに出張してきたNさんと再会したのはそれから七年くらい経ってからだ。場所はロンドンの金融街シティにある私の勤務する投資銀行のオフィスだった。Nさんは節税対策を講じなくてはならないほどの大金持ちになっていたが、スーツの上に安っぽいジャンパーを着て現われ、謙虚な人柄は初めて会った頃とまったく変わっていなかった。差し出された名刺にはマネージング・ディレクターの肩書きがあった。そのとき私はといえば、十四年間勤務した都銀を辞め、太平洋に漕ぎ出したところだった。
 それから今日までさらに九年の歳月が経った。その間私は浮いたり沈んだりしながら、なんとか漕ぎ続けた。中央アジアの国々で油田の開発金融をやったり、ベトナムの駐在員事務所を作ったりもした。マネージング・ディレクターにはなれなかったが、念願の作家になれた。Nさんもその後浮いたり沈んだりしながらデリバティブや不良債権ビジネスを手がけ、今も別の証券会社でマネージング・ディレクターの地位にある。私が今回、東京で宿泊していたお茶の水のホテルまでNさんは出向いてくれ、近くの喫茶店でデリバティブ営業について教えてくれた。同じ投資銀行マンでもトレーダー出身者などは言語能力が退化していて取材に大いに苦労させられる人もいたりするが、一流の営業マンであるNさんの説明は痒いところに手が届く懇切丁寧なものだった。一時間ほどみっちり話してくれた後「そんじゃまた。お元気で」と人懐こい笑顔を見せてタクシーで走り去って行った。
 今回取材した和製投資銀行マンたちの中には成功者もおり、そうでない人もいる。しかし全員に共通するのはNさんのように屈託なく自己責任で生きていることだ。邦銀のかなりの行員が今、憤懣やるかたなく鬱屈しているのとは対照的である。「邦銀では自分が何をやるかは組織が決めること。それを自分で決めようとすると『造反』とみなされる。しかし自分が何をやるかを決めるのは人間として最低限のことじゃないですか」。今回取材した人たちの中では最も成功した金融マンの言葉である。組織に命令されない代償として太平洋に漂う木の葉になった男たちは様々なドラマの中を生き抜く。そうしたドラマを描きつつ、読者が投資銀行とは何かをきちんと理解できる作品にしたいと思っている。

※弊社発行「週刊ダイヤモンド」九月六日号(九月一日発売)より「小説・投資銀行(仮題)」を連載開始します。

◎――――エッセイ

北山忍

Kitayama Shinobu
京都大学・人間環境学研究科助教授。京都大学文学部卒。ミシガン大学心理学部Ph.D.。この九月より、ミシガン大学心理学部、および日本研究センター教授。

文化の暗黙知

 今や、グローバルな時代で、文化の違いは遅かれ早かれなくなるだろうといった議論を聞くことがある。しかし、これは間違いである。そして実は、危険ですらある。この点を理解するためには、文化とは何かよく考えてみる必要がある。
 文化とは、ちょうど魚にとっての水みたいなものだ。つまり、文化の規範やルールは、主体当人にとってみたら、ほとんどの場合、暗黙である。なぜ暗黙であるかというと、文化というのは生活環境そのものだからである。そこに適合している限りにおいて、生活環境に気づくことなどない。
 ひとつ例をあげよう。二塁打を放ち塁上にいる少年野球の選手(トムとでも呼ぼう)を考えてみよう。舞台はアメリカである。さらに、次の打者もいい当たりで左中間を破った。スタンドで声援を送っていたトムの母親は大喜びである。興奮して、トムに向かって、“Tom, go home!”と叫んだ。すると、当のトムは、一瞬ためらった後、何を考えたか一目散に駐車場に向かって駆け出したという。
 ホームとは、野球の文脈ではホームベースのことであり、家のことではないということをトム君は理解していなかったのである。このようなルールは言語化すらされていない。まさに、上でいうところの暗黙のルールである。このようなルールの束が野球という行動の環境を作っている。この例は、文化一般に当てはまる。実際のところ、野球自体、文化の一部なのである。文化の暗黙のルールは、人にとっての生活環境そのものを作り上げている。
 暗黙であるが故に、文化は思わぬ結末をもたらすことがある。しばらく前になるが、アメリカの政治学者、サミュエル・ハンチントンが、冷戦後の時代は、文明の衝突の時代だと予言した。その後の世界の動き、たとえば、ボスニア、イラク、中東をはじめとする一連の民族的対立は、この予言がついに自己充足的になってしまったかと思わせる。
 文明の違いは文化の違いである。そして文化の違いは、何を当たり前とし、何を不可避とし、何を日常とするかについての暗黙のルールの束である。当事者ですら、よく理解できていない。ましてや、文化の外のものにとっては知るよしもない。いかなる文化の生活習慣もそれ自身の基準や視点からすれば明白かつ暗黙だが、別の観点からみたら恣意的で、矛盾と自己欺瞞だらけに見える。
 文化的動物としての人間のすることは、環境を形作る文化の基準や価値なしには理解できない。しかし、異なる価値基準を同時に使いこなすことは難しい。とはいえ、一つの価値基準からだけ判断すると傲慢になる。そこで、唯一の解決策は、複数の基準や視点を明白に意識して、それらの間を行き来することであろう。
 このような文化的知性こそが、人類が今、真に目指すべきものであろうと思うのである。

◎――――エッセイ

久恒啓一

Hisatsune Keiichi
一九五〇年生まれ。九州大学法学部卒。日本航空を経て九七年県立宮城大学教授に就任。
著書は『40歳からのライフデザイン』『人生がうまくいく人は図で考える』など多数ある。

図解コミュニケーション革命

 昨年『図で考える人は仕事ができる』を出版し、話題になった。この後、執筆や講演の依頼が殺到し、大きな渦に巻き込まれている。
 まず行政で図解への関心が広がっている。今までも国土交通省・経済産業省・財務省・防衛庁・農林水産省でセミナーや研修を行っていたが、東北地方整備局は東北建設白書を全て図解で作成し始めた。地方自治体でも関心が高まっており、東北自治研修所では県や市町村職員に図解の研修を頻繁に行っている。特に関心が高い自治体は三重県、高知県、宮崎県、秋田県などだ。
 教育分野からの依頼も増えてきた。全国の中学校・高等学校で始まった「総合的な学習」でも図解を取り入れる動きがあり、実際、埼玉県では図解の活用が始まっているようだ。大学においても、例えば慶應義塾大学環境情報学部でも私の所論を講義していると聞いた。また、文部科学省関係財団発行の雑誌『美術教育』には「これからの美術教育」という座談会に招かれた。新指導要領でも漫画、コンピュータ、図が初めて入り、文部科学省からは「図解は美術教育において重要な領域だ」と言われ、驚いた。
 企業経営の面でも関心が高いようで「経営の本質はコミュニケーションであり、そのスタイルの図解コミュニケーションへの変更が経営の革新を促す」という理論を土台に、慶應丸の内シティキャンパスで大手企業の部課長を対象に実践的な講座をやらせて頂いている。また企業の法務部長研修会の講師をした時にも、一年後に花王の法務部長から「図解 取締役ガイドブック」というCD―ROMが届いた。商法改正後の取締役の責任や権限などを図解した労作であった。
 他に「図で地域活性化を考える」というテーマの講演も増え、さらに看護師・保健師・税理士などといった専門家集団からの接触も多い。多くの分野に図解が広がってきたことを実感する。
 かつて「将来は、国語・数学・理科・社会・英語と同列で図解という科目が誕生するのでは」と学生が予言したことがある。しかし最近では、国語は図解で理解し文章が書ける、数学は文章題も含めてもともと図であるし、理科は物理・化学・生物など図そのものであり、社会は因果関係であり図解が馴染む分野でもあることから、図解は全ての教科の基礎技術・岩盤技術になるのではないかと感じている。
 図解革命は応用・適用の段階に入った。大きな波が私の目には映っている。

◎――――連載22

高橋義夫


【前回までのあらすじ】
天明三(一七八三)年夏、浅間山が大噴火を起こす。天災続きで世間には不安が蔓延していた。同年秋、勘定組頭の土山宗次郎が工藤平助という人物を伴って田沼邸を訪れた。工藤は自著『赤蝦夷風説考』を示し、蝦夷地の開拓とオロシヤとの交易を説くのであった。

花簪(はなかんざし)の踊り
小説・田沼意次

 工藤平助は意次(おきつぐ)にとりついでくれと懇願したが、三浦荘司(しょうじ)は、
 「いまは時機が悪い。しばらくお待ちなさい。決して無下(むげ)には斥(しりぞ)けぬから」
 といって、ひきとらせた。
 工藤平助が荘司に面会した間もなく後、天明三(一七八三)年十月十六日に、陸奥国白河城主松平越中守定邦(さだくに)が病気のために致仕(ちし)し、養子上総介定信が白河十一万石を襲封(しゅうほう)した。定邦は、この年五十六歳だが、病気がちだった。致仕して後、木工頭(ものかみ)となり江戸八丁堀の屋敷で療養したが、七年後に六十三歳で没(ぼつ)した。
 定信は二十六歳になっている。襲封の三日後、越中守に任じた。定信が藩主となった年は、東北地方が大飢饉におそわれた年だった。津軽、南部、秋田の被害が長大で、万を単位とする餓死者が出たが、相馬、二本松、白河の諸藩の被害も少なくない。
 これらの地方では、例年三月下旬(旧暦)に種を蒔(ま)き、五月中旬に田植えをする。その年の冬は大雪で、寒さがひとしお厳しかった。種蒔時分に雨が降りはじめ、三日四日の小康があったと思うとまた長雨がつづいた。六月下旬にはふだんは早稲(わせ)が穂を出すところだが、その年にはその色も見えず、夏の土用のころにも、いっこうに太陽が雲間からのぞかずに、単(ひとえ)ものでは肌寒く、みな袷(あわせ)や綿入(わたいれ)で過ごした。
 早稲がようやく穂を出しはじめたのが七月末から八月初めごろだったが、そのころには大風が吹いて倒される稲が続出した。その年の稲は多くは丈が長く、色が濃く、真菰(まこも)のように見え、経験を積んだ農夫は兇作を覚悟していた。稲ばかりでなく、畑の作物もことごとく出来が悪く、大豆などは立ち腐れて引きぬかれた。
 浅間山の噴火の音は白河領でも耳に届き、八月中に大雨がつづくのは浅間の山焼けのせいではないかと、領民はささやきあっていた。秋になり、その年の作柄が各地から伝えられて来るが、比較的地味のよい里郷(さとごう)で半毛(はんもう)ほど、西山郷ではまったく稲が実らず、阿武隈(あくま)郷沿いの成田(なりた)、川辺などの各郷で七分ほど、信夫郡(しのごうり)は壊滅状態だった。
 定信が白河の太守となったのは、飢饉の予兆のさなかだった。襲封の二日後、江戸藩邸の重臣を集めて、このように語った。
 「申し聞けること別儀にてなし。当家累代不如意ゆえ、先々御代より御世話ある上に、御先代もあつく御世話ありて、少しくは勝手のくりまわしもよくなったところへ、だんだんの物入(ものいり)、その上当年の兇作にて、すでに家中の手当も行きとどかず、いずれもはなはだ難儀いたし気の毒なり。右の所へ倹約申し出(いだ)すは本意(ほい)なくあれども、この上またまた天災あるまじきにもあらず、その節にいたり、家中の扶助もできぬと申すにいたれば、当家滅亡同然のこと。そのとき当主の身になりての心底せつなさ、いづれも察しくれ、それを存じて、当時きびしく倹約いたすは、いずれもの為にて、行末は皆々安心いたすことゆえ、そのところいずれもとくと存ずるようにいたせ」
 定信の倹約令はただちに白河領内に触れ出された。

 今度厳舗(このたびきびしく)御倹約を被仰出(おおせだされ)候。何と申(もうす)御ヶ条も無之(これなく)候えども、萬の事昔の通銘々分限に応じ、奢ヶ間敷事無之(おごりがましきことこれなく)、常に酒給(たべ)勝負事をこのみ不相応の衣類、脇差物数奇(すき)をかたくいたし間敷(まじく)、百姓は農業に精出し、差したる地をすこしたり共開き候事、天道の勤(すすめ)仏神の助自(たすけおのずか)ら在之(これある)事にて候。
 大守様、常に木綿の御召物にて朝夕の御膳等一汁三菜にて御身を被為詰(つめなされ)候て、万事御守り強く御家中へも思召(おぼしめし)を御直々被仰渡(おんじきじきおおせわたされ)候。御倹約の儀にかぎらず、御身上を手本にいたし相守(あいもり)候様被仰付(ようおおせつけられ)候。御本意は当年の様成(ようなる)凶年天災、またも有間敷(あるじき)事にも無之(これなく)候えば、左様(さよう)年柄にも御家中、町在とも諸民とも命分(めいぶん)を保つべき御手当を被成置(なしおかされ)、国家長久に安堵致居(いたしおり)、上下楽しみ同じく被遊度思召(あそばされたきおぼしめし)より御身をも苦しめられ候。如斯(かく)なる思召を末々の者〓得(しか)と申聞(もうしきき)、農業は勿論(もちろん)、万端相慎み可相励(あいはげむべく)候。右の通難有事(ありがたきこと)、此上(このうえ)なし思召を常々の様に相心得候ては、天の咎(とがめ)を受身を亡し候事、目前にて某(それがし)どもへ郡中御取計(とりはからい)方厚(あつく)思召の御意を蒙(こうむ)り候内、御慈悲の難有事を申聞遣置(もうしききやりおき)候、心得違(ちがい)の者有之不得止事(これあるはやむをえざること)、御政事に被仰付候ては、それがしどもにおへてなげかわしく存候条、申聞置候。於村々、老若男女〓悉(とてことごと)く合点の参り候様、よくよく申可聞(もうしきかすべく)候。今度計(ばかり)申聞候ては追々成長の者ども不承(うけたまわらず)、或は忘れ勝(がち)なる者に候えば、日待(ひまち)、神事に打寄(うちよせ)候節、幾度も申聞候様に可致候。庄屋役人にかぎらず事
弁(わきま)え候者に申含置(もうしふくみおき)寄々可為申聞(もうしきかすべく)候。
 天明三卯十一月 御郡代

 江戸屋敷で定信が重臣たちに語った言葉が感銘を与え、国許(くにもと)に伝えられたのである。定信のはじめての政(まつりごと)が、倹約令であり、みずからの生活で、綿服と粗食を率先実行することだった。
 定信が白河藩を継いだ半月後、意次の嫡男の意知(おきとも)が若年寄に任ぜられ、官料五千俵を給わることになった。交代の月番は免除されて、なにか上言すべきことがあるときに、内殿に入ることが許される。父子ともに幕政にあずかるのは、異例のことだった。

 勘定奉行の松本伊豆守は十二月になってから、神田橋の田沼邸を訪れた。荘司は人前では伊豆守殿と呼ぶが、若いころの十郎兵衛の呼び名のほうが落ちつきがよかった。
 「浅間の山焼けの後始末で、てんてこ舞をいたした。洪水に山焼けに飢饉と、つぎつぎに悪いことがおこる。こんな年ははやく過ごしたいものですな」
 と十郎兵衛はいい、火鉢で手を焙った。浅間山の噴火で大被害を受けた村々の救援と復興の事業が、十郎兵衛の双肩にかかっている。武蔵、上野、信濃にまたがる被災地の川、道路、橋の修復は領主や代官の手には余り、すべて幕府の負担で着手されていた。
 「先日小耳にはさみましたが、八丁堀の若殿様の評判がよろしいようですな。質素倹約を説いて、家来たちを感泣させたようです。他家でも見習うべしとの声があるそうです」
 と、十郎兵衛がいった。荘司は十郎兵衛と向きあい、表裏を焙った手に視線を落として、
 「倹約して台所が豊かになるのなら、誰でもそういたします。領主が木綿の服を着て鰯の目刺を食べれば兇作がなくなるというものでもありますまい」
 と、吐き捨てるようにいう。
 「手きびしいことを申される」
 「八丁堀からは、襲封以来、しきりにつけ届けがあります。江戸留守居役は、どうしても官位を上げたいと見える。四品(よんぽん)あたりにしてあげようと、主(あるじ)が申しております」
 荘司は皮肉な笑いを浮かべた。八丁堀は白河藩の江戸屋敷である。留守居役から、先代と同じ従四位下を賜りたいとしきりに申し入れがある。意次は望みの通りにしたいという意向だった。
 若年寄となったばかりの意知の前途が、荘司には気になる。恒例の紅葉山参詣に将軍の代参をさせて諸家に重みを周知させようと考えているが、どうやら父の威光を借りて出世したと、幕臣や大名たちの嫉視が強くなるばかりである。松平定信の評判が高くなるのは、意知にたいする反感が作用しているのではないかと、荘司は疑っていた。
 荘司は憂いをはらうように顔を上げて、
 「山城守様(意知)はちかごろ海防のことを御研究になっておられる。先日、勘定組頭が工藤平助なる者をつれて来ました。その折は、『赤蝦夷風説考』なる著書を預かり、主にとりついでくれとの願いは、多忙だと申して帰しました。そのおりに工藤が語った話を、折を見て山城守様にお話ししたところ、いたく御興味を示されて、一度その者に会ってみたいと申されました」
 と、いった。十郎兵衛はうなずいた。
 「工藤平助を伴った組頭は、土山宗次郎でしょう。わたしも土山から、工藤という畸人(きじん)のことはきき及んでいます。彼のことは土山に任せてありますから、もう一度、お屋敷にうかがわせましょう」
 「土山という男、わたしはよくは知らぬが、堅い男のようではありませんか。あれで海防のことや、交易のことがわかるのでしょうか」
 と、荘司がいう。初対面の印象があまりよくなかったのである。それをいうと、十郎兵衛は笑った。
 「田沼様のお屋敷にうかがうので緊張したのでしょう。頭のよい男で、よく研究しております。いってみれば役人らしい役人で、これをやれと上から指示すれば、期日までには仕上げる。いわなければなにもやりません。奉行から見れば、能吏ですよ」
 十郎兵衛はさっそく土山に命じて、工藤平助を呼んで来させると約束した。
(つづく)

◎――――エッセイ

野嶋 剛

Nojima Tsuyoshi
朝日新聞シンガポール支局長。三五歳。三月一〇日から四月五日まで米軍従軍記者としてイラク戦争を取材した。
五月末に『イラク戦争従軍記』を朝日新聞社から刊行。

戦場における記者と兵士の距離

 記者にとって取材相手との距離は近ければ近いほどよい。
 バブル末期の九二年、大量採用された一〇〇人余の新人記者の一人として九州の支局に送り込まれたとき、真っ先にそう教わった。取材相手との距離を詰める作業がすなわち、警察などの取材先に食い込み、ネタを取ることだった。イラク戦争で米海兵隊に従軍したときも、このやり方を変えようとは思わなかった。
 米軍は従軍を英語で「embed」(組み込む)と表現したが、実際、軍の一部として行動する私の周囲には米兵しかいない。当然、仲良くなるしかない。仲良くなることで作戦の進行状況を子細に知ることができるし、それが自分の安全にもつながるからである。
 そのために、いろいろな形で米兵とのつき合い方に工夫を凝らした。

距離を縮める工夫

 軍隊は基本的に排他的な組織で、よそ者には冷たい。三月上旬、クウェートで配属された部隊のテントに入った瞬間、中にいた十数人の兵たちの目が鋭く光った。「どんな奴だろうか」という警戒心をびりびり感じた。「昔、沖縄にいた」などと気さくに話しかけながらも、彼らは私の言動をじっと観察していた。
 私は疲れていても、兵士のブロークンな英語が分かりにくくても、自分から「忙しい」などと言って会話を打ち切らず、ひたすら相手をした。そうすると、組織への不平や家族に会えない寂しさなど、同僚の兵には言いづらいことも私に話してくれるようになった。
 海兵隊の体育会的な体質のことを思い、疲れたとか不便だとか不平を漏らすのは極力避けた。毎日何時間も歩かされたり、寝るために地面に大きな穴を掘らされたりしたが、黙って彼らの指示に従った。これも功を奏し、中隊長からは「アメリカやヨーロッパの従軍記者は文句ばかり言っているが、お前は違うな」とほめられ、信頼を獲得できた。
 最大の効果を発揮したのは電子メールの代筆だった。軍隊には通信用に衛星電話もパソコンもFAXもあるが一般兵は使えない。私はいつも衛星電話から原稿や写真をメールで送っていた。中隊長に「みんなの短いメールを送ろうか」と持ちかけると、翌日から、メールアドレスと「愛しているよ、ハニー」などと書いた紙切れを持って多くの兵が私のところに殺到した。仕事の合間にせっせと送り、返事が来るとパソコンの画面を見せてあげた。望郷の念で胸が一杯の兵士は、家族や恋人のメールを見ると、年配の鬼軍曹すら私の前で涙をこぼした。
 こんなわけで私は米兵たちと良好な関係を築き、最初は拒否された毎朝の作戦会議への出席もいつの間にか許された。彼らの本音もかなり聞けたと思う。
 戦闘に遭遇し、目の前数メートル先をイラク軍の機銃掃射が走った時など、一緒に地面に伏せた若い兵と顔を見合わせて「危なかった」と笑いあった。こうした体験の共有が距離を縮めることにつながったのは言うまでもない。

報道の客観性を保つための距離

 親しくなることと、緊張感や報道の客観性を保つことは別問題である。記事では米軍の戦果を過度に強調したり、米軍の説明を信じすぎたりしないように常に気を遣った。米兵の「美談」もあったが書かなかった。それが私にできる精いっぱいのところだった。
 私は戦争の取材と日常の取材を区別したくなかった。戦争になると、なぜか人はすぐに立場の表明を他者に求め、善か悪かで裁こうとする。だが私は進行中の出来事を自分の視点で記録する者として、拙速に善悪を断じたり、感傷的になったりすることは避けようと思った。また、迷う自分こそ、いまの日本人の姿だとも思った。
 私という個人が従軍という限定された空間で可能なことは限られている。読者にできる最大の貢献は、戦争を起こした米国の兵士たちが何を考え、どう戦っているのかを伝えることだ。背伸びをすれば記事はつまらなくなる。大量破壊兵器の有無や民間人の被害は自分が何かを目撃すれば書くし、目撃できなければ書く必要はないのである。
 私の記事や本を読み、「米国サイドからの見方が多い」と批評した人がいた。国際記者の大先輩である作家の辺見庸さんは、誘拐された人質が加害者に同情的になる「ストックホルム症候群」に私がかかっている、と書いた。
 しかし、私はイラク兵とでも同じことをしただろう。そうしたら「イラク寄り」だと批判されただろうか。
 兵士たちはイラクに侵攻した加害者でもあり、国家に殺人を強いられた被害者でもあった。戦闘を恐れると同時に戦闘に興奮もしてもいた。戦場には立派なヒロイズムもあれば無慈悲な殺戮もあった。四角四面の言葉では断じられない現実を私は否定できない。

戦争と日本の距離

 従軍中、私は日本人であることで得をした。米兵はイラク戦争を支持した日本に感謝し、私を歓迎した。彼らの敵味方の分け方ははっきりしており、フランス人記者は取材拒否などのいじめに遭った。米兵と私の関係もまた、米国と日本の関係から反射を受けていたのである。
 朝日新聞の記者などしていると、この戦争とは一線を画しているという気分になるが、国民としてみれば私は「友好国の記者」である。その現実を突きつけられ、正直戸惑いを感じた。日本人はイラク戦争に湾岸戦争ほど関心を抱かなかったと言われるが、国家としての関与は今回のほうがははるかに深い。そのことに、私を含め多くの日本人はかなり鈍感だったと思う。
 米国を悪く言えることは山ほどある。しかし、米国の戦争を陰に陽に支え、自衛隊まで送ろうという政策が日本の取るべき進路なのか、それとも別の道があるのか、それがいま我々がまず論じあうべき問題だという気がする。

◎――――連載21
ハードヘッド&ソフトハート

佐和隆光

Sawa Takamitsu
一九四二年生まれ。京都大学経済研究所所長。専攻は計量経済学、環境経済学。著書に『市場主義の終焉』等。

いびつな構造改革がもたらす「痛み」

市場主義にとどめを刺した「日本のサッチャー」

 多少古い話になるが、二〇〇〇年五月一四日、小渕恵三元首相は業半ばにして帰らぬ人となった。その約一年後の二〇〇一年四月に発足した小泉純一郎内閣は、「構造改革」という名のもとに、小渕元首相が肝いりで立ち上げた「経済戦略会議」の最終報告書に盛られた市場主義改革の提言を実践することを、その使命にかかげた内閣として、後世の歴史家により語り継がれることであろう。その意味では、小泉首相を「日本のサッチャー」と評しても、あながち過分ではあるまい。
 とはいえ、小泉首相の政策が、市場主義という確固たる思想に裏打ちされたものかと問われれば、少なくとも私自身は首を傾げざるを得ない。なぜなら、小泉氏の構造改革は、銀行のかかえる不良債権の処理、そして膨大な国債残高をかかえる国家財政の改革の二点に尽きるからである。不良債権の処理は「構造改革」というに値しないし、財政改革は構造改革の一部ではあっても全部ではない。
 とはいえ、小泉首相のいう構造改革を市場主義改革と同義であると解する向きが少なくない。じつに皮肉なことではあるが、小泉内閣による構造改革の推進が、日本における「市場主義の終焉」の口火を切ることになったのである。
 要するに、市場主義改革を偽装する小泉内閣の構造改革の有り様を見た人々の多くは、市場主義改革が必要にして十分な改革でないことを、思い知らされたのである。
 少なくとも当初のうち、小泉首相は「構造改革に伴う痛みに耐えてくれ」と私たちに言い続けていた。このせりふは、すべての人々が「痛み」を等しくわかちあうことを前提として、はじめて正当化されるのである。実際、太平洋戦争中、「欲しがりません、勝つまでは」という「痛みに耐える」に近いせりふがもてあそばれたことがあった。しかし、そこには「戦争に勝つまでは、すべての国民が等しく痛みに耐えようではないか」とのニュアンスが込められていた。
 問題なのは、一本槍の市場主義改革がもたらす「痛み」が、国民の多数派である市場競争の敗者に一方的に押しつけられ、市場主義改革がもたらす「効率化」という利得が、少数の勝者に占有されることである。
 小泉首相の構造改革がどんな「痛み」をもたらしたのかを、いちいち列挙することは避けるが、民主主義体制下において、「痛み」の偏在が社会的に受け入れられるはずはない。言い換えれば、「痛み」の偏在がまかり通るのは、民主主義が未成熟なのか、大衆が無知なのか、もしくは情報が隠匿あるいは歪曲して伝えられるのか、そのいずれかを意味する。
 二〇〇一年五月、大相撲夏場所の優勝力士貴乃花に内閣総理大臣杯を授与するために、小泉首相が千秋楽の土俵上に現われた。そのとき、小泉首相は貴乃花に「痛みに耐えてよくがんばった」と言い、観衆の大喝采を浴びた。その後の貴乃花は「痛み」を伴う膝の損傷にさいなまれ、休場を繰り返したあげく、二〇〇三年初場所の九日目、ついに引退を余儀なくされた。
 「痛み」に耐えるということは、力士の場合は身体に、社会の場合は社会的結束に、取り返しのつかない致命的な傷跡を残すのである。
 改革に伴う「痛み」が避けがたいのなら、「痛み」を和らげるにはどうすればよいのか、「痛み」をだれがどのように負担するのが公平なのか、について十分な議論がつくされなければなるまい。

景気回復とは無縁な構造改革

 目下のところ、日本経済は一〇年越しの長期停滞から抜け出せないままでいる。「構造改革なくして景気回復なし」との、小泉内閣のキャッチフレーズの当否については後回しにすることとして、二年余りを経てのちの構造改革の景気浮揚効果はいかばかりなのかと問われれば、「まことにはかばかしくない」と答えざるを得ない。他方、抵抗勢力と呼ばれる与党内の反主流派から、また野党の側から、なんらかの有効な景気対策の妙案が提起されたわけでもない。
 小泉内閣の構造改革の具体的成果といえば、特殊法人や郵政事業の見直し、国立大学の法人化、構造改革特区の創設、医療費の患者負担率の引き上げなど、少なくとも景気回復とは無縁なものばかりである。これまで成し遂げられた小泉改革に共通するのは、歳出削減という意味での財政改革への貢献でしかない。
 その意味で、小泉内閣が推し進めつつある構造改革は財政改革に尽きるといっても、けっして過言ではあるまい。先に、小泉首相を「日本のサッチャー」にたとえたが、サッチャー元英首相の改革は、市場主義という確固たる思想的裏づけを有していた。その貫徹が墓穴を掘る結果を招いたとはいえ、サッチャリズムは、労働党政権のもとで疲弊の極みにあったイギリス経済に、とにもかくにも活力を注入することに成功した。
 ところが、小泉首相の改革は、自由、透明、公正な市場経済をつくるという意味での、市場主義改革の王道を歩むのではなく、財政改革という狭義の構造改革にのみ偏した、いびつな構造改革だと言わざるを得ないのである。

フーバー大統領と小泉首相

 かつて、一九二九年のウォール街の株価大暴落を皮切りに始まった世界大恐慌に際して、フーバー大統領は「緊縮財政なくして景気回復なし」という立場からの施策を推し進め、結果的に、不況をますます深刻化させた。それと同じく、財政改革一本槍の小泉構造改革もまた、景気回復に寄与するところは無きに等しいのである。
 私自身は、構造改革と景気回復を、因果の鎖で結びつけること自体が問題だと考える。現にそうであるように、構造改革を財政再建という狭い意味に解するならば、景気回復こそが構造改革のための必要条件なのであって、構造改革が景気回復の必要条件であろうはずはない。構造改革のメニューは多岐多様である。そのなかには、景気回復に資するものもあれば、景気回復の足を引っ張るものもある。
 日本国政府が対GDP比一三〇%を超える国債残高をかかえ、一般会計の歳出の二一%を国債費(償還と利払い)が占めるという現状を見過ごすべきだ、という能天気な人は一人としているまい。しかし、経済政策の有効性の決め手となるのは、その手順とテンポであることを放念するエコノミストが少なくない。構造改革が先か、それとも景気対策が先かと問われれば、やはり景気回復が先だと答えるしかない。
 景気回復が税収を増やし、財政再建に寄与することは、もとより言うまでもないし、失業率を引き下げることは個人消費支出の増加を誘発する。モノやサービスへの需要の増勢が堅調になれば、民間企業の設備投資も盛り上がりを見せる。と同時に、もっと大切なことは、構造改革に伴う「痛み」を和らげるためにも、景気回復が必要にして不可欠だという点である。
 日本の特異な構造を改革することは、是が非でも必要である。しかし、そのための手順を誤ってはならない。好景気のときこそが、構造改革を「痛み」なしに推し進めることのできる絶好機なのである。本来ならば、一九八〇年代末のバブル経済期に、思い切った構造改革をやるべきだった。ところが、折しも日本経済は絶好調。日本の構造はしきりと誉めそやされ、私のように、日本の構造改革の必要性を主張する者は、まったくの少数派でしかなかった。
 構造改革のメニューには多種多様な改革が列挙されている。それらは相互に無関係ではなく、緊密な相互依存関係のもとにある。それらを、どういう手順で、どういうテンポで実施するのかが、構造改革の成否の決め手となる。手順の誤りは社会的不公正の源泉となるし、テンポが拙速に過ぎれば「痛み」はひどくなるのである。

「排除」のないポジティブ福祉社会を

 三年前、私は『市場主義の終焉』(岩波新書)という書物を刊行したが、当時は市場主義の絶頂期、論証も実証もされていない市場万能主義がまるでマントラ(呪文)さながらに信仰されていた。私は、一本槍の市場主義改革は「痛み」を伴うばかりか、純粋な市場主義社会は多くの人々にとって住みづらい社会となるであろうと考える。とはいえ、不自由、不透明、不公正きわまりない日本の市場経済を「浄化」するための改革、すなわち市場主義改革は必要にして不可欠である。ただし、それは必要ではあっても十分ではない。必要にして十分な改革とは、市場主義改革と「第三の道」改革の同時進行でなければならない。
 「第三の道」改革が目指すところは「平等な福祉社会をつくる」ことである。ただし、平等と福祉を再定義したうえでの話である。平等な社会とは「排除」される者のいない社会のことをいう。失業は排除の典型例だし、今の米国では一七%もの国民が健康保険に未加入であるがゆえに医療サービスから排除されている。公教育の荒廃は貧者の子弟を良質の教育から排除するという意味で不平等の一因となる。これまでの福祉は、高齢者、失業者、病人、身体の不自由な人に生活費や医療費を給付するネガティブ福祉社会であった。これからの福祉は、自分という人的資本に投資するための原資を提供することをその使命としなければならない。その意味で、これからの福祉社会をポジティブ福祉社会と呼びたい。
 排除されるもののいないポジティブ福祉社会を目指す改革が相伴ってはじめて、市場主義改革に伴う「痛み」は大幅に軽減されること請け合いなのである。

編集後記


マーケティング局より…
 先日、妻から「電車の中で子供を抱いて立っていると、席を譲ってくれるのはたいてい若い男の人なんだよね」という話を聞きました。去年、来日したアメリカ人の義理の弟は「どうして日本人は、電車の中でこんなに寝ているんだ!」と驚いていました。
 最近、電車の中で座っている人の様子が変わってきているのかもしれません。音楽を聴いたり、雑誌や書籍を読んでいる人が減ってきて、その代わりに、携帯電話でメールのやりとりをしている人が増えている感じがします。でも、ほとんどの人は寝ています。妻曰く「みんな疲れているのよ。特におじさんは」。おじさんの年齢になった私には、耳が痛い話です。出版社の者としては、もっと活字を電車の中で読んで欲しいなと願っています。そうすれば、出版業界が少しでも元気になるのにと思うのは私だけでしょうか。 (須崎)

編集室より…
 最近、一年半の間に中古マンションを購入し売却するという経験をしました。売却の理由は、分譲マンションというシステムに根本的な疑問を持ってしまったからです。
およそマンションに住みたいという人には、周りに無関心なタイプが少なくありません。ところが、マンションは住民による共同管理が基本ですから、こういう意識の人が多ければ管理がうまくいかないのは当然のことです。それでなくても木造家屋と違って、コンクリートのかたまりであるマンションの構造は、素人が管理するには相当やっかいな代物です。
結局、私はマンション住まいに対する不安を払拭できませんでした。最近は都心の高層マンションが人気だそうですが、いずれ必ずやってくる大規模修繕のことを考えると、他人事ながら心配になります。 (中嶋)
 過日、私用で関西へ。帰りに時間があったので京都国立博物館で催されている「アートオブ・スター・ウォーズ展」を見に東山へ行きました。ジョージ・ルーカスの映画「スター・ウォーズ」は第一作が一九七七年の公開ですからね、もう二六年前! 二六年間のスケッチや模型などが展示されています。第一作冒頭の巨大な宇宙船の模型はすごい。窓が二万ぐらい付いているんですよ。八月末まで京都で。その後、全国の公共博物館をまわるようです。それにしても、国立博物館でやらなくてもねえ。面白かったけれど。それとも、国立博物館で展示することに意味があったのかな。法人化と関係があるのかなあ。
 さて、今月号より経済史家・川勝平太さんによる新連載「球域の文明史」が始まります。グローバルヒストリーを独自の体系で説く川勝史学の集大成になるでしょう。ご期待ください。 (坪井)

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